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人生は終わりと始まりを繰り返し続けて終わりを迎える

中学生の頃に音楽を聞いていた時だったか、人生とは始まりと終わりがただ繰り返されていく営みであると直感したことがある。

生と死という大きな大きな始まりと終わりの中に、沢山の始まりと終わりがある。
一曲の始まりと終わりがあれば、一日の始まりと終わりもある。学生の始まりと終わりがあれば、仕事の終わりの始まりもある。だからこそ終わりは始まりだ、などと矛盾めいた言葉が存在することになる。

終わりというのは何かと虚しい。
私は中学二年生の頃、十年ほどやってきた水泳をやめたが、その時の虚しさたるやもの凄かった。パワポケ6をやりこんでしまうくらい暇になったのである。たかだか幼年期の「遊び」でやっていたお稽古であってもそのくらいなのだから、己の全精神を傾注していたもの、己の生のよりどころとなっていたことであればなおさらである。

私にとってそれは何なのだろう。好き勝手に文章を書くことになるのだろうか。その終わりが来たときに覚える虚しさは今の私には想像が及ばない。

こうした虚しさは周りの人間についても感じるものなのだろうと思う。
その人がどれだけ人のために生きてきたのかによって、その人を喪う虚しさは当然ながら異なる。一つの終わりを迎えることでぽっかりと心に穴が開く、そんな感覚だ。

この穴がどれだけ大きいのかが、その物事、ひとの存在が如何に大きかったのかを示しているのだと思う。そんな穴を「埋める」というのは、偶然にも人を葬る方法にも似ている。

終わりの虚しさと別れの虚しさと――「さよなら」の言葉をそこに閉じ込める穴をどうにかして埋めなければ、本当の終わりは来ない。
哀しみの中でもその穴を埋められる、そんな強さがあればと思う。

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