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恋心・衝動・きのうの・こと

 「わたし」は恋をしている、と自覚したのはいつだったろうか。。

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 初めて「彼」を見たのは二〇〇三年の五月だった。わたしの隣には夫が居て、わたしたちは、大きな舞台に立って、「歌い」かつ「演奏する彼」を、観ていた。

 「いいね、彼。」

と、夫は言った。わたしも、

「音も声も良いよね。」

などと答えていた。

 「僕たちは、普段は、下北沢のライブハウスで演っています。良かったら、下北沢に来て下さい。」

 「彼」は、壇上から、たしかに、そう、観衆に語りかけた。

 ーー下北沢って。。いやだな。。

 とっさに、わたしはそう思ったことを憶えている。なぜなら、わたしは、大昔に、「下北沢にはもう行かない」と、決めていて、「下北沢」は、わたしにとっては、「存在しない町」だったからだ。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 それでも、それから一ヶ月余り後、わたしは、「下北沢」に、降り立っていた。あの日、壇上から、「下北沢に来て下さい。」と「彼」に言われたことが、どうしても頭から離れず、「下北沢」が気になって、行かなければ行けないような気持ちになってしまったからだった。

 最後に下北沢に来たのは、いつだったのだろうか。もう、二十年以上前だったろう。本多劇場さえ、まだ無かった。そしてわたしは、まだ二十歳くらいだった。

 昔、下北沢には、芝居のための貸衣装屋さんがあって、わたしは、衣装を借りに来ていたのだ。その日降り立った下北沢の街並みは、さすがに、以前に記憶していたものとは全く趣を異にしていた。

 わたしにとっては、「下北沢は芝居の町」というイメージしかなかったのだけれど、知らないうちにライブハウスが増え、「音楽の町」という顔も合わせ持つ町へと変貌を遂げていた。

 わたしが下北沢を避けていた理由は簡単だ。それは、「芝居からは足を洗う」という「覚悟」からである。観たらまた演りたくなるのはわかっているからだった。

 学生時代、「芝居」に夢中だった時期があった。大学の演劇部の、一つ上の学年には、やがて女流脚本家として名を馳せることになる先輩もいた。その先輩の脚本を最初に演じたのは、わたしたちの演劇部だった。

 けれど、「芝居」にのめり込むほどに、日々の生活は「議論漬け」になり、「演じること」が中心となってゆく。

 わたしは、しだいに、学生が「芝居」をすることは、生活の実体を伴わない「机上の空論」に過ぎないのではないか、と考えるようになっていった。

 もっと具体的に、可視化出来るような、世の中のためになることを模索したほうが善策なのではないか、と思えて来て、やがて脚本家になってゆくことになる先輩に、手紙でそのおもいを伝え、演劇部を去ったのだった。

 それでも、先輩が、かつての演劇部の同胞を引き連れて自分の演劇集団を立ち上げ、芝居を打ったときには、駆けつけて、何度か「裏方」をやったりもした。

 けれど、やがて、「裏方」だけの参加でも苦しくなってきて、関わりを持つこと自体をやめてしまった。先輩とはそれっきり疎遠になって、気まずくなってしまったので、活躍しているのを知っていても、わたしから連絡することはなかった。

 そうやって、わたしは、ずっと、「芝居」をイメージするものからは、極力遠ざかって生活してきたのだ。

 それなのに、わたしは、何故か、簡単に「下北沢」に来てしまった。そうして、案内役の夫と一緒に、初めてのライブハウスに、一歩、足を踏み入れようとしていた。

 地下への階段を降りると、暗い室内では、音が炸裂していた。体の中心を射貫かれるような心地がする。「彼」は、本当に目の前で、演奏し、歌っていた。

 ーー会いに来てしまった。

 わたしは緊張して、ドキドキし始めた。
 その日は、気おくれしてしまい、結局、話しかけることが出来なかったことを覚えている。

 前年にファーストアルバムをリリースしたばかりの彼らの「音」を、ライブハウスにまで聴きに来るファンは、まだあまり居ないようだった。

 でも、「下北沢に来て下さい。」という「彼」との「約束」を果たせたような気がして、わたしは、それだけで、もう満足していた。

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「彼」に、初めて話しかけたのは、いつだったのだろうか。。もう、思い出せない。
           
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  気おくれして話しかけることも出来なかったライブから一ヶ月後のこと、わたしは、また、下北沢を訪れて、彼らを観ていた。

 スリーピースバンドの彼らは、三人ともまだ二十代前半で、わたしから見たら、まるで子どもの世代、だった。

 それでも、ボーカルの「彼」には、年齢に似合わないほどの落ち着きが感じられた。曲間のちょっとした「おはなし」では、朴訥な様子で、人生について語りかける。

 わたしは、その当時は、洋楽ばかり聴いていて、あまり日本のバンドには興味がなかった。それでも、彼らが気になってしまったのは、楽曲の「音」の斬新さと、魅力的なボーカルの「声」の切実さとが合わさって、わたしのこころのなかに「何か得体のしれないもの」が伝わってきたからだった。

 ボーカルの「彼」の「声」は、唯一無二で、とにかく圧倒的だった。「良い声」というだけでは言い表せない。いくつもの、矛盾した「感情」が同時に現れ、一つにまとまりながら迫ってくるような、そんな「声」なのだ。

 その「声」を浴びると、わたしの「感情」も呼応してしまう。そして、自分でも気づいていない「感情」までもが、炙り出されてしまうのだった。その頃の「彼」は、自分自身の、「失ってしまったもの」や「後悔」について、「歌」のなかで嘆いていた。

 やがて、ライブで「彼」の「歌」を聴くたびに、わたしも、自然に、自分自身の「失ってしまったもの」について考えるようになって行った。それは、ある意味、一種の「自分探し」なのだけれど、あまり楽しいものではなかった。

 それでも、わたしは、どうしても、その姿勢を止めることが出来なかった。それに、強く魅入られてしまっている「彼」の「歌」を、聴かないという選択肢は、現れるはずも無かったのだ。

 真っ暗なライブハウスの片隅に、わたしは立つ。ライブが始まる。舞台上で、三人が位置に着き、前奏が始まる。三人の「音」が炸裂する。そして、「彼」の「歌」が、はじまる。すかさずわたしは、目を瞑り、「彼」の「声」が導くままに、自分のこころのなかに降りて行く。

 「彼」の「歌」を聴いて、感極まって、「すすり泣き」をしているファンも、必ず一定数はいた。でも、わたしは、泣いている場合ではなかった。

 「彼」の「声」は、どんどん、容赦なく、わたしのこころの奥の奥まで降りてくる。そしてわたしの「失ったもの」を探ろうとする。わたしは、「彼」の「声」のパワーに抗わずに、その「声」が探り当てるもの、を見極めようとするのだった。

 「失ったもの」を見つけるためには、こころのなかに置き去りになってしまっている「忘れたい思い出」と向き合わなければならない。「失ってはいけなかったのに失ってしまったものたち」は、「忘れたい思い出」のなかにあるはず、なのだ。

 「彼」の呼びかけから始まった「下北沢」との再会だったのだけれど、最初はおそるおそる訪ねていたライブハウスは、もう、夫の案内も要らなくなり、いつの間にか、わたしの生活の中心に位置するようになっていった。

 「ライブ」で鳴らされる音は生きていて、「一期一会」であることを知ってしまったわたしは、「好きな音」や「表現」を探して、貪欲に、いろいろなバンドのライブを訪ねるようになった。やがて、「下北沢」のライブハウスはもちろん、「渋谷」や「新宿」、「高円寺」、「高田馬場」、「三軒茶屋」、それに「熊谷」や「柏」、「千葉」までも足を伸ばして、様々なライブハウスを訪ねるようになっていった。

 聴きたい音楽も、ポップなラブソングからハードコアや音響系まで、多岐になっていた。その頃のわたしは、仕事を終えるとそそくさとシャワーを浴びて、週の大半を、いろいろなライブハウスで過ごしていた。

 観たライブは、一年間に二百八十本以上にも上った。夜ごと好きな「表現」を探しに行く生活を送っていたのだ。もう、三十年近くも、「表現」というものから遠ざかっていたわたしは、激しく、「表現」を渇望していたのかもしれなかった。

 それでも、わたしのこころの奥底まで降りてくるような「声」の持ち主は、「彼」だけだった。だから、わたしにとって、「彼」のライブは別格のものであり続けたのだ。

 二〇〇四年六月、彼らはセカンドアルバムをリリースした。それにともなってツアーを行ない、様々なライブハウスに出演したので、わたしは、出来る限り追っかけた。近隣はもとより、地方までも追いかけて行った。

 その頃の彼らは、着実にファンを増やしていて、物販では長い列が出来るようになっていたので、初期からのファンのわたしも、あまり、長くは話せなくなっていた。

 彼らにはライブ後のアンケートというものがあったので、わたしはその都度、話せなかったことも交えて、感想を書いた。そのうち、アンケート用紙だけでは書ききれないほどの、様々な感想がもたげてくるようになり、わたしは、しだいに、「彼」に、「手紙」を書くようになっていった。

 それは、迷惑だったかもしれない。けれど、わたしは書かずにはいられなかった。「彼」が、自らのこころのうちをさらけ出すような「曲」を描くので、わたしもまた、しだいに、自分のこころのなかで起こっていることを「表現」して、「伝えてみたく」なってしまったのだった。

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 ーー「わたし」は、「彼」に恋心を抱いている。。

  そう自覚しだしたのは、二〇〇四年の初冬、あたりだったかもしれない。それは全くもって不可思議な、ありきたりではない恋心だった。

 なぜなら、それは、「わたしであってわたしではない存在」がしている「恋」だったからだ。。

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 「下北沢に来て下さい。」という呼びかけから始まった、わたしの、「失ったものを探す旅」は、正念場を迎えていた。

 どんどん容赦なくわたしのこころのなかに入り込み、奥底まで降りて行く「彼」の「声」が、最終的に、わたしに示して来たものは、「芝居を棄てた若いわたし」だった。。

 その子は、長いあいだ、わたしのこころの奥底の、「忘れたい思い出」のなかに、捨てられたように置き去りになっていたのだ。

 真っ暗闇のなかで、その子はずっと怯えていたのだろう。奥底まで降りて行った「彼」の魅力的で優しげな「声」は、怯えたその子を、優しく包み込んだ。

 「芝居を棄てた若いわたし」は、必然的に、見つけてくれた「彼の声」に、まっすぐに「恋」をしてしまった。

 とてもとても「彼の声」が「愛しい」し、激しく「彼の声」を「想っている」のだけれど、「愛している」とは、決して「告白」出来ない「恋」だった。

 それは、現実的には、実体のない、「妄想に満ちた恋」だったからだ。。

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 二〇〇四年のクリスマス・イヴのこと、わたしは、彼らのホームとも言える下北沢の某ライブハウスで、或る「伝説のライブ」を観ていた。今はもう、亡くなってしまった、「七十年代の伝説のロッカー」のライブだった。

 わたしのこころは、その夜、七十年代の記憶で一杯になった。「音楽による自己表現」というものが、まだ、わたしたちの「日常」に寄り添っていられる時代ではなかった頃に、そのような「表現」を「模索」していた「伝説のロッカー」は、苦労をしたのか、年齢以上に年老いて見えた。

 ライブには鬼気迫るものがあったけれど、その人は、今だ、七十年代に居るかのように、わたしには見えた。普段はめったに泣くことなど無いわたしは、その姿を見て涙が溢れた。

 舞台に立つその人と「自分」は、同じ時代に、「表現」を思いながら生き、時代に翻弄され、今もまだ、時間のなかで「迷子」になっている、と感じてしまったのだ。

 同情とか共感とか、そんな簡単なものではない、複雑な感情が、わたしのこころに渦を巻いた。

 地下からの階段を登って、ライブハウスを出ても、わたしは、現実に戻ることが出来なかった。空を見上げ、星を見つめても、こころは晴れなかった。

 その刹那、わたしのこころのなかに、いきなり、「実は自分はどこにも存在していないのではないか」というおもいがあらわれた。突如あらわれたそのおもいに、わたしは、押しつぶされそうになったのだ。

 現実の景色が、何故か現実に見えない。わたしはどこに居るのだろうか、とさえ感じてしまう。わたしの肉体は、たしかにここに在るのだけれど、わたしの「こころ」は、どこに「存在」しているのか、わからなくなってしまったのだ。

 「こころ」が分離し、「今のわたし」と、「過去のわたし」とが、その存在をかけてせめぎ合っているように思われた。

 もう、存在していないはずの、「芝居を棄てた若いわたし」のおもいが、忽然と、こころの真ん中に顕れ、今「幸せそうなわたし」を呪っている。。とっさにわたしはそう感じて、怖ろしくなった。

 「表現」をしたかった「若いわたし」は、もはや肉体を持ってはいない。肉体のない存在が、叶わぬ恋をして、そして、今、肉体を持つ「わたし」に「嫉妬」している。。わたしは、そう、思った。

 もう、取り戻すことの出来ない「失われた時間」に、わたしはめまいを覚えた。わたしが失ったものは、「若いわたし」が「表現をする時間」だったのだ。

 その夜は、逃げ帰るように家に帰り、恐ろしさに震えながら、一夜を過ごした。
    
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  年の暮は迫っていて、日々は慌ただしかった。仕事も忙しかった。けれど、「若いわたし」が、隙あらば「幸せそうなわたし」を殺そうとしているのではないか、という妄想に取り憑かれたまま、わたしは日々を過ごしていた。

 ほどなく、幕張のカウントダウンイベントが始まった。好きなバンドがたくさん出る大晦日のチケットを、わたしはとっくに入手済みだった。もちろん「彼ら」も出演する。

 わたしは、内心、「殺されそうな妄想」と闘いながら、一人、幕張に向かった。息をするのも苦しかった。武蔵野線のホームから、線路に落ちてしまっている自分が、確かに見えるのだ。

 ーー落ちてなどいないのに、落ちてしまっている。。

 「若いわたし」が、そこで、にっこり笑ってこちらを見ているように思われて、わたしはますます怖ろしさに震えた。

 それでも、幕張の夜は素晴らしかった。「若い表現」に溢れていた。お目当てのバンドは、時間が重なることなく観ることが出来たし、フードコーナーや休憩のシートも充実していて、日本の音楽シーンもここまで来たのだなぁと、わたしは感慨深かった。「幸せそうなわたし」は、文字通り「幸せ」を感じていた。

 ただ、そんな時でも、「若いわたし」の視線は、「幸せそうなわたし」を、絶えず攻撃し続けていた。「いのち」を奪いかねないほどの「衝動」を抱えたまま、「若いわたし」は、わたしのこころの真ん中を、「失われた時間」と共に占拠しているのだった。

 そんななか、彼らのバンドのライブがはじまった。いつものライブハウスよりは、ずっと大きな会場で、高い舞台から、「彼」の「声」は降ってきた。「音」も降ってきた。

 タイトで激しく、熱いけれど、優しく歌に寄り添うドラム、エモーショナルでサイケデリックでキラキラ響くギター、メロディックにうねる、太いベース、そして、圧倒的な「彼」の「声」。。

 それらは一つに合わさって、転がるように幕張の会場に響き渡った。心地良い。わたしは、しばし、囚われていた妄想と恐ろしさとを忘れた。

 そう、忘れることが出来たのだ。それは、「幸せそうなわたし」に嫉妬する「若いわたし」も、夢中で「彼」を見つめていたからに違いなかった。

 わたしと「若いわたし」とは、「彼」の声が鳴っているうちは、争わずに居られるのだった。

 やがて会場では、カウントダウンが始まり、ニ〇〇四年は終わりを告げ、二〇〇五年がはじまった。あちらこちらで、若い人たちの歓声が響いた。

 わたしは、午前四時過ぎの最後のアクトまで観て、帰宅した。心地よい疲労感はあったけれど、やはり、どこかで、まだ、わたしは、「若いわたし」を恐れていて、武蔵野線の線路に落ちませんように、と祈りながら帰路に着いたのだった。

 帰宅すると、渋谷でカウントダウンライブを観て、年越しをした夫と娘たちは、もう、先に寝入っていた。

 ーー新年ね。。

 小さくため息をついて、「幸せそうなわたし」も床についた。

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 「若いわたし」は、その後も、折に触れ、ふとした時に顕れ、今の「幸せそうなわたし」を脅かし続けた。

 にっこりして、挑発してくる。。

 「彼」の「声」が、こころの奥底にまで降りてくることを面白がって、怖いもの見たさで探ってしまったのがいけなかったのだ、と、わたしは反省していた。

 暴き出してはいけないものを暴き出してしまったのだ。

 「若いわたし」の「恋」は、真剣そのものだった。存在していないのは「若いわたし」の方だというのに、こころのなかの「若いわたし」の存在が強すぎて、存在しているはずの「幸せそうなわたし」が、ふわふわしてしまっている。だからとても頼りない。立場が逆転してしまっているかのようなのだ。

 二〇〇四年のクリスマス・イヴに観た「伝説のライブ」以来、時のなかで「迷子」になってしまった「幸せそうなわたし」は、寄る辺ないおもいに駆られて、夜の下北沢を、ただ徒に歩き回った。どこに身をおいても、自分が確固として存在しているという実感が持てないのだった。

 この不可思議な「恋」を、どのように扱えば良いのだろうか。。「わたし」は混乱するばかりだった。

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 それでも、すべては、「わたし」のこころのなかだけで起きていることなので、どんなに葛藤があったとしても、表面上は、何も変わらぬ「わたし」がひとり、存在しているだけなのだった。

 「わたし」が「恋」をしているかのように見えてしまっているのだとしたら。。

 この理不尽さは、説明のしようがないのだ。たとえ言葉を尽くして説明したとしても、笑われそうだし、解って貰えそうにない。。

 そんななか、「彼」の弾き語りライブにも、バンド仕様のライブにも、「わたし」は、「恋」の理不尽さに苦しみ、混乱しながらも、相変わらず通い続けていた。

 ライブの感想の「手紙」も、「彼」に手渡し続けていた。ライブの感想だけでなく、「彼」の「声」がわたしのこころの奥底にまで降りてきて、「わたし」の「失ったもの」を見つけ出したことを、ストーリーにして書いたりもした。

 どれだけ苦しくても、「わたし」は、気づいてしまったことを、やはり、「表現」して、「彼」に伝えたかったのだった。

 そのうち、「わたし」が「手紙」のなかで書いたストーリーに対する「アンサーソング」なのではないか、と思われるような新曲が、いくつか発表されてきた。サードアルバムに向けて、「彼」は新曲を作っていたのだ。

 アーティストが、何を思って曲作りをするのかは、全く自由だし、答える義務も無いから、わたしも何も質問することは無かったのだけれど、それでも、なんとなく嬉しかった。わたしは、それらの楽曲を、勝手に「アンサーソング」と思うことにした。

 「存在しないはずのもの」が「存在しない空想の世界」で出逢うといった風の「新曲」は、バンドバージョンになった時には、サイケデリックなギターの「音」に乗って、不思議に新しく響いた。

 それらの「歌たち」は、文字通り、「わたし」にとって、「宝物」になった。そして、それは、「若いわたし」にとっても、同じことだった。「表現する時間」を失って暴走している「若いわたし」の溜飲が少し下がって来たように、わたしには感じられたのだ。

 「若いわたし」は、その昔、どんなにか「表現」したかったことだろう。その「失われた時間」と「失われた表現」に、わたしは、おもいを馳せた。そして、そんな「若いわたし」を亡き者とした「わたし」の傲慢を思った。

 ーー「若いわたし」は、「幸せそうなわたし」に嫉妬していて、報復として、今度は「幸せそうなわたし」を亡き者にしようとしているのだ、と、ずっと思い込んで来たけれど、それは違うのかもしれない。。

 ふと、そんな考えが浮かんだ。

 ーー「若いわたし」は、実は、今のわたしに、認められたいだけなのかもしれない。自分もまた、「幸せそうなわたし」の一部なのだ、と分かってほしくて、存在を主張し、暴走しているのだ。わたしは彼女を曲解して、ただ徒に恐れていただけなのかもしれない。。もし、そうなら。。

 ーー「愛するということ」を、わたしは、今こそ、「若いわたし」に、向けなければいけないのではないか。。

 そこまで気づいたとき、挑発的に睨んでいた「若いわたし」は、わたしを見て、安心したように、「にっこりと笑った」ように思えた。そうして、その瞬間に、「若いわたし」はすうっと消えて、わたしと一体化したように感じられたのだ。それまでの苦しい葛藤は、嘘のように消えて行った。

 わたしは大きく深呼吸をしてみた。息をすることが、急に楽になったような気がしたのだ。

 「若いわたし」の暴走は終わりを告げ、わたしは、自分が確固として「存在している」という実感を、ようやく取り戻すことが出来たのだった。

 「告白」することの叶わない、衝動的で激しくて苦しくて不可思議な「恋心」も、自然に、平熱へと戻っていった。

 「芝居を棄てた若いわたし」は、「幸せそうなわたし」のなかで肯定されて、 こころの真ん中で、ゆったりと、呼吸をしている。。

 わたしは、ずっと昔に忘れてしまっていた、自分自身の「全体性」を体感していた。片肺だけの呼吸は、ようやく終わりを告げ、わたしは、「本当のわたし」を取り戻せたのだ。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※

 二〇〇五年八月、わたしは八戸に降り立っていた。わたしが勝手に「アンサーソング」と思っている曲たちを、いろいろな土地で聴いてみたいと願い、今まで行ったことの無い土地にまで、足を伸ばしてみたのだ。

 夜行バスで、早朝に八戸に着いたのだけれど、会場までの道がさっぱりわからない。方向音痴のわたしは途方にくれた。夜はとっくに明けていた。それでも時間的に早過ぎて、歩いている人さえいない。おまけに駅も無人駅なのだ。しばらくウロウロしていたら、ようやく一人、散歩しているおじさんに出会った。駆け寄って道を聞き、やっと会場まで辿り着いた。あのときの心細さは忘れられない思い出だ。

 会場は海のすぐ近くで、市場の前にあった。抜けるような真夏の青空が、どこまでも広がっていた。会場で会った「彼」が、わたしを見て、照れたように笑ったことを、一番に思い出す。「彼」も「わたし」も、今よりずっと、若かった。。遠い遠い記憶だ。。

 あの場所で聴いた「歌」は、今もこころに残っている。人生最良の日とは、あんな日のことを指すのかもしれない、と思えるほど、すべてが素晴らしかった。

 「彼ら」に出逢わなければ、行くことも無かった土地だったろう。

 二〇〇五年十一月、「彼ら」はサードアルバムをリリースした。それにともなうツアーも、わたしは、出来る限り、追っかけた。

 いろいろな土地で、わたしは、「アンサーソング」を聴いた。本当にワクワクしたし、嬉しかったし、楽しかった。その土地なりの空気感や、観客の雰囲気の違いは、曲が伝えて来るものを変える。気付かされることも違ってくるのだ。

 「下北沢に来て下さい。」の呼びかけから始まったわたしの「こころの旅」は、苦しいこともあったけれど、わたしのこころを、様々に開放してくれた。楽に息が出来るようにしてくれた。そして、わたしを、たくさんの、知らない土地へと誘ってくれた。

 サードアルバムは、幻想的な楽曲も多かった。ギターの、個性的で職人芸的な音作りが、光っている。

 ボーカルの「彼」の、一見優しそうでありながら、不機嫌そうにも感じられる、矛盾に満ちた複雑なその「声」は、ギターのサイケデリックな彩りがあってこそ伝わって来る、とわたしは思っていた。

 ギターの「音」は、「声」を彩るだけでなく、「声」のおもいを、幻想的な世界へと誘い、響かせ、伝わりやすくする、と感じていた。

 彼ら三人の、緊張感に満ちた「音」のせめぎ合いは、あの頃、わたしの世界の中心で、当たり前のように鳴っていた。

 わたしは、彼らを、そのままずーっと応援し続けたいと願った。

 けれども、「彼ら」との蜜月は、突然に、悲しい終わりを迎える。

 その後の「彼ら」には、いろいろなことがあり過ぎた。バンドの運命だったのか、それとも避けることが出来たはずの悲しみだったのか、もう、誰にもわからないことだろう。

 わたしに分かることは、ただ、大好きだった「音」が、ある日、突然に消えてしまった、という悲しい事実だけだ。そのことがあまりにも悲しすぎて、わたしは、自然に「彼ら」のライブに足を運ばなくなってしまった。

 発表されたアルバムは、ファンとして買い続けたけれど、以前の「音」にこだわり過ぎたわたしは、聴き続けることが出来なかった。

 「彼」はずっと活動を続けていたのに、わたしの時間と「彼」の時間は、もう「きのうの・こと」になってしまっていたのだ。

 手に取ることも無かった最後にリリースされたアルバムを、それでも、最近になって、わたしは、この文章を書くために、ようやく聴いた。

 聴いてびっくりした。

 最後のアルバムの「彼」は、しっかり前に進んでいたのだ。年齢を重ねた人にしか出せない「音」をつかんでいたし、伝える「声」も「歌」も、苦しみを超えた先に掴んだものによって、「侘び寂びの域」に達しているのに、相変わらずに「ピュア」で圧倒的だった。

 わたしのこころの「匣」は、もう、とっくに開いてしまったけれど、「彼」の「匣」はどうだったのだろうか、と、ふと、思った。

 大きな気付きと、人生最良の日をくれた「彼」が、どうか、幸せでありますように、と、わたしは、ずっと願っている。
























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