講談社と進めていた作品作りでしたが。。。ポシャりました😇 けれどこれで本当に良かったです🙏 先方に非はあらず、むしろ早いレスポンスで誠実でした。 今回己の心持ちに由来するものです。 来週に丁寧に、本心を綴り記事にしたいと思います。 雑事の方がひと段落ついたら話させてください。
〈亡くなった私の父が 今…私の処に居るという話〉 私の父は生前は無口の部類 (母がキーキー煩いから) そんな父は亡くなって直ぐに私に合図したり夢枕に立ったりした 最近母が実家に父の気配が無いという(母は霊とか信じないのに父は特別らしい) 今は私の家にいて私を助けてくれてる
ちょっと辛さを感じてる。有給付与が半年後で休めないのがストレスなのかな? ちょっとモヤモヤ。今度の受診で先生に伝えてみよ
どうせ、私がやっても 出来ないよ。 なんとなくそう思う…。 時間と共に過ぎていく、 仕事の時間…。 明日も、出勤出来ずに さようなら~(ToT)
チェキを持って街を歩くと、こんな家と家の隙間にもワクワクするから不思議。 インスタントカメラだけどカメラを持つ前とカメラを持った後では見える世界が変わりました。 普段なら取るに足らないものでも、カメラを持つと興味の対象になる。小さな変化が僕の中の世界を広げてくれました😆
ふと思ったのだが、自分軸で生きるってどういうこと?一見、「こんな自分でありたい」に基づいた行動をすることのように思えるけど、その意思だって、もともとは"周りから見た時"、こんな自分でありたいってことなんじゃないのか?
過去に追い続けた夢の話を無自覚にきらきらした目でする人が 現在の自分の話になったとたんに ふいに目の輝きが失われて悲しい翳りを帯びてしまう あれがなんかさみしい もう一度立ち上がって 一度きりの人生を悔いのないよう 輝く道を歩みませんか そんなふうに思う 自分にも
周りを見ると みんな何かに恵まれていて 羨ましいと思ってしまう。 隣の芝生は青く見えるだけのこと、 なのでしょうか。
なんか変な霊を呼び寄せてしまった💦 どうしょう…😅
どーも。。。 ぽりぽりぽり。。。(^^ゞ
実の息子はお客様扱い 息子の嫁は家政婦以下の扱いだった 義母 それに全く気づいてなかった 馬鹿嫁 の私。。。😅
決まった道に行こうとするのは 自分から逃げてるだけなのかもしれない 誰も道連れがいなくても 誰も案内してくれなくても きっと 私が歩んだあとに道ができていく 私なりのでこぼこみち それが生きるということなのかもしれない
グリコをしながら遊んでいる兄弟を見ながら、小さな頃って特に何も持たなくても、山を散策したり、岩場を歩いたり、ボールひとつで色んな遊び方したり、落ちてる缶見つけてきて缶蹴りしたりして、十分楽しんでたなぁって思った。できてもできなくても、勝っても負けても、あんまり関係なかった。
人間などと言うものに 完璧なんて無いのだ 親はアホウだし 先生様と崇め奉られていても その実はわからないのだ ただ… 世間一般にはそういうことは教えられない 世の中の綺麗事は綺麗事に過ぎない だから歪みがでるのだ 年齢は関係ない 相手の魂を見抜く力を持とう
待つ事タイミングを合わせる事を 何度も言葉にするのはそれが楽ではないから 生きやすい場で生きる、すぐ動く事を良しとする風潮の中、待つ自分の苦しさや周りに置いていかれるような淋しさもある。 だけどやっぱり エネルギーはいるけど 「待つ」 私は私の感覚を信じたいのだ
ちょっとごめんよ 私は霊魂はあると思っているし 大宇宙の神なる存在もいると思っている 思っているだけで 証明なんてできない でも 世の中の不思議なことは 目に見えないし だいたい 多くの物理学者は 宇宙の神秘の先に神を感じるはずだ と思う ただなんとなく…