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【小説】あしたの祈り【第7回・最終回】#創作大賞2023

 八畳ほどの部屋には、センターテーブルに向かってソファが対になっている。白い壁は蛍光色の光を映していた。

 医療ソーシャルワーカーと名乗る女性に案内されたのは、「医療相談室」と書かれた小さな部屋だった。病院についての知識のない真樹子には、医療ソーシャルワーカーが何をする人なのかも、その部屋が何の「相談」をする場所なのかはわからなかった。しかし、少なくともあのまま病院の廊下で立ち話をするよりはましであるように思われた。

 四十代くらいのソーシャルワーカーの女性と向かい合うようにして、美晴と真樹子はソファーに横に並んで座った。

 美晴は泣き疲れたのか、放心したように、真樹子の肩に頭を預けている。先程、看護師がやってきて、秋生が薬の投与で小康状態となったことを告げていた。しかし、同時に、いつまた危ない状態になるかわからないとも付け加えた。

 真樹子の肩は、美晴が呼吸するたびに揺れ動いて重みを感じる。美晴が病気になったわけではないのに、真樹子はその重みが続くよう、祈り続けていた。

「連絡が取れたそうです」
 と児相の中村が相談室に駆け込んで来た。
「お母さん、病院に来てくださるそうです」
 言うと、中村はほっとしたように長い呼吸をしたが、部屋の中の重い空気は変わらなかった。

「では、同意書は取れるんですね」
 ソーシャルワーカーは事務的にそう言うと、ファイルに何かを書き込んだ。

「お母さんはいつ頃到着予定ですか?」
「それが、今、梅田のあたりにいるそうなので、少なくとも、あと三十分はかかるかと……」
 ソーシャルワーカーは眉をひそめた。
「時間がかかりますね」

 いつ秋生の容態が変化してもおかしくはない。ソーシャルワーカーは、
「もう一度、病室に確認に行ってきます」
 と言って席を外した。

 中村は、空いたソファに座り、美晴に向き合った。
「美晴ちゃん、聞いてもいいかな」
 中村は美晴の顔を覗き込む。真樹子は反射的に、
「今はやめてください」
 と言葉を出していた。

「でも、家庭状況を聞かないと」
「見てわかりませんか。美晴さんは答えられる状態ではありません」

 これ以上、美晴を苦しめるわけにはいかなかった。それにーーすでに、この状況がすべてを物語っているではないか。
 中村は押し黙った。

 美晴は、泣いて取り乱す状態からは脱したものの、ぐったりして、ずっと壁の一点をぼんやり眺めている。

 中村に言いたいことはたくさんあった。もし真樹子がネグレクトと言ったときにすぐに確認してくれていれば、秋生はこんな状態にならずに済んだのではないか。いや、その前に、美晴たちが母親と暮らしはじめてから継続して見守ってくれていたならーーしかし、感情的に言葉をぶつけそうな自分をなんとか抑え、真樹子は目を瞑った。美晴の前で言い争うわけにはいかなかった。

 相談室の時計の針が進む音が響く。本当は小さな音のはずのそれは、焦る真樹子の気持ちを示すかのように、大きく鳴り響いた。
 どれくらい針の音を聞いただろう。しばらくすると、ソーシャルワーカーが看護師を伴って戻ってきた。

 中村は、
「秋生くんに会えないんですか」
 と額に汗を浮かべながら聞く。看護師は、
「感染症ですから。今はまだ無理です」
 となだめるように説明した。

 その時、ドアのあたりで、ドン、とぶつかるような大きな音がした。
 ソーシャルワーカーがゆっくり引き戸を開くと、三十代くらいの女性と、二十代くらいだろうか、若い男性が、倒れ込むように部屋に入って来る。ノースリーブのワンピース姿の女性は、痩せた体が露わになっている。

「あいつ、熱だしたって?」
 若い男はそう言うと、母親と二人でフラフラと壁にもたれかかった。男は、タンクトップとジーンズで痩せた体を包んでいる。肩のあたりに、龍だろうか、大きなタトゥーの模様が見えた。壁にもたれた振動が、真樹子が座るソファにも伝わってくる。

 真樹子は身を固めて、二人を眺めた。三十代くらいの女性が仮に美晴の母親だとしたら、この男は何者なのか。

「あいつ。えーと」
「あ・き・お」
 痩せた女性が、舌をもつれさせながら男性に応える。

 ソーシャルワーカーは顔色を変えず、
「秋生くんのお母様ですか?」
 と尋ねた。
 女性は頷く。
「電話で聞いていますね? 手術の場合、同意書が必要となります」

 看護師はそう言って、美晴たちの母親の前に紙を差し出し、記入欄を示した。母親は、床に座り込むようにして記入する。看護師は手術をする場合の医療行為について説明しているが、美晴の母は理解している様子はなく、ただペンを動かしているだけのように見えた。

 ずっと会いたいと思っていた美晴の母親は、目の形が美晴とよく似ていた。痩せこけているが、顔は美人の範疇に入るだろう。しかし、その目はとろんとして、どこを見ているのかわからない。

 母親が記入している間に、ソーシャルワーカーと看護師が目を合わせるのが、真樹子から見えた。二人は母親たちの姿に視線を送る。しばらくすると、看護師がうなずくような仕草をして、母親の書いた同意書を手に部屋から出て行った。

 中村が慌てて席を空けた。母親と男は倒れ込むようにしてソファに座る。
「こいつもなぁ、大変なんや」
 と言って、男は母親の肩に手を回した。首に太いシルバーのネックレスをしているが、ひどく安っぽい。

「あいつ産まれてから、ガイ児産んだって、離婚されてなぁ」
 男の目は宙をさまよい、誰に向かって話しているのかわからない。母親の目もまた、宙をさまよっている。目をさまよわせたまま、母親は首を縦に振る。

「んでまた、病気やって?」
 男の声に、言葉を返す者はいない。中村も、ソーシャルワーカーの女性も、身じろぎもせず二人を眺めている。

 その時、真樹子は二人からアルコールの匂いがしないことに気が付いた。ひどく酔っているようなのに、酒臭さが全くしない。そして、その代わりに、おかしな匂いが鼻をかすめた。甘いのに、どこかツンとするような匂い。その匂いが部屋を染めていく。

 美晴は真樹子の肩に頭をもたれさせたまま、二人を見ようともしない。そして、美晴の母親も、美晴に目線を送る様子は見られなかった。

「あの、」
 気が付くと、言葉が、真樹子の口から飛び出していた。

「どうして、この子たちを……」
 言いたい言葉がいくつも浮かぶ。言葉を続けようとすると、肩の上で、
「無駄や」
 という美晴の短い声が響いた。

「あぁ? なんや言いたいことでもあるんか」
 男は、真樹子と美晴を見て、すごむ。

「ですから……」
 と真樹子がまた口を開くと、美晴の声が、
「無駄なんや」
 と続いた。固く、冷たい声ーー真樹子は、美晴にそんな声を出させてしまったことを悔いた。唇を噛む。

 男はしばらくぶつぶつと文句を言っていたが、しばらくすると、陶酔するように天井を仰ぎ、大人しくなった。
 どのくらい時間が経っただろう。誰も口を開かない静かな部屋に、また時計の針が進む音が大きく響いた。
 ソファの横に立つ中村が、何かを飲み込むように喉を動かす。

 その時、部屋のドアが開き、
「お母様とそちらの方、ちょっと」
 と看護師が二人を呼んだ。
 ソーシャルワーカーが、二人に見えない角度で、看護師に頷く。

 二人は、フラフラと体を揺らせながら部屋を出て、看護師について行く。
 閉まっていくドアのずっと向こうに、大阪府警の制服が二つ見えた。

 部屋にはまだ甘い匂いが残っている。二人は行ってしまったのに、誰も口を開かない。

 その時、真樹子の肩に頭をのせたまま、美晴が、
「あきは?」
 と尋ねた。

「大丈夫よ」
 真樹子は絞り出すようにそう応えた。

「きっと大丈夫。もう心配しなくていいから」
 そう言うと、美晴は頷き、糸が切れたように目を閉じた。

 米山先生

 お元気ですか。私は元気です。

 この前、病院に来てくれてありがとうございました。病院は、なんかこわかったです。でも先生がいたから、大じょうぶでした。

 秋生も大じょうぶです。もう心ぱいないそうです。けど、まだけんさがあるそうです。それで、しばらく入院するそうです。

 私は今、一時保ご所というところにいます。しばらくしたら、前に入っていたしせつに入るそうです。そしたら、学校はてん校になります。

 一時保ご所の先生が、手がみを書いていいというので書きました。

 鈴木美晴

 ツクツクボウシの鳴き声がした。コンクリートには夕日が刺し、熱気が立ち上っている。

 夏休み終了間近のこの日、真樹子は岩本と共に、美晴が入所している一時保護所に向かっていた。学校に置きっぱなしになっていた教科書を、美晴に届けるためである。

 学校に来ていなかった美晴は、教科書も受け取っていなかった。一、二年生の教科書を合わせると、紙袋二袋になる。それを真樹子と岩本が一袋ずつ持って歩いた。紙袋の中の新品の教科書は、夕日を浴びて赤く染まる。

「転校してしまうのね」
 岩本が額の汗をハンカチで拭いながらぽつりと言った。

「まだ実感がなくて」
 と真樹子がもらすと、
「そうよね。突然だったもの」
 と岩本は目をパチパチさせた。

 坂道を上れば、もうすぐそこに児童相談所があり、その裏手に、一時保護所が併設されている。

「でも、米山先生は本当に頑張ったわ」
「そんな。私はただ、病院に行っただけで」
 真樹子は首を振って、岩本の言葉を否定する。

 あの日、看護師の女性は、美晴の母たちの様子を見て、すぐに警察に連絡を取った。中村の話によれば、到着した警官たちに求められ、美晴の母は、一緒にいた男と共に任意同行に素直に応じたらしい。警察署での検査の後、二人は違法薬物使用の現行犯で逮捕されることとなった。

 そんな状況もわからないまま、残された美晴を前に、児相の中村は児童相談所や市役所に連絡を取り続け、真樹子もまた、自分の学校や、秋生の通う小学校に連絡を取り続けた。

 医療相談室のソファで寝てしまった美晴は児童相談所が一時保護することとなり、結局その後、真樹子は美晴と言葉を交わせないままに、物事が過ぎていくのを眺めることしかできなかった。

 結果的に、美晴は児童相談所の一時保護所でしばらく生活することになった。そして、経過が良好な秋生は、そのまま病院に検査入院をすることとなった。二人とも、その後は別々の児童養護施設に入所することになる。

「米山先生は、真面目すぎるところが問題ね」
 坂道で、息を荒くさせながら、岩本は言う。
「そうでしょうか」
「間違いなし、よ」

 おどけるように岩本はそう言うと、どっこいしょ、と大きな声を出して、紙袋を持ち直した。

 一時保護所は、高い壁に囲まれ、防犯カメラが何台も取り付けられている。やっとそこにたどり着いて、真樹子はインターフォンを鳴らした。
 しばらく待つと、センサー音のようなブーンという低い音が鳴ってから、保護所の扉が開かれた。

「七中の岩本と米山です」
 保護所の職員は、どうぞ、と中に促す。建物の入り口すぐにある応接コーナーだろうか、ソファの置かれた一角に案内すると、職員は美晴を呼びに行った。

 しばらくすると、ソファのすぐ近くの階段から足音が聞こえてきて、美晴が顔をのぞかせた。

「美晴ちゃん、元気?」
 真樹子が聞くと、ふん、という返事が返ってきた。
「今日はね、教科書を持ってきたの」
 岩本の言葉にも、ふん、と返事をする。

 少し照れたように下を向く美晴は、病院で会ったときよりも少しだけふっくらとして、中学生の子供らしく見えた。

 教科書の入った紙袋を渡すと、何も言わず、すぐに美晴は階段を上って行ってしまう。
 その様子を呆気にとられて見ていると、美晴は階段の踊り場で足を止めた。

「あんなぁ、シンケンって知ってる?」
 踊り場から、美晴は真樹子たちを見下ろしている。

「ええ、親権ね。知ってるわよ」
 応えると、
「シンケンってのがあるから、中学出て働いても、私、あきと暮らされへんねんて」
 と美晴が言った。

「そう」
 真樹子は胸が苦しくなるのを感じた。美晴はずっと中学卒業を待っていたはずだ。それはきっと秋生と暮らすために違いなかった。

 しかし、美晴は明るい声で、
「でな、行こうと思ってんねん」
 と、少し離れた場所にある府立高校の名を出した。

「どうして?」
 今度は岩本が聞く。美晴が入所する予定の施設からも、その高校は距離があるはずだ。偏差値は決して高くない。偏差値が同じくらいの高校なら、もっと近くにもある。

 美晴はもじもじと足を動かしてから、
「あっこ、看護科があるやろ」
 と小さな声を出した。

「あきが十八になったら、あきと暮らせるかもしれへんねんて。そしたら、いっぱいお金がいるやろ」
 真樹子も、岩本も、しばらく言葉を失った。

 やがて、岩本が、
「そしたら、勉強がんばらないとね」
 と絞り出すようにして言った。

 美晴はまた、ふん、と返事をすると、また階段を駆け上がり、今度は本当に行ってしまった。

「米山先生」
 と岩本は横に立つ真樹子に声をかける。
「はい」
「泣くところじゃないわ」
「すみません」
「謝るところでもないの」

 そう言いながらも、岩本はバッグから新しいハンカチを出して、真樹子に手渡した。

 礼を言って、目を拭う。
 しかし、拭っても拭っても、ハンカチは、湿り気を帯びて重くなった。

 夏の熱はまだワンルームの部屋に残っていた。けれど、夕方になり、秋の気配がする風が、ベランダに接する窓から吹いてくるのを、真樹子は頬に感じた。

 明日から二学期がはじまる。真樹子は手の中のスマートフォンで、久保田の番号を見つめていた。

 院試の会場から病院に向かったあの日以降、久保田とは連絡を取っていなかった。美晴の件で余裕がなかったことに加え、自分のことを考えて院試の面倒まで見てくれていた彼に、取り返しのつかないことをしてしまったという、整理のつかない気持ちもあった。

 久保田からの連絡がないことをいいわけにして、真樹子はその状態をずるずると引き延ばしてしまっていた。

 けれど、二学期が始まるのを控えた今になって、真樹子は、ようやく彼に連絡しようという決意を固めた。

 それでも、スマートフォンをテーブルに置いたり、手の中に戻したりを何度も繰り返し、深呼吸してから、連絡先の久保田の電話番号に、やっと「通話」を押した。

 数秒のコールが流れてから、
「もしもし」
 という聞き慣れた彼の声が聞こえた。

「真樹子です。今、いいかな?」
「ちょっと待って」
 研究室にいたのだろう、呼応してから数十秒、移動するような音が聞こえた。

「お待たせ。もう大丈夫」
「ごめんね、忙しいのに」
「別に。忙しくないよ」
「あの、院試のこと、ごめんなさい」

 切れ切れになりながら、なんとか謝罪する。久保田は、むっとした声で、
「ええよ。仕方ないやろ」
 と応えた。

「あれから、俺、教授んとこ行ったんや。事情が事情やし、なんとかしてもらわれへんかと思って。でも、あかんかったわ」
「そんなことしてくれてたの」
 しばらく、沈黙が訪れた。

「それでね、あの……」
 真樹子はなんとか言葉を続ける。
「今まで……ずっと、ありがとう」
 久保田は応えない。しばらくしてから、
「どういう意味? 」
 という彼の言葉が聞こえた。

「だって、せっかく院試、応援してくれたのに、私……」
「それはもう、終わった話やろう」
「うん。やけど、やっぱり、けじめっていうか」
「何でそんな話になんねん。俺と別れたいんか?」

 今度は真樹子が沈黙した。別れたいとも、続けたいとも思わなかった。ただ、色々なことがありすぎて、今は久保田のことを考える余裕がなかった。しばらくしてから、
「そうすべきやと思う」
 と真樹子は口に出していた。

「なんでそんなんなるねん。わけわからんわ」
「ごめん」
「それはそれ、これはこれやろう」
 久保田の言いたいこともわかっていた。切り離して考えたいとも思った。けれど、できないのだ。

 もしかしたら後悔することになるのかもしれない、と真樹子は感じた。久保田はいい人だ。だからこそ、甘えるわけにはいかない。

「今は、余裕がないの」
 真樹子は続ける。
「だから、ごめんなさい」
 しばらくの後、そうか、という久保田の小さな声が聞こえた。

「本当に、ありがとう」
 言い終わる前に、通話は途切れた。

 どこからか、コオロギの声が聞こえる。リッ、リッという鳴き声は、区切りなく続く。

 真樹子はベッドに横になると、その鳴き声に耳を澄ました。

 机が一つ足りない。

 始業式の今日、教室の奥にあった机が一つ減っただけで、こんなにも寂しい気持ちがするものなのかと、真樹子は改めて考えていた。転校した美晴の机は、始業式を控えた昨日、真樹子は田辺と共に備蓄室に運んであった。

 体育館で行われた始業式の後、生徒はだらだらと歩きながら、あるいは友達とのおしゃべりに夢中になりながら、またあるいは夏休みの気持ちをひきずって欠伸をしながら、教室にたどり着いていた。

 教卓の前で、真樹子は生徒の人数を数える。休み明けだったが、一人の欠席者もいない。

「席について」
 真樹子が声を出すと、ゆっくりとではあったが、生徒たちは席についた。

「今日は報告があります」
 そう言うと、興味を引かれたのか、生徒の視線が集まってくるのを真樹子は感じた。
「鈴木美晴さんが、転校することになりました」

 生徒たちは黙って聞いていたが、しばらくすると、誰それ、会ったことない、などという声が聞こえてきた。そして、その関心はすぐに薄れたのか、私語が聞こえ始めた。

 真樹子は、自分だけが美晴の不在を感じていたことに気づいた。大切な何かが欠如してしまったような感触が、全身を覆う。

 しかし、生徒の無関心も無理もない。生徒たちは、美晴との接点がなかったのだ。

「……それでは、提出物を集めます」
 真樹子は休み前に渡した宿題を、後ろの席から回すよう指示を出した。五教科、各教科の宿題を集めなければならない。

 その時、
「忘れましたー」
 と言う藤本百合の声が聞こえた。藤本には、他の生徒に出したものより易しい問題をプリントで渡したはずだ。

「家にあるの? 明日、持ってこれる?」
 返事が聞こえない。

 あちこちで、私も、僕も、という声が重なった。
「忘れた人は、明日提出してください」
 あきらめてそう言うと、生徒たち数人の、はーい、という軽い返事が聞こえた。

 真樹子は生徒に気づかれないように、こっそりため息をついた。明日も提出は期待はできないだろう。

 それでも、なんとか、今後の日直を確認し、クラスの委員決めを行うと、始業式後のホームルームはあっけなく終了した。

 先程確認した日直が挨拶をし、生徒たちはすぐに教室を出て行った。学校のない午後を楽しむように、笑顔が多い。

 真樹子は一人、教室に残って、提出された宿題を数えた。全体で六割しか、宿題が提出されていない。提出されたものでも、空欄のあるものもあり、真樹子は今度は大きくため息をついた。

 一学期は工夫しながら授業を進めたはずだったが、夏休みが開けてみれば、自分がやったはずの事が、どこかに消え去ってしまったように真樹子には感じられた。

 それでも、きっと何かが積み重なると信じて、同じ苦労を繰り返していく以外に、真樹子に残された道はなかった。

 養護施設に入所した美晴は、今日から学校に通っているに違いない。自分が美晴に何かできたのかーー今でも真樹子は自分の行動が正しかったのか、わからずにいる。それでも、意志の強い美晴のことだ、きっと希望している高校に合格するーー真樹子は目を閉じた。

 あの日、大学院の面接試験を放り投げて病院に向かったことを後悔する気持ちはなかった。けれど、美晴がいなくなったことで、大きな喪失感があるのも事実だった。

 美晴がいなくなったこれから、自分は何を目標に仕事に取り組んでいけばいいのだろう??真樹子は誰もいない教室で、考え続けた。

 Y=aX+bを理解するためには、まずはY=aXを示さなければならない。
 真樹子は黒板に記した原点から、aを1と仮定した場合のaXを、直線で黒板に記していく。

 美晴の不在は真樹子の心に影を落としていた。一つ机の減った教室には、まだ慣れることができない。もし美晴がこの教室にいたら、どうだったろう、と真樹子は想像する。

 美晴は一度も真樹子の授業を受けることなく、転校してしまった。しかし、きっと美晴は今、必死で勉強をしているはずだった。それならば、美晴に負けないよう、仕事していくーー真樹子は奥歯を噛んだ。

「じゃあ、bが1だったら、どうなるかな?」
 先程から雨の激しい音がする。真樹子は雨音に負けないよう、声を張り上げた。
「原点を通らへんってこと?」
 生徒の一人が自信なさそうに真樹子に尋ねる。

「そうね。じゃあ、どこからスタートしたらいい?」
 二学期に入ると、数学は一次関数の単元に突入した。一年生で終えた比例の単元を理解していなければ、一次関数は理解することが難しい。比例の単元を振り返りながら、真樹子は一次関数の学習を進めていた。

「1?」
 また他の生徒が、頭をかしげながら発言する。
「そうね。大正解!」
 大げさに誉め、真樹子は黒板用の大きな三角定規を動かした。

 直線が平行に移動していく、その様子を生徒に見せながら、真樹子はY軸の1の地点から、上下斜めにチョークを走らせた。

「じゃあ、bが2だったら?」
「2!」
 元気のいい声が挙がる。
「そう!」
 今度は2の地点から、直線を引く。平行の線が三本に増える。

「じゃあ、ノートにも書いてみよう」
 方眼ノートに、黒板に書いたのと同じグラフを書き写させる。真樹子は三角定規を忘れた生徒に貸出用の定規を配りながら、生徒たちがノートにグラフを書くのを眺めた。

 Xの値を変えながら、真樹子は黒板に直線を書き、そのたびに生徒には方眼ノートにグラフを書き写させる。

 藤本百合ら、学力の低い生徒には、わかりやすく薄く線を引いたプリントを渡し、その薄い線を定規でなぞらせる。なぞった線の横に、bの値を記入させる。

 眠ってしまいそうな生徒は肩をたたいて起こし、落書きをする生徒には、グラフを書くよう促す。
 それを繰り返していくと、授業時間である五十分は瞬く間に過ぎていく。

 過去を振り返ってしまいそうになる自分を、授業するに集中することで、真樹子は抑えようとしていた。

 チャイムが鳴る。

 授業終了の挨拶をし、真樹子はそのままホームルームを行った。保護者に渡すプリントを配り、提出物を確認する。今度は日直の挨拶があり、生徒たちは今日もすぐに教室を飛び出していった。毎日のことだが、放課後になると生徒たちは笑い声をあげながら、楽しそうに帰って行く。

 真樹子も今日一日がなんとか終了したことに、ほっとしながら、職員室に向かって足を進めた。ともすれば沈み込みそうになる一日一日は、こうして綱渡りのように過ぎていく。

 歩きながら、今日は部活が休みだったことを思い出す。空白の時間をどう埋めようか考えを巡らし、真樹子は教室に戻ることにした。チョークの粉で汚れていた黒板用の定規を雑巾で拭おうと思ったのだ。

 歩きながら、次の授業の展開を考える。そうして教室の前に戻ると、一度は帰ったはずの藤本と、彼女と仲の良い女生徒二人が、なにやら厳しい顔で向かい合っていた。

「どしたん? 帰ったんとちがうの?」
 真樹子が声をかけると、藤本は下を向き、女生徒二人が、
「百合、勝手やねん」
「こっちにも都合があるわ」
 と真樹子に向かって声を荒らげた。

「どういうこと?」
 藤本は下を向き、答えようとしない。

 二人は、
「百合な、まだ学校にいようって、しつこいねん」
「うちら、予定あるのに」
 と言い合い、な、と確かめるようにお互いの顔を見合わせた。

「そう。どしたん? 藤本さん」
 藤本は答えず、珍しくしょげた様子を見せる。

 真樹子は、
「じゃ、ちょうどいいわ。藤本さん、ワークブック提出まだやし、残ってもらおっかな」
 と言って、藤本の顔をのぞいた。

「はい」
 藤本はおとなしく頷く。

「そしたら、二人は帰りなさい」
 真樹子が言うと、二人は納得したのか、ケロリとした顔で、廊下を走って行ってしまった。

 教室を開け、電気をつける。雨で薄暗かった教室が、再び明るくなった。
 藤本はワークブックを取り出し、自分の机に広げた。

 真樹子は訝しく思いながらも、
「わからないところがあったら聞いてね」
 と言って、三角定規を拭きはじめた。

 定規には、チョークの粉が固まって付着している。何度も丁寧に拭いて、やっと粉がとれたが、今度は真樹子の指が粉だらけになった。ざらりとした指のまま、藤本を見る。

 藤本は、何度も教室の時計や窓の外を見ては、ワークブックに目を落とす。だが、問題を解こうとする気配は見られず、ただその動作を繰り返しているだけだ。

「何かあった?」
「別に……」

 真樹子は藤本の様子を見ながら、黒板を雑巾で磨き挙げ、チョークの粉を捨てた。短くなったチョークは、チョークホルダーを付け、自分のチョークケースに入れる。

 藤本はそわそわと足を動かし、時計や掲示物、ワークブックに目線を動かす。ワークブックに取り組む様子も、帰る様子も見られない。

 仕方なく、真樹子は教卓に席を置き、職員室でするはずだった、ワークブックの採点をはじめた。間違っているところには赤線を引き、どこが間違っているかコメントをつけていく。採点の終わったワークブックが積み上がっていく。

 時計が十七時を指す頃、藤本は急に立ち上がった。
「もう、帰るわ」
 先程のしょげた様子は消え、笑顔でそう言う。

「ワークブック、できたん?」
「また今度するわ」

 不審に思いながらも、真樹子はそれ以上言葉を出すのを控え、藤本を送り出した。これ以上聞いたとしても、答えは返ってこないだろう。それならば、しばらく様子を見るしかない。

「さよーなら」
 藤本はひらひらと手を振って、走っていく。

「廊下は走りません」
 聞くはずのない注意をしながら、真樹子は先程のざらりとした指先の感触を思い出した。チョークがついた指先、それと同じ感触が、真樹子の中のどこかでする。

 それでも、それを飲み込むようにして、真樹子は傘を持つ藤本の後ろ姿を眺めた。

 それはいつも雨の日だった。

 藤本の誘いで、教室で居残り学習をはじめて、今日でもう五回になる。藤本は時折、真樹子に「勉強するから残る」と小さな声で告げに来るようになった。

 教室に生徒だけを残しておくわけにはいかず、自然、真樹子も教室で藤本に付き合う形となる。もっとも、それは「学習」とは言い難いものであったが。

 なぜ残りたがるのか、真樹子はいつも藤本に聞くのだが、まともな答えは返って来ない。それでも、その「学習」を彼女に許可していたのは、真樹子がなぜだか胸に引っかかるものを感じていたからだった。

 教卓に向かうと、嫌でも教室全体が見回せる。真樹子はまた、美晴の机が置いてあった場所を、見るとでもなく、眺めた。

「なんか、おもろいことないかなぁ」
 すっかり「学習」に慣れた藤本は、手元のワークブックを開こうともせず、指でペンを回している。

「勉強しないんだったら、帰ってもらうわよ」
 真樹子がそう言うと、藤本は拗ねたような顔をする。

「だって、勉強、おもろないもん」
「勉強したいって言ったのは、藤本さんでしょ」
 真樹子はワークブックの添削をしながら、会話を続けた。

「そらそうやけど、おもろないんやから、仕方ないやろ」
「私は面白いと思うよ、特に数学とか」
 本心を伝えたつもりだったが、藤本はえーっと驚いたような声を出す。

「わかるようになると、面白くなるから。プリント、あげたでしょ」
 ワークブックのすぐ横には、真樹子が用意した、簡単な問題が載ったプリントが置かれている。

 藤本は、ふん、と返事をするが、しばらくするとまた目をきょろきょろさせてペン回しをする。

 しばらく添削を続けていると、
「なぁ、先生って、彼氏おるん?」
 と藤本が中学生らしい質問をした。

「勉強中でしょ」
「ええやん。なぁ、おるん?」
 真樹子はしばらく考えてから、
「おると思う?」
 と聞いてみた。

「うーん、そうやなぁ。おらへんと思う」
「なんで?」
「だって、先生、あんまモテそうにないやん」
 藤本の言葉に、思わず笑ってしまう。

「なんでモテそうにないって思うん?」
「なんやろ。女子力っていうかなぁ、なんやそこんとこが足らへんように思うわ」
 今度はしばらく笑いが止まらなくなった。

「そんな風に見えてるのね」
「なんとなくやで、なんとなく。で、どうなん?」
 ご名答、と言いたいのをこらえ、
「秘密よ、そんなんは」
 と真樹子は笑いながら言った。

「つまらんなぁ」
「つまらなくて結構」

 ペン回しは続く。しばらくしてから、
「あ、そうや。うちのママな、モテるで。また彼氏できてん」
 と藤本が自慢げに言った。

「そうなん?」
 聞きながら、真樹子は胸がなぜだかざわつくのを感じた。

「うん。今まで彼氏いてなかったの、ほとんどないしな」
「モテるのね」
「せやねん。あーゆーのが女子力っていうんやな」

 真樹子は家庭訪問の時に会った、藤本の母親を思い出した。金髪に近い色の髪に、若い横顔ーー一体、いくつで藤本を産んだのだろう。

「女子力って、どんなんなん?」
 添削に集中している振りをしながら、真樹子は聞いた。

「えー、そら、見た目とか、大事やん? うちのママ、ネイルも上手やし、いっつもきれいにしとるし」
「そうなの」
「そんでな、あとは料理とかも頑張るしな」
「彼氏に食べさせてあげるの?」
「そうやで。当たり前やん」

 窓の外からは今日も雨音がする。その雨音が、教室を包み込む。真樹子がペンを走らせる音が、その空間に響いた。

「どこで食べさせてあげるん?」
 何気なく聞いたつもりだったが、藤本は下を向いた。

「それは……うちとか。弁当作ってあげたりとか」
「すごいのね。先生、お弁当とか作らないわよ」
「せやから、女子力ないって言うたやろ」
 藤本が顔を上げた。

「会ったことはあるの? ママの彼氏に」
「えー、あるよ」
「どんな人?」

「悪い人じゃない」
 と藤本はまた下を向いた。
「悪い人じゃないねんけどな」
 つぶやくように言って、藤本は首を傾げる。

「けど、なんなん?」
「なんもない」
 藤本はまた下を向く。話題を逸らすように、今度はプリントを見つめ、ペンを持つ。
 それでも、一問解くと、またペン回しをはじめた。

「ママな、パートで働いてんねん」
「そう。えらいのね」
「でな、五時まで仕事やから、帰って来るんが五時半くらいやろ。だから、それまでに帰るようにしてんねん。それまでに帰ってなかったら、かわいそうやろ?」

 真樹子は思わず、あ、と声を上げそうになった。この「居残り学習」は、いつも五時頃、唐突に終わる。では、この学習がない日はーー。

「じゃあ、こうやって残る日以外は、どうしてるの?」
「えー? 家に帰ってる」
 ではなぜ、雨の日に限って、こうして学校に残ろうとするのか。

「今日は帰らなくていいの?」
「今日は……雨やから」
「雨だと勉強したくなるの?」
 藤本はまた下を向いた。

「雨やとな、ママの彼氏、仕事ないねん。工事の仕事してるから」
 小さい声は雨音にかき消されそうになる。

「ママの彼氏は、そしたら、藤本さんのおうちにいるの?」
 しばらく沈黙が続いた。その後、
「悪い人じゃないねんけどな」
 という小さな声が聞こえた。

「一緒に住んでるの?」
「住んでるっていうか……うーん、そうやなぁ、だいたいうちに来る」
 真樹子は顔を上げ、藤本の顔を見た。

「藤本さん。ママの彼氏やとしても、おうちに居てほしくなかったら、ママに言うたらいいのよ。藤本さんのおうちじゃない」

「そんなん」
 藤本の目が泳ぐ。

「そんなん、ママがかわいそうやん。せっかく彼氏できたのに」
「外で会ってもらってもいいと思うよ」
「そんなん、せっかくママ嬉しそうにしてんのに」

 必死に言いつのる藤本を見て、真樹子は、希望にも似た絶望が、自分の内側で広がっていくのを感じた。

 どうして、この子はーーこの子たちはーーいつも、いつでも、自分のことを後回しにして、人の心配ばかりするのだろう。

 真樹子は、美晴の笑顔と、鋭い目とを思った。美晴に、自分は何かできただろうかーー過去は何度もよみがえって、真樹子を連れ戻そうとした。

 けれど、過去のことよりも、今は、目の前にある現実が真樹子を捉える。一体、私は何を見ていたのかーー真樹子は唇を噛んだ。今、何をしなければならないか。今、何が優先順位なのか。今、何ができるのか。必死に考える。

 なるべく自然に見えるよう、真樹子はワークブックに目を落とした。
「そしたら、彼氏はいい人なん?」
「う、うん。いい人やで。この前、ママに指輪も買うてくれた」
 藤本はほっとしたように答えた。

「それはすごいのね」
「せやろ?」
 藤本が家に帰らなくても済むよう、この居残り学習の場は、絶対に失ってはならない。

 だから、真樹子は添削を続ける。ペンを走らせ続ける。
「先生、指輪とか貰ったことないわ」
「そーやろーと思った」
 藤本は口を開けて笑う。笑った顔はあどけない。

 必死に取り繕っても、まだ、子供なのだ。この笑顔を守らなければならないーー真樹子は、薄暗い心の中で、光を捜した。蜘蛛の糸のように細い、一筋の光を。

 祈るように、真樹子は深い呼吸をした。

(了)


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