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エッセイ・コラム

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#言葉

記事の捏造は他人事にあらず

記事の捏造は他人事にあらず

記者として仕事をしていると、時々デスクを中心に「無理のある注文」がやってくることがある。

デスクはデスクで編集部の偉いおじさんから「この情報はないのか」「これをいれろ」とか言われて我々記者をせっつくことになるのだが、時に「これはさすがにちょっとな」というケースもある。
取材先の方にはそのたびに「これこれこういう事情がありまして」と説明してなんとか先方に納得してもらうわけだが、いざ記事が出てみても

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「好き」の原体験を探る

「好き」の原体験を探る

そういえば、ことあるごとに文章を書くのが好きだ好きだと言って憚らない私だが、そもそも文章を書くのが好きになったきっかけはなんだったのだろうか。

仕事をする前、大学の時分には暇を持て余してつたない小説を書いたことがあった。どれも陰鬱な作品ばかりで小説とは人間性がよく出るものだと我ながら感心したものだが、同時に小説を書く作業というのは苦難以外の何物でもなく、おそらく私には向いていないのだろうと半ばあ

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たくさんのことばは、こころのなかに

たくさんのことばは、こころのなかに

きわめてどうでもいい話だが、私はあまり饒舌なほうではない。
それゆえ、いろいろしゃべった数時間後なんかに「あれ言っておけばよかったな…」と後悔する日々を常に送っている。
幼少期にも口げんかをして(大体負ける)、寝る時間なんかになると「そうか、あの時ああいえばこうなったな…」と悔しい思いをしたことは一度や二度ではない。

「氷山の一角」ということばがある。ぴょこっと氷山が海から出ているが、実はその海

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文章を書くのは確かに気持ちいいけど、もっというと脱稿の瞬間も気持ちいい

文章を書くのは確かに気持ちいいけど、もっというと脱稿の瞬間も気持ちいい

以前取材先の人から「文章を書いて世に発信するって僕にはできないです、自分の書いている文章を自分で読むのがなんだか恥ずかしいので」と言われたことがあった。なるほどなあと思いつつ、私は自分の文章を誰かの前に晒すことに何ら抵抗がないという事実に気づいた。

厳密にいうと、文章を晒すことが恥ずかしいとか恥ずかしくないというより、文章を書くことの快感がある状態なのだろうと思う。
そんな気持ちの良い状態を経験

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「ポロリ」を哲学する

「ポロリ」を哲学する

ときおり、YouTubeなんかで「女性タレント○○のポロリ!」といった品の無いタイトルの映像がある。
私もあきれ返りつつやましい気持ちは一切無いなかで念のため見てみると、どう見ても「ポロリ」はしていない。

こうした事例に触れるたび、「ポロリ」という言葉が間違って使われているように思えてならない。「ちょっとはみ出した/ちょっと出た」ことをなんでもかんでも「ポロリ」と表現している。
以下に触れる本当

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ネットで人の文章を読める時代になって

ネットで人の文章を読める時代になって

私がはじめてパソコンに触ったのは小学生5~6年生くらいのときだった。
家に「Windows XP」というOSのパソコンが届いたのを覚えている。パソコンの性能も通信環境も悪く、今のようにサクサク動画を見ることは難しい時代だった。
SNSもInstagramなどはなく、パソコンでやることと言えば当時流行していた「Flashアニメ」を見るかヤフーニュースを漁ることくらいしかなかった。

インターネットと

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けばけばしい化粧をしたニュースと、その中にあるすっぴんの事実と

けばけばしい化粧をしたニュースと、その中にあるすっぴんの事実と

三が日というのは毎年穏やかな時間が過ぎ、昨年の振り返りをしたり一年の目標を立てたりするものだが、2024年は元日に大きな地震が北陸に起き、2日は不幸な事故で飛行機が燃え、3日は小倉で商店街が燃えた。過去振り返ってみても類を見ないほど大きなニュースが多い一年のスタートになったと思う。

マスメディアの報道を見ていると「いやはや…」という気持ちになるのだが、世の中の人の中には「まあ別に関係ないし…」と

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人生をどう生きるべきかーー答えは自分の中にある(と思う)

人生をどう生きるべきかーー答えは自分の中にある(と思う)

2年ほど前に鬼籍に入った石原慎太郎氏の「『私』という男の生涯」という本を読んだ。
この作品は死後に発刊されるものとして書き下ろされた本なのだという。それだけに氏が死に刻一刻と近づくなかでどのように死を眺めてきたのかをうかがい知れる本で、なかなか興味深かった。

本のはじめの方に「自分を忘却してしまって死ぬのだけは嫌だ。そんな風に終わる人生なんぞ、結局虚無そのものではないか。忘却は嫌だ。何もかも覚え

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文字がうつす人柄

文字がうつす人柄

銀行員時代はほとんど友達を作らなかった私だが、2~3人仲の良い友達がいた。
そのうち一人は実直な仕事ぶりが経営陣に買われ、ある時会社のPRムービーに出ることが決まった。仕事をする様子を撮影したというので、先んじて見せてもらうと、なるほど彼の実直な仕事ぶりがよく描きあげられている。
ただ、最後に彼が自筆で記した自分の名前がどんと画面の中央に映ったとき、彼の文字が(丁寧なのに)下手すぎて、一緒に見てい

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美しい日本語は歌の中に

美しい日本語は歌の中に

以前友人から「海外からみると日本の歌は変だ。なぜなら日本語で歌っていたのにいきなり英語を歌い出すからだ」と言われたことがあった。
個人的には「なじんでいればそれでいいじゃないか」と思いつつ、洋楽で日本語を歌いだされたら若干の違和感はある。その逆みたいな感覚なのだろう。
有名なものだとQUEENの歌で"Teo Torriatte"(手をとりあって)というものがあるが、日本語ネイティブの立場から聞いて

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報道とは、社会の日記をつけること

報道とは、社会の日記をつけること

「8月ジャーナリズム」という言葉がある。
毎年8月になると堰を切ったように平和や戦争に関わる報道が目立つようになることを指す言葉だ。ともすると「毎年毎年、また同じようなことやってるよ」というマンネリ感を揶揄するニュアンスもある。

確かに、物心ついたころから漫然とテレビを見ていると、8月の夏休みには決まって戦争や平和に関わる報道が流れていた。子供からみて別段面白いものでもなかったが、どのチャンネル

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言葉を捨てられる成長を

言葉を捨てられる成長を

大学の時分、「本を読まない文系は死んだ方が良い」という言葉を残した中国文学の先生がいた話を以前したことがあった。
個人的にその先生は結構好きでちゃんと講義にも通っていたのだが、講義中にある漢詩を紹介してくれた。

作者もタイトルも忘れてしまったのだが、内容としては「若い頃に書いた文章は年を重ねるとその未熟さを感じ、全て捨ててしまう。だから手元には何の文章も残ってはいないのだ」みたいな内容だった。

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「バイビー」は生きていた

「バイビー」は生きていた

この世の中には、かつて使われていたにも関わらず時とともに使われなくなった「死語」がたくさんある。

いま「死語」となっているものは、バブルの時代なんかに多く生まれたものが多い。「チョベリグ(超ベリーグッド)・チョベリバ(超ベリーバッド)」とか、「許してちょんまげ(フランクな『許してください』『見逃してください』)」とか、「ナウなヤングにバカウケ!(若者の間で流行っている)」とか、一事が万事こんな調

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「ありのままに描く」って意外と難しい

「ありのままに描く」って意外と難しい

「なんか上手に文章を書けなくて…」というひとは少なくない。
曲がりなりにも文章を書く仕事をしているわたしも「どうやったら文章を書けるようになるか」と聞かれることもある。

別に私もリルケよろしく流麗な言葉を紡げるわけではなく、文章がうまいと自負しているわけでもない。でもそんな問いを投げられたら「知らねえよ」というわけにもいかず、「うーん、こんな風にやったらいいんじゃないんですかねえ」などと自分でも

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