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小説

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短編/中編小説をまとめました。。長くないのでサッと読めます。
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#毎日note

秋雨、そして上司との昼食

秋雨、そして上司との昼食

 いまだに声の戻らないオフィスビル。会員証を機械に当てれば、無機質な認証の音がホールに響き渡る。耳鳴りがするほどの静けさに若干胸騒ぎが起きつつ、一度目を閉じてその静寂に呑まれる僕は、やはり本調子ではないようだ。廊下を歩いて行くにつれて、窓の外で頻りに降る秋雨もその力を増している。しかし、ここには雨の音など届くはずもない。

 デスクの隅には、薄い埃の層が出来ていた。椅子に座って広い事務所を見渡せば

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収穫祭は遠くとも

収穫祭は遠くとも

 例えば、この秋の冷気が身体に触れたとき、ふいに自らの郷を想ってしまう我が心を、一体だれが責めるというのだろう。窓越しに見えるのはいつしかの紅葉でも、隣に住む幼馴染みの姿でも、畑を耕す叔父の背中でもない。ただ、無機質な建屋が息をせず群れる都市にあって、人混みの中で無数に吐かれた溜息が象徴する、深淵の街「東京」。天候が安定しないのは、皆がやるせない呼吸をするからだ、という叔母のよく分からない冗談を以

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そして、風となる

 八月を過ぎた頃からどうも彼女の歩みは回復傾向にあるように思えた。普段であれば校門を抜けたあたり、スロープの手摺りにまるで齧りつくような執念を以て一歩一歩着実に足を踏み出す彼女だったが、この秋の肌寒い空気においては、その頼りない右脚も引き締まるらしい。歪なリズムを生みながら真っ直ぐ校舎へ進んでいく姿を見て、どこか残念に感じてしまう自らの心は、不謹慎と言われても仕方がなかった。「僕の肩なしでも、教室

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大背徳時代

大背徳時代

 兄の義之とは、長らく疎遠であった。彼が兼ねてより心の拠り所としていた相馬先生の娘、雪子との交際を終えた後、私がその可憐な少女をもてあそぶが如くの扱いをしたことも、原因の一つだと思う。
 決して名前負けをしていないあの色白の肌、声を噛み殺していながら、時折耳に触れる生暖かい吐息、振動に合わせて感じる背中に立てられた爪の痛み......男の独占欲とはいつの世も争いの源となり得るが、それを以てでしか彼

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ベースボール

ベースボール

 生まれつき右手の指を、上手く開けない男。僕の兄は、自らの特徴を説明する際、必ずこの言葉を用いた。誰かを妬む訳もない、また自嘲する訳でもなく語る彼の表情は、ユニフォームのストライプと同様、白い柔らかさと闇の顔が同居しているような、なんとも歪な印象を人に与えたものだった。

 僕がまだ小学生の頃だろうか。嬉しそうにグラブを選ぶ兄と母の姿、そんな光景をつまらなく感じた記憶がある。兄は余程のことがない限

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夏の子ら

夏の子ら

「教鞭を取って三十幾年、私が想像もしない様な時代になったと、日々感じ入る次第ではありますが、まさかこんな事態となるとは......」

 八月も下旬に差し掛かろうとしていた。夏は年々その色を濃くするように、気温と時季を増長させ、各々のシャツを侵した染みが、暑さと連動して幅を広げて行った。
 喫茶店の冷房はぜいぜいと息切れた音を出すのみで、正面に座ったK先生を除けば、手を扇ぎ生温い風に頼る客がその大

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僕が旅する小宇宙

僕が旅する小宇宙

 首筋から鎖骨にかけてを、一筋の汗が通る。それにより目を覚ます僕は、誰にも咎められる事のない小宇宙への切符を手にしたのである。

 普段持ち出すリュックやポーチ、ジャケットなども必要ない。ひとたび軽装に身を包めば、やがて聴こえるあのリズム。風鈴、TV、ラジオに夏風、加えて子供が走る音。廊下で陽気にステップ踏めば、汚れた靴でもなんのその。黒い革靴、嫉妬をするが、お前には少し荷が重い。特に、天気が良い

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フィヨルド伯爵夫人

フィヨルド伯爵夫人

 神戸異人館通りの風景を、高台より望む。当時中学生だった私は、登下校の際、あの白や赤茶色のレンガ、グレーの丸石に彩られた街並みに幾度となく目を奪われた。休みの日、友人と坂を下っていると、一人の女性が西洋造りの屋敷に入って行くのが見えた。友人は「あっ......伯爵夫人だ」と呟く。彼曰く彼女は頻繁にこの通りを行き来している様で、端正な顔立ち、細い身体と青いワンピース という姿を見て誰かが付けた、伯爵

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