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【小説】あしたの祈り【第6回】#創作大賞2023

 うーっと唸るような声は、高くなったり低くなったりする。もう二十一時だ。学校での仕事を終えて団地にやってきた真樹子は、美晴たちの部屋とは違う場所から聞こえてくるその声に耳を澄ませ、月明かりの中、声の聞こえる場所を探した。

 夏休みまで一週間を切っている。じっとりと湿った空気が身体にまとわりついた。走って汗をかくと、首元が熱くなる。はっきりと「蝶々」の旋律が聞こえてくると、真樹子は目を凝らした。

 団地と団地の間にぽっかいと空いた広場で、小さなブランコに美晴が、その膝に秋生が座って頭を揺らしているのが見える。Tシャツに短パン姿の美晴は、小柄でひどく痩せていて、小学生といっても通用しそうだ。

 児相の中村と電話してからもうすぐ二週間が経とうとしているのに、まだ連絡は来ていなかった。
 真樹子がブランコに向かって歩いていくと、美晴はちらっと視線をあげ、驚くでもなく、また秋生の頭に視線を落とした。

「こんばんは」
 返事はない。だが、逃げる様子もない。真樹子は美晴の隣のブランコに腰をかけた。

「蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ」
 鼻歌に合わせて歌うと、秋生が真樹子の顔を見て、にこっと笑った。

「ねぇ、美晴ちゃん、ご飯、ちゃんと食べてる?」
 尋ねると、しばらく経ってから、うん、という小さな声が聞こえた。

 学校帰りにはこうして何度も団地に足を運んだ。美晴に会いたいと思っていたはずなのに、こうして実際に会うと、何を話すべきなのか、わからなくなる。

「美晴ちゃんは、何か、したいこととかある?」
「したいこと?」
「そう。例えば、どこかに行きたいとか、将来はこんな仕事に就きたいとか、何でもいいんだけど」

 ブランコが揺れるキィキィという音だけが、広場に響いた。しばらく経ってから、
「歳をとりたい」
 とはっきりした口調で美晴が言った。月明かりが、つるんとした彼女の肌を照らしている。

「歳? 歳をとって、どうしたいの?」
「働くねん。で、部屋借りる」
「一人暮らししたいの?」
 小さな声で、ちゃう、という否定の言葉があってから、長い沈黙が続いた。

「じゃあ、私は、何か手伝えることはあるかな?」
「ない」
 放っといて、という言葉が続く。

「でも、美晴ちゃんたち、今、困っているでしょう? 私、役に立ちたいのよ」

 立ち上がって、美晴に向き合う。ずっと、違和感があった。母親が帰ってきているのかわからない団地。何もない部屋。食べ物は、お金は、一体どうしているのか。誰が美晴たちを傷つけたのか。何もできないでいることが、苦しくてたまらなかった。

「だったら、今すぐ、歳とらせて」
 美晴は真樹子の目を見た。目を捉えて、離さない。

「そんなん、できるん? できへんやろ。だったら放っといて」
 美晴は膝の上の秋生を抱きしめる。秋生は、ちゃーちゃ、と不明瞭な言葉を出して、くすぐったそうに笑った。

「でも、このままでいいわけないでしょ?」
 それでも、真樹子は、今自分が動くことで、美晴が必死に守ろうとしているものを壊してしまうことがわかっていた。

「お願いや」
 放っといてくれ、お願いや、という小さな声が何度も続く。その声の中、美晴のまわりに高い壁が築かれていく。透明の壁が、外の世界から、そして真樹子が伸ばした手からも、彼女らを包んでいる。

 両手で顔を覆う。

 しばらくして顔を上げると、美晴と秋生が手をつないで団地の部屋に歩いていくのが、月明かりに照らされて見えた。

 店に着いた者から順番にくじを引き、当たった番号の席に座る。
 終業式のあったこの日、七中の教職員たちは、北川市駅の前の小さな繁華街にある居酒屋で、一学期終了のささやかな打ち上げを行うことになった。

 終業式の後は時間休を使って、一端自宅へ戻ってから居酒屋に来る教員もおり、普段の職員室とは違う、華やかな服装もちらほら見られた。

 真樹子はカッターシャツにスカートという姿で宴会の開始時刻ぎりぎりに店についた。午後五時すぎに学校を出たが、美晴たちの住む団地に寄って手紙を投函してきたため、家で着替える時間はなかったのだ。

 残り少ないくじで当たった番号を探して席につくと、目の前に浜岡の姿があった。

「あ、じぶん、ここなんや」
 浜岡はほっとしたように顔をゆるめた。

 教員は二十代から五十代まで幅広い年齢がいる上、管理職がどの席になるかもわからない。さすがの浜岡もこうした場所では緊張するのだろう、真樹子が目の前の席で、安心した様子を見せた。

「浜岡先生、ここの席やったんですね」
 と真樹子も少しほっとして椅子に腰をかけた。

「ごめんなさい、ちょっと汗くさいかも」
 と真樹子は自分のカッターシャツの襟のあたりに鼻を近づけた。午前中は雨で、暑さも少しはやわらいでいたのだが、午後になって雨があがり、コンクリートからは雨が降った分の湿気が重く立ち上っていた。団地から急いでバスに飛び乗ったから、クーラーのきいたバスの中でもなかなか汗が引かなかった。

「汗くささやったら、負けへんで」
 と浜岡はなぜか胸を張った。指導する部活動内で生徒同士の喧嘩があり、先程まで指導をし、汗を拭く間もなかったのだと言う。

「すごいですね、終業式の日まで」
 と真樹子が感心して言うと、
「米山先生かて、がんばっとるやん。なんやったっけ、ほら、不登校の生徒の」
「鈴木ですか?」
「そう、それ。えらい頑張っとるって噂になっとるで」

 真樹子は首を傾げた。数日前の夜に会った、美晴のことを思い出した。結局、あの日も美晴に何もしてあげられなかった。あの日だけではない。出会ってからずっと、真樹子は美晴に何もできていない気がする。ベテランの教師なら、もっと上手く指導できるのではないかーーそれに、自分はいつも岩本や田辺に助けてもらってばかりだ。

「そんな。私、全然、頑張れてないんですが」
 真樹子が否定しようとすると、校長が立ち上がり、挨拶をはじめた。長々と一学期を振り返り、教員たちの労をねぎらう。そして、
「では、一学期、お疲れさまでした」
 との言葉に続いて、皆で杯を合わせた。

 浜岡はビール瓶を持って立ち上がり、年輩の教員たちに注いで回る。真樹子もそれをするべきかどうか迷ったが、浜岡のように積極的に他学年の教員に挨拶をして回る勇気もなく、小さくなってウーロン茶をすすった。目の前にあったサラダを左右の教員にとりわけ、レタスをパリパリ噛んでいると、やっと浜岡が一周して戻ってきた。

「じぶん、草ばっかり食べとるやん」
 席について早々、浜岡がそう声をかけてきた。

「草じゃなくて、サラダです。最近ちょっと、夏バテ気味で」
 ふうん、と返事して、浜岡はコップのビールを一気にあおった。行く先々でビールを注がれたのだろう、顔が上気している。

 見渡すと、一学期が終わった開放感もあるのだろう、あちこちで笑い声が上がり、華やかな雰囲気が満ちている。

 真樹子は団地の帰り道からの気持ちを整理できないまま、ウーロン茶とサラダだけをひたすら口に運んだ。

「大丈夫なん? 夏バテて、これからもっと暑くなるで。顔色も悪いし」
 浜岡は真樹子の顔を覗き込んだ。
「これから夏休みなんで。休みもいただきますし、大丈夫です」

 真樹子は、自分の頬を隠すように両手で包んだ。もともと肌は白い方だが、少し痩せてからは顔色を心配されることが増えた。真樹子は朝の化粧の際にオレンジのチークをひいて、顔色の悪さをごまかすようになっていた。今日は走ってバスに飛び乗ったので、化粧もはげてしまったのだろう。

「夏バテやったら、肉やで」
 とローストビーフを勧められるのを、
「ちょっと胃の調子が悪くて」
 と真樹子が断ると、
「あかんやん。病院行ったんか?」
 浜岡は眉をひそめた。

「夏休みに入ったんで、念のため行こうと思ってます。たぶん、ただの夏バテですけど」
 このところ、真樹子は岩本や田辺からも体調を心配されていた。成績のこと、美晴のことで頭が一杯で、職員室の会話で、冗談を返す余裕もなくなっていた。

「そんならええかもしらんけど。気ぃつけなあかんで、二学期も大変やねんから」
「二学期、行事多いですもんね」
「っていうか、そんだけじゃなくてやなぁ」

 浜岡は困ったような顔をする。何か言いたげに口を開いたが、遠くの席から、
「浜岡先生!」
 と声がかかり、そのままビール瓶を持って歩いて行った。

 中三の学年の教員たちに囲まれ、浜岡は笑顔で会話している。日に焼けた顔は、いかにも元気な体育教師といった印象を受ける。
 それに比べてーー真樹子はウーロン茶をごくりと飲み込んだ。

 その時、スカートのポケットに入れていたスマートフォンが振動した。そっと画面を確認すると、久保田の名前で着信画面が表示されている。
 真樹子は宴会の会場を抜け出し、繁華街の路地で電話をとった。

「もしもし。何かあった?」
「何かちゃうやろ。院のこと、考えたん?」
「う……ん、考えたんだけど、やっぱり、私が院でできることはないと思うし……」

 考えなかったわけではないが、真樹子は大学院進学には前向きな気持ちになれていなかった。大学院で自分ができることはないように思われた。

「そんなことないと思うで。今日、学食で会ったんや」
 と久保田は真樹子の卒論を担当していた教授の名前を挙げた。久保田も彼の授業を受けたことがあったから、知っていたのだろう。

「先生、真樹子のこと、優秀やったって言っとったで」
「えっ?」

 意外な言葉に、真樹子は言葉を失った。ギリギリで卒業させてもらったという気持ちでいたからだ。

「先生、真樹子が院に進まなかったのは残念だったって。もし戻ってきたら、院でもちゃんとやれる子やって」
「そんな風に思ってくれてるとは思わなかった」

「だから、な。安心して大学に戻ってきたらええねん。さっき、マンションの郵便受けに、院の募集要項と過去問入れといたし」
「でも……」
 大学院に進学すれば、今の仕事が続けられない。

「そしたら、とりあえず、申し込んどいたらどうかな。受験するしないは後で考えたらええねん」
「そうなんかな」
 迷いが生じる。今の仕事を辞めるという決意はできていないが、教授の言葉は真樹子に重く響いた。

「そうしといたらええねん。とりあえず書いておいてくれたら、俺が提出しに行ったってええねん」。
「わかった」
「うん。そしたら後で郵便受け見といて」
 返事が終わる前に、通話は切れた。

 しばらく、真樹子はそのままぼんやりとスマートフォンの画面を眺めた。
 金曜ということもあってか、北川市駅前の小さな繁華街は人であふれている。食べ物の匂いが満ちた空間に、胃の痛みを感じ、真樹子はそのままじっと胸を押さえた。

 手を弾ませると、トントンと高い音が体育館に響く。
 夏休み、副顧問となっているバスケット部の練習に付き合った真樹子は、午前でその役割を終え、広い体育館の中で、一人、ボールをバウンドさせていた。

 ボールが弾むたび、体育館全体がその音に共鳴する。その音が、耳を強く刺激した。

 夏休みに入ってもうすぐ一週間経つというのに、児相の中村からも、美晴の母からも連絡はまだない。しびれを切らした真樹子は、今朝中村に電話をかけたが、出張だと伝えられ、結局言葉を交わすこともできなかった。

ーーこのボールがあのネットに入ればーー
 真樹子は迷いをボールに叩きつけた。

 久保田に促されるように、真樹子は大学院の入試の書類を書いた。受験票はすでにワンルームの部屋のテーブルの上にある。
 それでも、真樹子は大学院の受験に向かおうという前向きな気持ちにはなれないままだった。

 数学の楽しさを伝えたいという、教員になった当初の希望にきりをつけられなかったことに加え、美晴たちのことが頭から離れなかった。

 ボールは手の中で弾む。

 夏休みに入って時間ができたことで、真樹子は夜には院試の過去問に取り組む時間ができていた。皮肉なことに、問題を解けば解くぼど、数学の奥深さに吸い込まれるように、真樹子は夢中になった。しばらく触れていなかった世界は、今になって輝きを放ちはじめていた。

ーーこのボールが入れば、きっとーー
 真樹子は美晴のあどけない笑顔を思った。
ーーきっと、美晴の母親から電話が来るーー

 ボールを叩く腕は重く、床からの熱気でボールは霞んで見えた。
 けれど、と、真樹子は思う。バスケ部の生徒たちはいとも軽々とシュートを決めていたではないか。それならば、私だってーー。

 真樹子はゴールに向かって、ボールを振り上げた。
 ボールは放物線を描き、ゆっくりとゴールに向かう。

 しかし、そのボールは、リング上を回り、その外側に落ちて、床で高い音を立てた。
 落ちたボールは力なく跳ね上がり、真樹子の前を通って、体育館を横切っていく。

 真樹子は目に入る汗を、手の甲で拭った。

 大学というものは、どうしてこう猫の多い場所なのだろう。
 八月中旬、院試の二日目となったこの午後、突然のゲリラ豪雨に見舞われた真樹子は、久保田とともに、面接会場に程近い建物の軒先で、雨をやり過ごそうとしていた。

 どこから来たのか、同じように雨をやり過ごそうとしたのだろう、猫の親子が、真樹子たちから手の届く距離で、互いを舐め合っている。学生が食べ物を与えるから人馴れしているのか、人間がこんな近距離にいるのに、気にする気配はない。真樹子は見るとでもなく、ぼんやりとその様子を眺めた。

「筆記はできたんやろ?」
 と久保田は眼鏡を上げながら真樹子の方を向いた。

「うん、たぶん」
「それやったら、もう合格したようなもんやな」
 久保田は顎をなでた。

 数学科の試験の配点は、筆記試験に比重が高く置かれている。そのため、面接は志望理由など、予測できる程度の質問しかないのが例年の習わしだった。

「でも、他の人の方ができてるかもしれんし」
 真樹子は昨日あった筆記試験を思い出し、首を傾げた。

 昨日は、専門の数学の試験に加え、論述が主となる英語の試験があった。夏休みに入ってから勉強をはじめたが、数学の勉強は、現役の大学生だった四回生の頃よりも、かえって今になって、その面白さに夢中になった。逃げていた物に向き合ってみれば、まるで手招きしているように、真樹子には感じられた。

 しかしその一方で、その勉強自体が、別の物からの逃避のようにも感じられた。

 美晴の件で何度か児相に電話を入れたが、出張の多い中村にはまだ連絡がついていない。美晴のことは常に頭から離れず、入試の勉強を続けながらも、どこかそれに現実味を感じられなかった。そして、そんな背負いきれない現実から逃げたいという気持ちも、自分の中のどこかに存在していた。

 自分の選択が正しいのかどうか、迷いながらも筆記試験は過ぎていった。

「英語はちょっと自信ないわ」
 真樹子が言うと、
「真樹子は大学ん時、英語できとったやないか」
 と久保田は真樹子の方を向き、
「自信を持たないのは、真樹子の悪い癖や」
 と続けた。

 専攻は違っても、同じ理学部の久保田とは、一回生のとき、第一外国語の英語で、同じ授業を履修していた。中高と英語の成績が良かった真樹子は、大学の英語の授業でも成績はトップクラスだった。久保田はその時のことを覚えていたのだろう、そう言って、取り合う様子がない。

「大学のときの英語なんて、忘れてるし」
「大丈夫やって、きっと」

 久保田は真樹子の手を取った。大学院で研究している彼は、研究室を抜け出し、面接前の真樹子に会いに来てくれていた。

 真樹子は一瞬、大学生の頃に時間が戻ったように感じた。まだ進路のことも考えず、授業とバイトと遊びで、予定はすべて埋まっていた時代。その時には、こんなに気がかりな事が増えるとは予想もしていなかった。

 すぐそばで、親猫が、三匹の子猫たちの顔を舐めている。少し足を引きずった親猫は、濡れそぼった自身のことは気にかけない様子で、子猫を舐め続けている。子猫が高い声で鳴いた。

 空はゆっくりと雨足をゆるめている。面接の時間はあと三十分に迫っていた。

「もうすぐやろ? そろそろ移動しとくか?」
 久保田に促され、真樹子はスマートフォンで時間を確認した。そろそろ電源を切らなくてはならない。

 そのとき、スマートフォンの画面に「コウシュウデンワ」という文字と共に、着信の画面になった。

 訝しく思いながらも、真樹子はスマホを耳に押し当てた。
「……しよう」
 聞き取れない程の小さな音が漏れてくる。

「えっ?」
 耳を澄ましても、なかなか声が聞こえてこない。
 久保田が心配そうに真樹子をのぞき込んでいる。

「どうしよう……」
 小さな声は、泣いているように聞こえた。

「えっ?」
「どうしよう」
 今度は、はっきりした声が聞こえてきた。

 聞き覚えのある声に、真樹子はスマートフォンを握りしめた。
「美晴ちゃん? 美晴ちゃんなの!?」
 小さな泣き声が、応えのように続く。

「美晴ちゃん? どうしたの? 何かあった?」
「あきが、あきの頭が熱くて……」
「秋生くんが熱を出したの?」
「どうしよう。すごく苦しそうで……どうしよう……」
 泣き声の中から、とぎれとぎれに言葉が続く。

「熱はどのくらいあるの?」
「体温計ないからわかんない。でも、すごく熱い……」
「お母さんは?」
 問いかけたが、返事が聞こえない。

「今、どこからかけてるの?」
「団地の、管理事務所んとこ……」
「秋生くんは、団地の部屋にいるの?」
「うん。どうしよう……」

「わかった。すぐに行くから。救急車を呼ぶから、部屋に戻って」
「うん」
「病院に着いたら、もう一度電話できる?」
「うん」
「じゃあ、先生が救急車を呼ぶね? 一度切るよ」

 電話を切り、今度は一一九に電話をかける。通話しようとすると、久保田が不安そうにその腕を握った。

「面接は受けるんだよな?」
 手を振りほどき、真樹子は救急電話に、美晴たちの住所と、小学生の児童が熱を出していることを伝えた。

 なんとか伝え終えると、久保田がもう一度真樹子の腕を掴んだ。
「何やってんだよ」
「行かないと」
「あほか。もう面接の時間や」
 真樹子を見る久保田の顔は、歪んでいる。

 目の端に、猫の親子が映った。雨が降れば世話をする親がいる。そんな当たり前のはずのことが当たり前ではない、そんな子が確かに存在する。

「私が行かないと」
「面接はどうするんや、せっかく勉強したんやろう」

 真樹子は少しひるんで、久保田を見た。眼鏡の奥の目が、真樹子を捉えて離さない。
「面接を受けてから行ったらええやろ? 救急車、呼んだんやろう?」

 必死に話す久保田の顔を見て、一瞬、そうするべきだと、自分の中の誰かが叫んだ気がした。この現実から逃げるのなら今しかない、とその声は続く。しかし、短い逡巡の後、真樹子は久保田の手を振りほどき、雨の中を駆けだしていた。

 あの美晴が泣きながら電話をしてきた、それが、事態の重さを語っている。

 キャンパスの中を走る。

 幹線道路に向かう。

 道路に出ると、今度はタクシーを拾うために手を挙げた。

 リノリウムの床は、パンプスの音を吸収するのだろう、コツコツという耳障りな音はほとんど響かない。真樹子は濡れたスーツ姿のまま、北川市民病院の混みあった外来を抜け、緊急外来の場所を目指して、広い廊下を走った。

 タクシーで大学から北川市を目指して走っていると、美晴から再度の電話があった。やはり泣きながら、とぎれとぎれの声ではあったが、北川市民病院に搬送された事を伝えてきた。すでに病院付近を通過していたタクシーは、駅の高架をぐるりと廻り、なんとか病院にたどり着いた。

 真樹子は電話で伝えられた病室へ足を進めた。忙しなく走る姿に、看護師の女性が眉をひそめるのが見えたが、なり振りを構ってはいられなかった。

 灰色の床の先に、Tシャツと短パン姿の髪の長い女の子が両手に顔を押しつけて泣いているのが見えた。年輩の女性看護師が、女の子の顔をのぞき込んでいる。

「美晴ちゃん!」
 息を荒く声をかけると、看護師の女性が不審そうに真樹子を見た。

「すみません、私は美晴さんの担任の……」
 真樹子が話しはじめると、美晴は顔をあげ、
「チアノーゼって何なん!?」
 と泣きはらした顔を真樹子に見せた。

「えっ、チアノーゼ? チアノーゼがどうしたの?」
 聞きながら、真樹子は嫌な予感がするのを感じた。教職員対象の緊急事態訓練では、生徒が急病になったときの対応を学んだ。血液中の酸素が欠乏したときに生じるその状態の名は、聞き覚えがあった。

「美晴さんの担任の先生ですか?」
 美晴の動揺にうろたえることなく、看護師の女性は真樹子を向いた。

「はい、担任の米山と申します。緊急電話にかけたのも、私です」
 美晴は真樹子のスーツの袖をぎゅっと掴んだ。

「わかりました。では、秋生君が高熱を出したというのは」
「美晴さんから聞いています」
「そうですか」
 看護師は、一瞬、迷うようなそぶりを見せたが、
「秋生くんはインフルエンザです」
 とはっきりとした口調で真樹子に告げた。

「感染の恐れがあるため、一時的に隔離しています」
 真樹子は少しほっとするのを感じた。季節はずれではあるが、インフルエンザならば病院で対応してもらえるはずだ。しかし、それならばなぜ、美晴からチアノーゼという言葉が出たのだろう。

「あの、では、チアノーゼというのは?」
「秋生くんが、チアノーゼをおこしています」

 真樹子は頭が混乱するのを感じた。インフルエンザでチアノーゼが起こるものなのか。医療知識のない真樹子には、事態が飲み込めない。

「インフルエンザ、で、チアノーゼ、ですか?」
「そうです」
「病院で処置してもらえば、すぐ治るんですよね?」
「それは、まだわかりません」

 答え終わるのを待たず、美晴は看護師の胸元を掴んだ。
「あきを助けてよ。助かるんやろ?」
 看護師は美晴の手を外し、ゆっくりと握り返した。

「だから、助けるために、ちゃんと答えて欲しいの。秋生くんは、何か他に病気はない?」
 美晴の目はきょろきょろと左右に動いた。

「わかんない。でも……」
「でも?」
「ちっちゃい頃、おばあちゃんが言ってた」
「何を言っていたの?」

「あきは、心臓に穴があるって」
 途端、看護師は顔色を変えた。

「心臓のどこに穴があるの?」
「わかんない。でも、おばあちゃんは、自然に治ることもあるって病院で言われたって……」

 看護師は青い顔のまま、病室だろう、すぐ近くの扉を開けて行ってしまう。
 美晴はリノリウムの床に、ぺたりと座り込んだ。

「美晴ちゃん」
 真樹子は美晴の肩を抱いた。床は冷たく、どこからか消毒液の匂いが鼻をついた。

「どうしよう」
 夏だというのに、美晴は全身を震わせている。真樹子は美晴の背中をなでた。

「おばあちゃんが言っとった。あきの障害は、心臓に欠陥が出やすいんやって」
 うなずきながら、美晴の背をなでる。

「せやけど、自然と治る子も多いんやって」
「そうなのね」
「せやし、そんなんもう忘れとったのに」

 美晴の目は腫れて真っ赤になっている。その瞼を、美晴の指が何度もこする。真樹子は言葉を探したが、かけるべき言葉が見つからず、ただひたすらに美晴の背中をなでた。

 そのとき、扉が開き、先程の看護師の女性が顔を出した。足早に近づいてくる。

「保護者と連絡はつきませんか?」
 看護師は、真樹子と美晴の双方を見る。
「ママは……」
 美晴はそう言ってから、口を閉ざす。
「ママはどこにいるの?」

 その時、遠くからスーツ姿の男性が近づいてくるのが見えた。痩せた体に、目の下の大きなクマ。児相の中村だ。

 タクシーの中で、真樹子は児相に電話をかけた。中村は出張だと言う児相の窓口に、緊急事態だと、真樹子は何度も繰り返した。慌ててやってきたのだろう、中村の息はあがっている。

「児相の、中村です」
 中村の言葉には構わず、看護師は、
「まだわからないけれど、手術が必要になる可能性があるの。保護者の同意書が必要なの」
 と美晴に向かって告げた。

「だから、ママがどこにいるか教えてほしいの」
「ママは……」
「ママは? どこにいるの?」
 美晴の目が空を眺めた。また一筋、頬に涙が流れる。

「ママは、どこにいるのかわかりません」
 はっきりした声が聞こえた。
「ずっと、帰ってきていません」

 中村が息を飲むのが見えた。
「どういうことですか?」
 看護師は、今度は中村の顔を見た。

「それは……」
 中村は狼狽した様子で、口をパクパクさせた。

「とにかく、保護者に連絡をつけてください。急ぎます」
 それだけ言うと、看護師はまた扉の向こうに行ってしまった。

「どうして」
 青い顔のまま口を開ける中村に、今度は真樹子が、
「ケースワーカーさんに連絡してください。ケースワーカーさんからの電話なら、出るはずです」
 と言葉を続けた。中村は携帯電話を出し、通話できるエリアに走っていく。

「美晴ちゃん、きっと大丈夫だから」
 真樹子は美晴を抱きしめる。大丈夫、と何度も続ける。美晴は抱きつくように真樹子のスーツを握った。

 ずっと美晴が一人で抱えていた秘密が、露わになった。そしてそれが美晴が秋生を守るための選択だったことに、真樹子はどうしようもない胸の痛みを感じた。痛みを、抱きしめる力に代える。腕の中で、嗚咽が漏れた。

(続く)


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