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【小説】あしたの祈り【第1回】#創作大賞2023
ビニール袋の内側には油が浮かんでいた。チーズの乗ったパンや砂糖がまぶされたドーナツなどがいくつも乱暴に詰め込まれている。米山真樹子は、そのビニール袋に浮かぶ油を眺めた。
「で、あんたが担任?」
投げかけられた声に、真樹子ははっとして相手を眺めた。四十代くらいだろうか、腹の出たパン屋の主人は、胡散臭い物でも見るかのように、真樹子を上から下に見た。
はい、となんとか返事はしたものの、真樹子
【小説】愛の稜線【第10回・最終回】#創作大賞2023
「ナ、ナオミちゃん? どしたん?」
電車の中で、「今から行く」とLINEした。「わかった」と返事も来たが、どんな用事なのかはわからなかったようだ。
マンションのチャイムを鳴らし、部屋に入ると、スウェット姿の譲さんが、わたしの姿を見て声を震わせた。久しぶりに見る彼は、少し頬がこけ、痩せた様子だ。
「LINEで写真送ってきたでしょ、サンタコスのやつ。あれ、親に見られた」
コートを脱いで、
【小説】愛の稜線【第9回】#創作大賞2023
駅前のコインランドリーは薄暗く、ひどく居心地が悪い。ベンチに座って待つものの、ランドリーが古いのか、乾燥に時間がかかる。かといって、ベンチに乱暴に広げられた雑誌はどれも古ぼけていて、読む気にはならない。
わたしはポシェットからエルドラド用のスマートフォンを取り出し、たっつんからのメッセージを眺めた。譲さんと別れて随分経つのに、彼はまだSIMの契約を解除していないらしい。エルドラドで出会った人
【小説】愛の稜線【第8回】#創作大賞2023
毛足の長いカーペットを歩くと、パンプスが沈み込むような感覚がする。マンションの五階分くらいはあるだろうか、吹き抜けの天井は間接照明で彩られ、大きなモニュメントや絵画が、重厚な雰囲気を醸し出している。
「こっちやで、ナオミちゃん」
こんなに大きな外資系のホテルに来るのははじめてだ。ホテルの入り口でぼんやりしていると、譲さんがわたしの手を引いた。
ロビーを抜け、通路を歩くと、エレベーターホ
【小説】あしたの祈り【第7回・最終回】#創作大賞2023
八畳ほどの部屋には、センターテーブルに向かってソファが対になっている。白い壁は蛍光色の光を映していた。
医療ソーシャルワーカーと名乗る女性に案内されたのは、「医療相談室」と書かれた小さな部屋だった。病院についての知識のない真樹子には、医療ソーシャルワーカーが何をする人なのかも、その部屋が何の「相談」をする場所なのかはわからなかった。しかし、少なくともあのまま病院の廊下で立ち話をするよりはまし
【小説】愛の稜線【第7回】#創作大賞2023
土鍋が音を立てる。
十一月中旬になって、どうやら今シーズンはじめて出してきたらしいそれは、昆布の香りがして、寒かった部屋を暖めた。
「ほな、白菜も入れて」
カウンターキッチンのシンクに立つ母は、その音を聞いて、そうわたしに話しかけた。
金曜の夜、珍しく家族四人がそろい、食卓に向かった。
言われた通りに白菜を鍋に入れ、煮立つのを待つ。ごちゃごちゃとテーブルに置かれていたリモコンや書類は
【小説】あしたの祈り【第6回】#創作大賞2023
うーっと唸るような声は、高くなったり低くなったりする。もう二十一時だ。学校での仕事を終えて団地にやってきた真樹子は、美晴たちの部屋とは違う場所から聞こえてくるその声に耳を澄ませ、月明かりの中、声の聞こえる場所を探した。
夏休みまで一週間を切っている。じっとりと湿った空気が身体にまとわりついた。走って汗をかくと、首元が熱くなる。はっきりと「蝶々」の旋律が聞こえてくると、真樹子は目を凝らした。
【小説】愛の稜線【第6回】#創作大賞2023
玄関の扉を開けて漂ってきたのは、夕飯の匂いではなく、人が揉めているときの不穏な空気だった。
そのまま、またどこかへ行きたくなったが、明日は月曜で、授業が始まるから、遊びに出かけるわけにもいかない。仕方なく、ドアをそっと閉め、なるべく気配を消しながら、リビングのガラス扉の様子を窺った。リビングから階段が伸び、そこから自室へ向かうという家の構造は、母が拘ったものだったらしいが、わたしにとっては―
【小説】あしたの祈り【第5回】#創作大賞2023
教室の中では、鉛筆の走る音だけが響いた。
普段の授業ならば常に私語に注意しながら行わなければならないが、さすがに期末テストでは私語は見られない。
七月頭のこの日、真樹子は机の間を巡回しながら、生徒の回答を覗いていた。
中二の一学期の期末テストでは、例年通り、連立方程式を主に出題した。
しかし、中一の分野の学習が怪しい、いや小学校の学習すら怪しい生徒がまざっている。そのため真樹子は
【小説】愛の稜線【第5回】#創作大賞2023
黄色い皮に包まれた焼売は、柔らかく、口の中でふわりと溶ける。
十月始め、金曜の夜の今日、わたしは早めに仕事を切り上げた譲さんと、難波で待ち合わせをした。「面白いとこ」に行くためだが、その前に食事を済ませると言う。
十九時すぎ、南海の難波駅から少し歩き、譲さんに連れられて入った一芳亭は、二階建ての小さな店だが、ひっきりなしに客が訪れている。彼が「これを食べとかなあかん」という焼売は、これま
【小説】あしたの祈り【第4回】#創作大賞2023
学校に戻るとすでに十七時を過ぎ、職員室では田辺が帰り支度をしていた。
「どっか行ってたん?」
田辺の問いに、真樹子は美晴たちの部屋の様子を話した。
「家に入れたんか。この学校では初やなぁ」
田辺は驚いたようにそう言い、
「しかし、そんなに何もないのはおかしいなぁ」
と首を傾げた。
「生活保護でしたよね、鈴木さんのとこは」
真樹子がそう言うと、田辺が頷く。学校では修学旅行の積立金につ
【小説】愛の稜線【第4回】#創作大賞2023
雨の夢を見ていた。わたしめがけて、雨はずっと降り注ぐ。前後が見えなくなったわたしは、糸のように連なる雨の隙間で、呼吸する。少し息を吸い込みにくい。けれど、不快ではない感覚の中に、わたしはいた。
だから、それが現実の音だと気づくまでに、時間がかかった。まるで、譲さんが本物の雨を連れてきたかのようだった。
暗闇の中、床から天井まで続く窓は、雨に打たれて濡れながらも、夜の光を映している。
【小説】あしたの祈り【第3回】#創作大賞2023
家庭訪問の期間が慌ただしく終わると、ゴールデンウィークに突入する。
バスケ部の練習や試合があるため、そのすべてが休みになるわけではないし、持ち帰った仕事もある。それでも、出勤しなくていい日が数日ある。それまでの週末がバスケ部の指導で潰れてしまっていた真樹子にとっては、貴重な休みだった。
「ちょっと痩せたんちゃう?」
久しぶりに会った恋人の久保田はそう言うと、ハンバーガーショップの向かい