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今あるものを最大限に活かす その2.0 未来のためにできること 当たり前過ぎて意識しなくなっていること

 常に最先端に身を置くというのが私の信条です。

 だからこそ今あるものを最大限に活かすということを常に意識しています。新しいものに貪欲であるからこそ、新しいものを喰い散らかさないという感じでしょうか。
 それは父母を見てきたからか…

 私の自宅の今あるものを最大限に活かすという意味での昭和モダンの住宅のアップデートの歴史をご紹介したいと思います。

 私が育った都区内の市街地は今となっては道幅は狭く、絶滅危惧種の5ナンバーの車、巾2m未満の車が電信柱を避けながらやっとすれ違いができる程度。それでもモータリゼーションが短期間に進むことを想定いしてない時代としては小型車のフルサイズのクラウンやセドリック・グロリアといった5ナンバーの車が余裕で走れる私道という意味ではマシな方でした。

トヨタクラウン

バンパーが小型車枠に収まるように工夫されている時代
日産セドリック

こちらもバンパーが小型車枠に収まるように工夫されている

 宅地も一区画150m2と50坪弱。狭隘(きょうあい)の極みでした。地続き、並びの貸家にしている土地に至っては一区画100m2と30坪程度。

 宅地開発されたのは戦後間なくの頃で家は平屋建て、南向きに長い廊下があり縁側も。6畳の居間、台所、他に6畳と4畳半の2部屋があり、薪で焚く風呂と汲取式のトイレというの間取りでした。上水道はなく井戸、下水は浄化槽経由で近くの道路の溝(どぶ)までは通っていてそこからは近くの川にそのまま放流、トイレは汲取式でトラックで定期的に回収処理してもらうという何とも昭和の前半らしい景色でした。

 そこから、今ある土地を最大限に活かすということで、私道を公道として寄付し、上下水道が完備されることになるのを切っ掛けに購入から数年経ったタイミングで中古だった上モノを建て替えることになりました。母方の祖父は戦前に勤めていた地方都市の建設会社に復員して再入社。戦後復興の建設ラッシュで全国展開し東京に本社を構えたその会社の技術系役員だったので設計は祖父がしたのでした。
 祖父の自宅の客間に模造紙のような大きさの紙を長方形の机にマスキングテープで止めて、T定規と三角定規を駆使して図面を仕上げていました。

計算は何と計算尺。

 建築が始まると、地鎮祭、棟上げ式、竣工式だけではなく祖父が度々進捗を見に来ることもありの大工さん達は子供ながら緊張感が漂っているのを感じられました。
 今時一般住宅では地鎮祭、棟上げ式、竣工式なんてやらないと思うのですが、時代ですね~。

 当時は、珍しかった2階建て、通し柱が多く大工さんも驚くほどの堅牢な構造設計でした。因みにそれでも祖父は
「地震でどうなるかはわからん」
と、流石は技術屋なので正直でした(笑)

 当時としては天井が高くボックスカーテンに作り付けの家具、総2階ではなく南側は一部屋分開けてあって朝日が楽しめる様な工夫も…
 L字型のキッチンに跳ね上げ式カウンタテーブルの有る台所、8畳の居間に6畳の掘り炬燵(こたつ)と床の間のある和室、12畳の客間、洗濯場兼脱衣所、お風呂場、洋式トイレに6畳程の玄関という1階の間取り。2階は吹き抜けの螺旋階段を上がって、8畳の子供部屋と板の間経由の6畳の和室。和室からは朝日が毎日楽しめました。屋根は瓦ではなくトタンで軽量、しかも明るい灰色というモダンにして粋な家でした。

 ここから昭和40年から始まるあるものを最大限に活かすというプロジェクト、今で言いうリフォームの嵐が始まります。(笑)

つづく
 






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