見出し画像

【小説】あしたの祈り【第5回】#創作大賞2023

 教室の中では、鉛筆の走る音だけが響いた。

 普段の授業ならば常に私語に注意しながら行わなければならないが、さすがに期末テストでは私語は見られない。

 七月頭のこの日、真樹子は机の間を巡回しながら、生徒の回答を覗いていた。

 中二の一学期の期末テストでは、例年通り、連立方程式を主に出題した。

 しかし、中一の分野の学習が怪しい、いや小学校の学習すら怪しい生徒がまざっている。そのため真樹子は苦慮し、記号で選べる穴埋め問題も用意した。アからオの記号を入れれば、文字式についての文章が完成する。

 そして、直前の授業では復習としてその文章を記号なしでそのままノートに記述させていた。せっかく授業を受けている生徒の0点は避けたいとの思いがあった。

 それでも、試験開始早々、机に突っ伏して寝ている生徒が何名か見られる。

 真樹子はその中の一人、藤本百合の肩をトントン叩いた。

 藤本は欠伸をしながら起きあがる。真樹子が穴埋め問題を指さして回答を促すと、藤本は面倒くさそうに五つの回答欄すべてにアを記入して、また机に突っ伏して寝てしまった。

 たしかに、これで0点は避けられた形ではある。真樹子はため息を深呼吸に変えて、その面倒な作業を、寝ている生徒一人一人に対して行っていく。

 寝ている生徒以外でも、ぼんやりしていたり、落書きをしている者もいて、ざっくり見たところ、今回のテストでも点数は期待できそうになかった。

 中間テストでも平均点は五十点を下回り、真樹子は自分の教え方に問題があるのかと落ち込んでいた。しかし、理科の田辺に言わせれば、「ほとんどの教科がそんなもんやで」ということになる。

 他の教科担当の教員も、0点が出ないよう、まんべんなく点数が取れるよう、出題を工夫するのだが、この学校では、指導要領に沿って出題すると、平均点が五十点を上回るのは難しい様子だった。

 チャイムが鳴った。

「鉛筆を置いて」
 という真樹子の声より先に、後ろの席の生徒から前に解答用紙を回していく。

「全然できへんかった」「どうにかなるんちゃうん」「それより眠いわ」

 急に騒々しくなった教室で、真樹子は人数分の解答用紙の数を数えた。

「はい、では数学は終了です。次の教科の準備をしてください」

 テスト期間は、テスト終了次第、午前に帰宅となる。テストはまだ続くが、生徒たちは次のテストよりも空いた午後の時間の方に興味がある様子だった。

 複雑な気持ちで解答用紙を職員室に持ち帰ると、岩本に声をかけられた。

「鈴木さんの弟が、痣をつくって登校してきたらしいの。兄弟喧嘩だって美晴さんが言ってるらしくて」

 嫌な予感がした。

「私、小学校に行ってきます」
「そうしてもらえる? 試験監督は私が代わりにやっておくから」

 礼を言って、真樹子は小学校に急いだ。

 黒板を前にして、机はコの字に配置されている。その中には肢体不自由の児童用であろうか、車椅子が入るスペースがカットされた、カットテーブルもある。そして、教室の奥には角型のクッションで仕切られた遊技スペースと見られるコーナーもあった。

 秋生の通うなかよし学級は、障害のある生徒たちに合わせて、通常の教室を配置し直したものらしい。クッションやロッカーの色がパステル調で、柔らかいイメージを作っている。

「痣をつくってきたのは初めてやから、一応中学にも連絡したんやけどねぇ」
 と五十代くらいの、山田と名乗った男性教員が、ごま塩頭をしきりに掻いた。なかよし学級の担任だという。

 秋生は先程から遊技コーナーで、音の出る絵本で遊んでいる。しかし、半袖・半ズボンの手足にはいくつもの青痣が見られ、見る者を痛々しい気持ちにさせる。

 真樹子は部屋の隅に座る美晴の姿を眺めた。半袖のセーラー服姿の美晴の腕にも、青い痣が見られる。

「おい、美晴ぅ、お前いい加減にしいや」

 山田がそう美晴に声をかけた。今日は美晴が秋生を学校に連れてきたので、山田がそのまま美晴を残したらしい。

「ちょっと待って下さい。私、美晴さんが秋生くんに手を出すなんて、信じられないんですが」

 真樹子はそう言ってから、秋生くんも手を出すとは思えません、と付け加えた。

 山田は、うーん、と相槌とも否定とも取れる声を出した。

「まあ、たしかに秋生が手を出すっちゅうのは難しいかもしれへんのやけど。この障害の子はちょっと頑固なとこもあるしねぇ。それに、連絡帳にも書いてあったから」

「連絡帳?」

「うん、なかよし学級では毎日連絡帳持ち帰らせてるんや。秋生んとこは、時々しか家のこと書いて来ないんやけど、今日は喧嘩したって書いてあるしねぇ」

 山田は「連絡帳」と大きく書かれた学習帳を真樹子に差し出した。

 広げられたページには秋生の体調などについて学校側からの連絡事項が並び、昨日の欄には「秋生と美晴がケンカしました。ケガはありますが、元気ですので学校に行かせます。母」とある。

「お母さんとはいつも連絡帳で遣り取りされてるんですか?」
「そやねぇ。秋生んとこはなかなか連絡つかへんし、連絡帳も毎日書いてくるってわけやないけど、必要なときには書いてきてくれてるなぁ」

 真樹子は手にした連絡帳を急いで繰った。中学生を持つ母親にしては、字が幼い気がする。

「あの、これは本当に」
 と真樹子が話し始めると同時に、
「なぁ、もう帰っていい?」
 と美晴が立ち上がった。

「まぁ、先生も来てくれたしなぁ。ええけど、もう手を出さんって約束できるか?」

 ふん、と美晴は大人しく頷く。どうやら、美晴と山田はそれほど険悪な間柄というわけではないらしい。

「ほな、ええけど。先生としっかり話するんやで。話してから帰りや」

 美晴はもう一度、ふん、と頷いて椅子に座りなおした。

「そしたら、なかよしは畑の授業やし、秋生は連れてきますわ。先生は美晴と少し話したってください。この教室は鍵もないし、適当にしといてくれたらええんで」

 山田はそういうと、秋生に長靴を履かせ、そのまま外に出て行ってしまった。

「ねぇ、美晴ちゃん、本当に喧嘩したの?」
 真樹子が聞くと、美晴はまた、ふん、と頷いた。

「私は美晴ちゃんがそんなことするとは思えない」
 そう言うと、真樹子は胃のあたりに鈍い痛みを感じた。喉の奥に、苦いものがこみあげてくる。

 美晴はしばらく黙っていたが、
「ええ子にしてたら、自転車貸してもらえんねん」
 と急にぽつりと呟くように声を出した。

「自転車?」
 唐突な話についていけない。

「施設の話。一週間ええ子にしてなかったら、自転車は貸してもらわれへん」
 真樹子は美晴の話に耳を傾けた。

「だから、月曜から金曜は我慢や。施設って、めちゃくちゃな奴おって、いきなり喧嘩売ってきたりすんねん。施設の先生はな、虐待された子はどうちゃら言うて庇うねんけど、こっちからしたら関係あらへんやん」

 おぼろげながら、美晴の過ごしてきた日々が垣間見えた気がした。

「せやけど、喧嘩してもうたら自転車貸してもらわれへん。だから何されても我慢や」

「どうして自転車を借りたかったの?」
 しばらくしてから、
「秋生んとこに行くから」
 という小さな声が返ってきた。

「秋生くん?」
「あいつの施設、遠いから、自転車やなかったら行かれへんねん」

 聞けば、美晴が入っていた施設から秋生が入っていた施設は十キロも離れていたという。

「そんな距離を自転車で?」
「小学生の小遣いは五百円って決まってた。せやし、毎週電車使ったら足らへん」

 事も無げに言うが、小学生が自転車で十キロの距離を往復するというのは容易なことではないだろうと真樹子は考えた。

「土日は外に連れて行かないと、あきはボコボコにされるから」
 そう言うと、美晴は下を向いた。

「何度も言うてんで。何度も。あきの施設の先生に、あきを守ってって言うたのに、次の週になると、また痣増えて」

「施設の他の子にされるの?」

「先生はな、はっきり教えてくれへんかったけど、絶対にそうや。だって、私んとこにもめちゃくちゃな奴おったもん。あきはしゃべられへんから、余計やられるに決まってる」

 沈黙が訪れた。

 けれど、本当にそんな状況であれば、きっとーー。
「それじゃあ、美晴ちゃんだって色々されたんじゃないの?」

 真樹子が聞くと、美晴は一瞬真樹子の顔を見て、再び床に視線を落とした。
 小さな、私はええねん、という声が聞こえる。

 そして、
「そんで、施設の行事とかなかったら、あきのとこに行くようにしててん。近くの店でお菓子買って、公園で食べんねん」
 と美晴はまるで楽しいことでも話すように明るい声を出した。

「あき、甘いもん好きやから」
 そうして、美晴の僅かな小遣いは大切に使われたのだろう。真樹子は、小さな美晴が、必死に自転車を漕ぐ姿が見えるように感じた。

「美晴ちゃん、じゃあ、今回は誰が秋生くんを殴ったの?」
 返事はない。

「一緒じゃないの? 施設のときと、今と。秋生くんも美晴ちゃんも怪我してるじゃない」
 美晴は黙ったままだ。

「私は美晴ちゃんが怪我するのも、秋生くんが怪我するのも嫌なの。それに、美晴ちゃんは秋生くんに手を出すような子じゃないでしょう」
 長い沈黙が続いた。

 どこからか、ピアノとリコーダーの音が聞こえる。リコーダーは、ところどころでピッと高い音で、メロディーを外す。小学校では当たり前に聞こえてくるだろう、そんな長閑な音が、なぜかこの場には似つかわしくないように真樹子には感じられた。

 しばらくしてから、
「なんで先生が泣くねん」
 という立ち上がった美晴の声が頭から降ってきた。

 あ、と声を出してはじめて、真樹子は自分が泣いていることに気づいた。
 鼻水をすする。

 本当はもっと聞かなければならないことがある。手を出したのは誰なのか。美晴と秋生はどうやって暮らしているのか。聞きたいことは次々と沸いていくのに、思うように言葉にならない。

 美晴は立ったまま、教室の窓をじっと見つめた。グラウンドの横の区切られた畑のスペースでは、秋生が楽しそうにぴょんぴょん飛び上がっている。

「あきは、ほんまにええ子やから」
「美晴ちゃんだっていい子じゃない」

 ええねん私は、という小さな声がまた聞こえた。

「とにかく、私がやったんや。それでええやろ」
 美晴は言うと、返事を待たずに、なかよし学級の扉に手をかけた。

「待って、美晴ちゃん」
 手を扉にかけたまま、美晴はゆっくり振り返る。

「美晴ちゃん、梅田で何をしていたの?」

 それだけは、どうしても聞いておかなければならない。美晴をこれ以上危険にさらすわけにはいかない。鼻水をすすりながら、真樹子は美晴の顔をじっと見た。

「梅田なんて、行ってへん」
 美晴は能面のような固い表情で答えた。

「でも、私、見たのよ。声もかけたじゃない」
 美晴は扉の向こうを向き、
「行ってへんもんは、行ってへんのや」
 と冷たい声を出した。

 ホームルームが終わると、教室はすぐに生徒の声が溢れる。期末テストを終え、夏休みが間近に迫ったこの時期は、特にその声が大きく感じられる。

 真樹子は配布したプリントの残りの部数を確認しながら、教室の奥の小さな黒板のスペースを眺めた。学校行事が書かれたそのスペースには、終業式の日付とともに、生徒が書いたのであろう「もうすぐ夏休み!」という大きな字が躍っている。

 下校する生徒を見守っていると、
「なあ、先生、夏休みって、どっか行くん?」
 という声が聞こえた。声の方向を向くと、藤本たち女生徒三人が、机の上に腰をかけ、足をブラブラさせていた。

「まだ決めてないけど、どこにも行かへんのと違うかな」
「そうなん? おもろないなぁ」

 真樹子は苦笑した。たしかに、自分が面白味に欠けることはわかっている。

「みんなはどうするの? 夏休み」
 聞くと、梅田で買い物をする予定は立てているようだが、彼女らもその他に取り立てて予定はないらしい。

「バイトできたら、全部解決やねんけどなぁ」
「中学生はバイトできないでしょ」

「そこがネックやねん。服も買いたいし、化粧品も買いたいやろ。電車賃もいるし」
 藤本たちは、やりたい事を数え上げる。

「団地の隣のうちな、高校生のお姉ちゃんおるねんけど、バイトしてるからお金あるし、夏休みにみんなで旅行するねんて」

 三人で、ええなぁ、を連発する。たしかに、中学生の小遣いでは、できることは限られるのだろう。

「バイトも大変なのよ」
 真樹子が諭すと、
「バイトできへんのも大変や」
 と藤本はむくれたように言った。

 真樹子が通った中高一貫の学校では、高等部でもアルバイトは禁止されていたし、夏休みには集中授業が設けられていたから、中高時代に自分でお金を稼ぐという発想がなかった。必要な参考書も辞書も、すべて親が買い与えてくれた。

 しかし、だからこそ、働いて得たお金で好きなものを買いたいという考えは、真樹子にとって、正直で真っ当なものにも思えた。

 どうやら今流行りらしい、韓国コスメの話を始めた三人をなんとか教室から出し、真樹子は教室のクーラーを切った。

 教室から出ると、七月の熱気がそのまま肌にまとわりつく。もう夕方だというのに蝉の鳴き声が止む気配はない。

 夕日の刺さる渡り廊下を通り、職員室に戻ると、田辺がパソコンに向かって難しい顔をしていた。

「どうされたんですか?」
 真樹子が聞くと、
「あ、ちょうどええわ」
 と田辺は真樹子に振り向いた。

 成績をつけるための作業をパソコンで行っているのだという。成績はテストの点数に加え、観点別の点数が必要となる。教員たちは授業態度や提出物の出来不出来をその点数に落とし込み、終業式に渡す成績表をつけなければならない。

 ちょうどいい、と田辺が言ったのは、その煩雑な作業を、はじめて行う真樹子に伝えるためだった。

「これは……なかなか大変ですね」
 田辺の画面を眺めながら真樹子が言うと、田辺は大きく頷いた。

「この学校ではあんまりいてへんけど、他の学校やと、成績の付け方にあれこれ言う保護者もいてるからねぇ。一応、説明できるようにしとかなあかんねん」
 田辺は眉間のあたりを指で揉んだ。

 その時、職員室の前の席に座る教頭が、
「米山先生!」
 と真樹子の名を呼んだ。

「児相から電話。中村さんだって」
 慌てて真樹子は電話口に向かう。教頭に礼を言って、受話器を掴んだ。

「お待たせしました。米山です」
「中村です。鈴木美晴さんのお母さんのケースワーカーさんと連絡がつきました」

「ありがとうございます! それで?」
「それが、ケースワーカーさんとはきちんと連絡取れてるそうなんですよ」

「えっ、どうやって?」
 驚いて、思わず大きな声が出る。

「電話連絡が主らしいんですが、携帯にかければほとんど出て下さる、と」
「学校からは繋がったことはないんですが」
 受話器を握る手が、汗ですべる。

「ケースワーカーさんによると、お母さんは就職活動を頑張ってらっしゃるそうで。ただ、あまりうまくいっていないらしいんです。それで、お忙しいんじゃないかと」

「そんな……。夜にかけても繋がらないんですよ?」

 二十一時や二十二時までかかるような、就職活動があるというのか。真樹子は何度も団地の部屋のチャイムを鳴らした時のことを思った。部屋の明かりは消え、生活の匂いはしなかった。

「うーん、困りましたね。ケースワーカーさんがおっしゃってる事とだいぶ違うみたいで」
「ケースワーカーさんは、家庭訪問はしてらっしゃるんですか?」

「や、今のケースワーカーさんは去年育休から戻られたばかりで、時短勤務されてるそうなんです。ですから、基本的には電話対応だそうで、家庭訪問はたまにすることがある、とおっしゃっていまして」

「その時にはお会いできているんですか?」
「会ったことはあるそうです。玄関先での対応になりますが」
「お部屋は見られてないんですか?」
「部屋?」

「私も一度しかお部屋に入ったことはありませんが、びっくりするくらい物がありませんでした」
 ドーナツを持って行ったときの、部屋の様子を思い浮かべる。座布団すらない部屋で、美晴と秋生は生活していた。

「何をおっしゃりたいんですか?」
「お母様がそこで生活しているという、実態というんでしょうか、そういったものが全く感じられなかったんです」

「なるほど」
「正直に申し上げますと、私は、美晴さんたちがネグレクトされている可能性があると考えています」
 真樹子は瞼を閉じて、一気にそう言った。

「ネグレクト?」
 中村の不審そうな声が聞こえる。構わず、真樹子は、
「美晴さんの不良行為の件でも連絡がついていません。この件ひとつ取りましても……」
 と続けた。

「ちょっと待ってください、ネグレクトだなんて。ケースワーカーさんと学校で、そこまで対応が異なると、こちらとしましては……」
 中村の声は狼狽しているように聞こえる。

「不良行為の件で学校と連絡を取るよう、ケースワーカーさんからお伝えいただくわけにはいかないでしょうか?」

「なにぶん、ケースワーカーさんはあくまでお母さんの生活を担当しているわけですから」

「子供の面倒を見るというのも、お母さんの生活の一部のはずです。先日は、美晴さんの弟の秋生くんも怪我をして登校しています。急を要する可能性が高いと思います」
 真樹子は必死に言葉を出した。

 時間が開いてから、
「わかりました。もう一度、こちらからケースワーカーさんに連絡をしてみます」
 という返事が聞こえた。

「お願いします」
 祈るような気持ちで、受話器を置いた。

 席に戻ると、
「ずいぶん粘っとったねぇ」
 と田辺が感心したように言った。

「で、どうやったん?」
 聞かれて、真樹子は電話の内容を田辺に伝えた。話すうち、岩本ら学年の教員が真樹子たちのまわりに集まってきた。

「学校からの電話には出ないけれど、ケースワーカーさんの電話には出るということね」
 話がおおよそ終わると、岩本がそうまとめた。

「そうなんです。どうしてでしょうか?」
 理由がわからない。真樹子は、また喉の奥に苦いものがこみあげてくるのを感じた。

 しばらく目を瞑っていた田辺が、
「ケースワーカーさんと連絡がつかなかったら、生活保護のお金は出ないね」
 とつぶやくように言った。

 岩本は苦しそうな顔をして、そうね、と同意する。
 学年の教員たちは沈黙した。

 しばらく経ってから、岩本は、
「児相の方は、もう一度ケースワーカーさんに連絡をとってくれると言ったのよね?」
 と真樹子の顔を見た。

「はい」
 岩本は苦しそうな顔のまま、
「じゃあ、それを待つしかないわね」
 と腕組みをした。集まってきた教員らに「仕事、仕事」と声をかけ、解散させる。

 岩本は、教員たちがそれぞれの机に戻ったのを確認してから、
「米山先生はよくやっているわ」
 と真樹子の目を見て言った。

「まだ何も結果は出せていません」
「真面目すぎるのも問題ね。米山先生は、教員としてできることは、もう全部やりました」
 岩本は断言する。

「だから、後は待つしかないわ。それから、手を抜くことも覚えないとね」
 岩本は続けて、
「田辺先生、手の抜き方も教えないと駄目でしょ」
 と冗談めかして田辺の方を見た。

「え? それ、僕の仕事なん?」
「当たり前でしょ、指導教員なんだから。それが一番大事なことかもしれないわ」

「困ったなぁ。うーん、そしたら、今日はもう帰ろか」
 田辺は伸びをして、困った顔のまま真樹子を見た。

「えっ、成績をつけるんじゃ」
 真樹子がそう言うと、
「先生、あかんでぇ。明日やれることは、明日やらんと」
 と田辺はぎこちなくおどけた。

 体が重い。スポーツドリンクを手に取るだけで、力を使い果たすような気がする。

 成績の処理を終えた金曜の夜から日曜の今日まで、真樹子はただひたすらベッドに伏して過ごした。ずっと寝ていたのに、数時間おきに目が覚める浅い睡眠が続き、ちっとも眠った気がしない。

 金曜の夜にコンビニで買ったサラダはまだ冷蔵庫に入れたままだ。何かを口にすれば吐き気がし、真樹子はひたすらスポーツドリンクと市販の胃薬を飲んで過ごした。

 スマートフォンは何度もバイブレーションの振動音を出したが、テーブルの上にあるそれに手を伸ばす気力がなく、放っておいた。

 スポーツドリンクを飲んでしばらくすると、やっと眠気が訪れたが、と同時に、ワンルームの部屋のチャイムが何度も鳴った。

「真樹子! 真樹子!」
 聞き覚えのある声に、真樹子は体力をふりしぼって、Tシャツと短パンの姿のまま、玄関に向かった。

「何してんだよ」
 ようやく開けたドアから、恋人の久保田が顔をのぞかせた。

「電話しても出ないし、LINEしても既読にならへんし」
「ごめん、体調悪くて」

 真樹子が謝ると、
「そんなことだろうと思った」
 と言って久保田はビニール袋をぬっと差し出した。中にはレトルトのおかゆやゼリー、ジュースなどが見える。

 礼を言う前に、久保田はズカズカと部屋に入り、カーテンを開けた。七月の太陽が、さっきまで薄暗かった部屋を容赦なく照らす。クーラーはきいているのに、熱が肌を突き刺すように感じる。

 久保田はテーブルの上に置かれたペットボトルと胃薬の山を見て、眉をひそめた。

「病気なら病気って、なんで連絡してこーへんねん」
 眼鏡の奥の目が怒っている。

「ごめん」
 久保田は床にどっかり座り込む。真樹子も座って、久保田の顔をぼんやり眺めた。

「また痩せたんちゃう?」
「そうかな」
「体重、測ってるか?」
「体重計ないから」
 久保田は大げさにため息をついた。

 言われるまでもなく、真樹子も体重が減っているような気はしていた。少し前から、スーツのスカートのウエストが、くるくる回るようになってきた。部屋着の短パンも、ウエストの紐を結ばなければ、ずり落ちてしまう。それでも、なんとか仕事はできていたから、真樹子はそうしたことからは目を背けていた。

「胃が悪いんか?」
 久保田は胃薬を手に取った。

「うん。なんか、吐き気がして」
 なんとか答えるが、やはり体が重い。真樹子はベッドに背中をつけて座り直した。

「仕事、大変なん?」
「うーん、ちょっと、ね」
「ちょっとちゃうやろう、こんなんなって」
 久保田は顔をしかめる。

「何やったら食べられる? おかゆやったら食べられるか?」
 彼は先程のビニール袋からレトルトのおかゆを取り出し、台所に置いてあった皿に中身を移す。レンジで温めると、真樹子の前のテーブルにそれを置いた。

「ありがとう」
 目で促され、食欲は沸かないまま、真樹子はスプーンでおかゆを口に運んだ。

「なあ、前も思ったんやけど」
 食べる様子を見ながら、久保田が口を開く。

「今の仕事、ちょっとしんどすぎるんちゃうか?」
「そんなこと……」
「しんどくなかったら、そんなに痩せへんやろ」
 真樹子は返事の代わりに、スプーンを口に運んだ。

「そんで、な。もうすぐ大学院の入試があるんやけど、それを受けたらどうやと思って」
 突然の話に、真樹子はスプーンを皿に置いた。

「え、だって、私、去年受けてないんよ?」
「それは関係ないやろう。企業から大学に戻ってくる人かていてるねんし」

 大学に戻るというのは、今の状況から逃げ出してしまうことにならないか。

「私は仕事を続けないと」
 つけ終わったばかりの成績を思い出す。真樹子は授業を工夫したつもりだったが、結局、大きく成績を伸ばした生徒はほとんどいなかった。まだ、何の結果も出せていない。

「でも、その仕事で、こんなに具合悪くなってるんやろ」
「そんな」

 明確に否定はできなかった。けれど、まだやらなければいけないことがたくさん残されている。真樹子は美晴のことを思った。児童相談所からの電話はまだかかってきていない。

 そのとき、流しこんだおかゆが、胃の中で暴れた。立ち上がり、慌ててユニットバスに向かう。便座を上げ、真樹子はこみ上げてきた物を吐いた。

「真樹子」
 久保田は慌てた様子で真樹子の背中をさする。

 すべて吐き終わると、久保田が渡してくれたコップで、真樹子は口を濯いだ。

「なぁ、やっぱり……」
 久保田が言い終わるのを待たず、真樹子は、
「大丈夫。ちょっと夏バテしただけ。大丈夫だから」
 と立ち上がった。

 明日は学校がある。夏休みに入るまでのあと一週間、授業をしなければならないのに、まだその準備ができていない。

「真樹子、ほんまに大丈夫なんか?」
 心配する久保田を前に、真樹子は口を引き、笑顔を作ろうとする。頬がひきつった。

「俺は、大丈夫って思ってへんで」
 久保田は下を向いて首を振った。

「とりあえず、院試のこと、考えてみて。もうすぐ夏休みやろ? 受付の締め切りは七月の終わりやから」

 言い終わると、久保田は、また来るし、と言い残して真樹子の部屋を出て行った。

(続く)


この記事が参加している募集

#眠れない夜に

69,118件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?