#日記
尖ったものを、尖ったままで
noteを再開して数日になる。
歌も言葉も、なんとなく長いこと寝かせている期間が続いて、余計なもの――人がどうであろうと、自分にとって、余計であると決めたもの、がリセットされていることをほんのり願いながら、書いている。
わたしは尖ったものを尖ったままでテーブルに出すのが怖かった。わたしのアイデンティティの原型はそこかしこに棘を持っていて、それが他人や、自分を傷つけていくのが怖かった。
ことばに濾しとられたのちに残るもの
一年前の自分は、他人。
どうやら、「いま」にしか生きられない人間のようなのだ。
幸か不幸かわからないけど。
昔、自分の書いた日記は二度と読み返さない、読み返すのが恐ろしいと思っていた。
その時その時の最大瞬間深度の闇がそこに詰まっていそうで、蓋をしたら二度と開けられない、開けたら大変なことになるような気がしていたから。
だけど、媒体を紙からwebに変えて、それなりに綺麗にまとめる
だいたいのことは、良いようにも悪いようにも取れる
あっうん偉そうだね。意識高そうだね綺麗事っぽいね!!!
自分でも字面を見てそう思った。
しかし、ときにはそんなありきたりな、ありふれた、使い古された、あざといことを再確認してしまったりするものなのだ。
仕方ない。世界は普遍で出来ている。
(関係ないけど、「ありきたり」が「在り来り」と変換されるのを見て始めて「これ古文だったのか」と気づいた)
そして、せめてうまい例えを出そうと考えてまた
書いていたら苦しくて書けなくなった。
そんな日もあるな。
ときどき心が燃えすぎて、愛さえ重すぎて、悲しくなって書けない。
悲しくない解決方法がこの世にある保証もなし、大団円はひとの希望的観測に過ぎない、そういうめでたくない頭が常に頚椎を圧迫している類の人間としては、いろいろと、直視するのが重すぎる。
あー、クリスチャンのくせに救いを信じてないのな、とか、だからこそ祈るしか最後はないわけじゃん、とか、いろいろぐるぐるするけどな。
わたしの情熱とあなたの才能を掛け合わせて。/たくさんたくさん話した日なので、今日は短いです。
歌うように喋った日には、喋った言葉の余韻や、すり抜けていった言葉が部屋の隅に漂っているのを眺めながら、そのくるくると舞う思いを確かめます。目を閉じて。
いつになく、外に心が向いているのかもしれません。
励ましたいです。そう思います。
自分をダメだと思ってしまう人や、自分に自信がなくてうまくアピールできない人や、自分の心を持て余してしまう人や。
私が直接手助けできることもあるのだろうけど、そう
自分軸を、しかも、ひとつじゃなく。
滅法疑り深い性分なので、大体の関係性には「if」の予防線を張り安全ネットをめぐらし機動隊を配備している。
エピソードとしては惜しげもなくペラペラと話すが、私は私の「いま」を掴ませることを相手に開示することはほとんどないといってよい。
話すのは基本的には、過去のこと。過去になった物語についてだ。
イニシアチブはどこまでも自分で取りたいという思いが強いので、大抵のことにはなにかしらのクッションを