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【小説】あしたの祈り【第4回】#創作大賞2023

 学校に戻るとすでに十七時を過ぎ、職員室では田辺が帰り支度をしていた。

「どっか行ってたん?」
 田辺の問いに、真樹子は美晴たちの部屋の様子を話した。

「家に入れたんか。この学校では初やなぁ」
 田辺は驚いたようにそう言い、
「しかし、そんなに何もないのはおかしいなぁ」
 と首を傾げた。

「生活保護でしたよね、鈴木さんのとこは」
 真樹子がそう言うと、田辺が頷く。学校では修学旅行の積立金についてのプリントなど、生活保護家庭とそうでない家庭では配布物が異なることがある。そのため、担任は生活保護の家庭を把握する必要があった。

「だから不思議なんや。生活保護やったら、子供がいたら加算があるはずやし、弟に障害があれば、それにも加算があるはずなんや。めっちゃ多いって額ではないけど、生活に困るほどじゃないはずやけどなぁ」

 だとしたら、そのお金はどうなっているのか。美晴は母親が料理を作ると言っていたが、その生活が掴めない。

「美晴さんが詳しく話してくれていいないというのもありますけど……それにしても、不思議ですね」

 真樹子が腕を組んで考えていると、
「でも、先生、気をつけなあかんで」
 と田辺が真面目な顔で話し始めた。

「先生が鈴木のこと考えてるのはわかるけど、ここの校区は、色んな家庭があるし。若い女性やし、生徒の家に行くのにも、慎重にした方がええんちゃうかな。行ったらあかんわけじゃないねんけど……」

 真樹子は、学年主任の岩本の言葉も思い出す。踏み込みすぎなのだろうか。美晴に時間を割きすぎているだろうかーーそれでも、秋生の世話を焼く美晴の姿を思い出すと、もっと彼女のことを知りたいという気持ちが大きくなっていくのを、止められなかった。

 息が上がっている。自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえて、真樹子は両手を膝についた姿勢のまま、目をつぶった。

「米山先生、びっくりするほど遅いなぁ」

 目を開けて声のする方向を向くと、浜岡が立っている。ぐったりとした真樹子とは対照的に、顔色も呼吸もいつも通りで、全力で走った後とは思えない。

「リ、リレー、とか、出たこと、なくて」
 呼吸を整えながら、なんとか応える。

 六月に入り、この日は運動会の予行が行われ、学年対抗リレーの練習もあった。各学年の代表とともに、教員の選抜チームも生徒と一緒に参加する。毎年若手は必ず参加することになっており、新任の真樹子と浜岡も、先ほど役目を終えたところだった。

「バスケ部顧問ちゃうの?」
「顧問じゃなくて、副顧問です。私は、走るのも、ボール投げるのも、全然駄目」

 やっと息が落ち着いてくる。部活動の担当は、自分の得意不得意とは関係なく決まる。生徒たちより運動のできない真樹子は、練習には付き合うものの、指導らしい指導ができずにいる。

 浜岡は、そっか、と返事をして、グラウンドを眺めた。真樹子からバトンを受け取った浜岡は、生徒たちを牛蒡抜きしてトップでバトンを渡した。しかしその後、最終走の校長がまた抜かれ、生徒たちとはだいぶ差がついたままゴールを目指している。拍手がおこった。

「あいつらも落ち着かんなぁ」

 浜岡の視線の先には、中二のテントがあり、藤本たち女子生徒がはしゃいでいる。授業よりもこういった行事が好きなようで、今日は朝から鉢巻をどうやったらかわいく結べるのかと熱心に話していた。どうやらリボンのように頭の上でちょうちょ結びをすることにしたらしく、数人が同じ結び方をしている。

「ああ見えて、いい子たちなんですよ」

 本心からそう言ったものの、保護者が来る本番で、彼女らがもっとはしゃぐ様子がたやすく想像でき、真樹子はいささかげんなりした気持ちになった。

「それ言い出したら、あいつらもいい子らやで」

 浜岡は今度は体育倉庫のあたりを見る。ジャージのズボンを腰下あたりまで下ろして履く、通称「腰パン」の男の子たちが、生徒指導の教員に捕まっている。

「後でまた『お話』してあげなあかんな」

ーーリレーの選手が退場しますーー
 放送部のアナウンスで、生徒も教員も列になり、駆け足でグラウンドを一周してから退場門に向かう。

「米山先生、毎日遅くまで残ってるやん」
 と走りながら浜岡が言う。

「先生こそ、遅くまでいてるやないですか」
 遅くまで残る教員はいつも決まったメンバーだ。

「俺はな、体育会系やし、ずっと無茶やってきてるから平気やけど。先生は、適当にやって、はよ帰らなあかんで」

「私だって、体力には……」
 張り合おうとすると、浜岡はニヤニヤ笑った。

「それやったら、運動会の本番は、もうちょっと頑張ってもらわなあかんな」

 言い逃れができないまま退場門に到着し、浜岡はそのまま走って体育倉庫に向かっていった。

ーータイミング悪く、着いてすぐに雨が降り始めました。万博記念公園では、ソラードというアスレチックのようなものがあり、生徒たちに誘われて私も合羽でついていったのですが、丸太で滑って尻餅をつきました。ーー

 郵便受けは錆び付いていて、投入口に触れるとギイという大きな音がする。夜、団地の棟の暗い入り口で、真樹子はその口に封筒を二通入れた。一通は美晴の母に宛てたもの。もう一通は、美晴宛てだ。

 鈴木美晴の団地の部屋に入って以降、真樹子は美晴本人にも手紙を出すようになった。

前回の手紙では運動会本番について。今回は遠足で訪れた万博記念公園の様子を書いた。どちらも最後には「何かあったら連絡下さい」と携帯番号を書き添えた。

 建物の出口から学校に戻る道に出ると、
「おい、リレー、こけたんか」
 と、突然、団地の窓が開き、上から美晴が顔を覗かせた。

 運動会について書いた手紙では、リレーに出た自分のことも書いていた。浜岡に発破をかけられ、張り切ってみたのだが、足がもつれ、肘をついて転んだのだ。結局、バトンを渡すのが大幅に遅れ、浜岡の足をもってしても、生徒に追いつくことはできなかった。

「そうなの。これ、見える?」
 まだかさぶたの残る右肘を高くあげる。街灯が、右肘を照らした。

「アホや」
 窓から身を乗り出して肘を見た美晴が、そう言って笑った。

「秋生くん、元気?」
「……まあな」
「蝶々、また一緒に歌いたいわ」
 美晴は笑うのを止め、咳払いをした。

「おい、勘違いすんなよ。あんたがこけたって言うから、笑ってやろうと思っただけやからな」

 そのまま、窓はピシャリと音を立てて閉まった。

 会議室に入ってから、鞄から名札を取り出して首にかけた。北川市の市役所内にある会議室では、市内の学校に勤める教員向け人権研修会が行われていた。

 教員たちは、クラス担任の業務や授業、部活動などの他、校内分掌と呼ばれる校内で振り分けられた業務の「部」に所属する。真樹子は三年、一年の各学年の教員とともに三人で「人権教育部」の仕事を担うことになり、真樹子にとってはこの研修に参加することがその初仕事となった。

「前から詰めて座って下さい」

 教育委員会の人間だろうか、スーツ姿の男性が、会議室の前で大きな声で誘導している。市内の小中学校合わせて約六十校、各校一人ずつが参加するため、中規模の会議室だと手狭に感じた。

「では、北川市の小中学校における、人権教育の取り組みについて紹介させていただきます」

 数名の教員が前に出て、昨年度までに実施した人権教育について発表をしていく。修学旅行にからめた平和学習などが、写真やビデオを交えて紹介された。

 授業の紹介の後は、同じ机の教員同士で紹介された授業の感想や、学校での課題について話し合う時間が十五分程度設定された。それが終われば、アンケートを記入して、研修は終了となる。

「よろしくお願いします」
 と挨拶し、真樹子は隣に座る女性と向き合った。四十代くらいだろうか、少しふっくらした教員は、所属する小学校と萩原という名字を名乗った。

「小学校と中学校じゃ、違うわよね」

 萩原は照れたように笑って、周りを見渡した。周囲の教員たちも、様子を見ながら一言二言会話を進めている様子だ。

「それにね、私、ずっとなかよし学級の担任だから、一般のクラスとは違うかもしれない」

 何か引っかかるようなものを感じて、真樹子は萩原の名札を見返した。

「あっ……」
 思わず声が出た。萩原の所属する小学校の名前を、どこで見たのか思い出した。鈴木美晴の個人ファイルだ。最初に通っていた小学校として書かれていた。

「どうかした?」
「うちのクラスの子が、萩原先生の小学校に通っていたようなので」
「あら、誰かしら」

 小学校の教員にも転勤がある。それに、もし長く同じ学校に勤めているとしても萩原の記憶にあるかはわからなかったが、真樹子は鈴木美晴の名前を出してみた。すると、

「あら、みっちゃん!」
 と萩原は手を叩いた。

「ご存じですか?」
「もちろん! 私は担任してたわけじゃないけどね。みっちゃんの弟が、なかよし学級だったから」

「秋生くんですね」
「そう! あっくん。あっくんもいい子だけど、みっちゃんもいい子でね。とっても仲が良くて」

「いい子……?」
 違和感を感じたが、萩原は嬉しそうに話を続ける。

「みっちゃんが、いっつも、あっくんを連れて学校に来てね。放課後も、みっちゃんの授業が終わるまで、あっくんは待っていて、一緒に帰っていたの」

「美晴さんは毎日学校に来てたんですか?」
 質問すると、萩原は怪訝そうな表情をした。

「ええ、もちろん。おばあさんが倒れたときは、しばらく休んでいたけど……それ以外は休んだことなかったんじゃないかしら」

 個人ファイルにあった名前??傍線で消された名前は、やはり祖母だったようだ。

「おばあさんが、倒れたんですか」
 萩原の言葉を繰り返すと、彼女は、そう、と言って、顔を伏せた。

「ずっと三人で暮らしていたんだけど、おばあさん、体調が悪かったそうなのね。私も知らなかったんだけど。倒れて、そのまま亡くなってしまって。あの時はまだお母さんが引き取れる状況じゃなかったから、みっちゃんとあっくんは別々の施設に引き取られることになって。みっちゃんが泣いて泣いて……離れたくなかったのよね、あっくんと」

 萩原たちは、ケースワーカーや児童相談所の職員とも会議をし、二人を同じ施設に入れられないかと相談したのだが、それは叶わなかったのだと話す。施設は男子寮と女子寮とで別れていることが多く、加えて、障害のある秋生を受け入れてくれる施設は少なかった。

「そのとき、お母さんはどうして引き取らなかったんですか?」
「あら、聞いていないの?」

 萩原は迷うように指をもじもじと動かしてから、顔を上げた。

「施設に入っていらしたから」
「施設? お母さんが、ですか?」

 薬物治療施設として有名な名前を、萩原は告げた。真樹子もニュース番組で聞いたことがある名前だった。薬物の中毒患者が共同生活を送り、回復を目指すプログラムを実施している。そこで、美晴たちの母は一年ほど過ごしていたらしい。

「その施設を出たら、子供たちと一緒に暮らしたいっておっしゃっていたんだけど」

「今は、三人で暮らして……」
 なぜだか断言することができず、語尾が濁った。

「そう。とにかく、みっちゃんとあっくんが一緒に暮らせるようになってよかった」

 萩原も何か考えている様子だったが、気を取り直したように、美晴がいかに優しい子供だったか、友達に囲まれていたか、勉強に熱心に取り組んでいたのかを話した。

「特に、なかよし学級の子たちに優しくてね。あっくんだけじゃなくて、みんなによ。だから、転校することを話した日には、みんな泣いたの」

 卒業した小学校や今の美晴の姿とは、あまりに違う姿ーーけれど、真樹子は心の奥底では、ずっとその「いい子」を知っていたような気がしていた。

「あら、話しすぎたわね」

 萩原は会議室を見渡し、首を竦めた。研修に参加した教員の多くは「話し合い」もアンケートの記入も終え、会議室を後にしている。がらんとした会議室で、真樹子たちは慌ててアンケートを記入した。

「みっちゃんのこと、よろしくね」
 先に記入を終えた萩原が、それだけ言って去っていった。

「やっぱり駄目だったわ」
 午後七時、出張を終えて学校に戻ってきた岩本が、ため息をついた。

「どうかされたんですか?」
「児相。話にならない」

 この日、真樹子の隣のクラスの男子生徒の件で、児童相談所の職員と教員数名が、ケース会議を開いていた。母親に精神疾患があり、育児に自信をもてず、自ら通告したらしい。

「ケース会議、うまくいかなかったんですか?」
「ううん、そうじゃないのよ」

 男子生徒の母親は不安が強いようだが、生徒本人は落ち着いており、通学もきちんとできている。長期的な見守りは必要だと結論は出したものの、緊急の対応は必要がなさそうだと岩本は話す。

「この地域の児相って、地区ごとに担当が決まっているから、この学校の校区は全部、同じ人なの。だから、聞いてみたのよ、鈴木美晴の件」
 と岩本は腕組みをする。

「聞いて下さったんですか」
「うん。米山先生にはああ言ったけど、私も気になってね」

 出張で萩原と話した翌日、真樹子は岩本をつかまえ、鈴木美晴の母のケースワーカーや、児相の職員に会いたいと申し出た。美晴の現在の状況は、家庭に問題があるとしか思えなかったからだ。

 しかし、そのとき、岩本は
「虐待されてるような、証拠はあるのかしら?」
 と冷静に訊ねた。

「そういったものはありませんが」
 真樹子が応えると、
「じゃあ無理ね」
 とすぐに結論づけた。

 生活保護のケースワーカーは美晴ではなく母親の担当であり、母親の了解がなければ連絡をとることはできない。そして、児童相談所については、虐待が疑われるような事案でなければ、学校から通告することはないのだと岩本は言った。そう言われると、真樹子はそれ以上動くことはできなかった。しかし、説明のできない不安は消えることがなかった。

 その時は連絡は取れないと言っていた岩本だが、気にしてくれていたようだ。

「児相の方は何ておっしゃってたんですか?」
「施設からお母さんが引き取ったときは、色々サポートしてたらしいんだけどね。問題がないってことで、今は連絡とっていないらしいのよ」

「そんな……」
 それまで一緒に暮らしていなかった親子が、暮らし始める。ましてや、薬物の治療をしていた母親だ。その生活が始まって、まだ二、三年しか経っていない。

「私も、お母さんの治療のこととか、色々お話してみたんだけどね、何か問題があるんですかって聞かれちゃって」

「問題って、美晴さんは登校できていないじゃないですか」

「そう言ったんだけどね。弟は登校できているみたいだし、美晴さんは、お母さんはちゃんと世話してるって言ってるじゃない? そうすると、児相としては、家庭の問題じゃなくて、美晴さん個人の不登校の問題だって捉えてしまうのよ」

「でも……」

 祖母と暮らした「いい子」の美晴が、数年でどうしてこうなってしまうのか。すべて美晴個人の問題だと言うのか。

「米山先生の気持ちはわかるの。私もずいぶん言ったんだけど……駄目だったの。児相もすごく忙しいらしくて。虐待とか、増えてるでしょう? この件で、そこまで動けないらしいのよ」

 岩本は再び長いため息をついた。

 真樹子も長いため息をつく。このまま何もできないまま時間が経つのが耐えられなかった。かといって、何か案が浮かぶわけではない。何もできない自分自身にも、腹が立った。

 立ち上がって、グラウンドに向かう。スーツ姿のまま、真樹子はグラウンドを走りはじめた。

「おーい、何しとるんやー」
 体育倉庫のあたりにいた浜岡が、声をかけてくる。授業の準備だろうか、ボールの入ったかごを運んでいる。

 真樹子は応えず、走り続ける。
「スーツやん、またこけるで」
 かごを置いて、浜岡が追いかけてくる。

「スッキリしたくて」
 応えてから、奥歯をぎゅっと噛みしめる。これ以上話したら、泣いてしまいそうだった。

 浜岡はそれ以上何も言わず、真樹子の横で、一緒に走り続けた。

 土曜の夜、阪急東通商店街は人の波にあふれ、まっすぐ歩くことが難しい。梅田駅から東に向かうこの通りは、梅田で最大の歓楽街である。アーケードからの光とは別に、左右に並ぶ居酒屋やレストラン、バーのネオンが通りを照らしている。久保田と真樹子ははぐれないように互いの姿を何度も確認しながら歩いた。

「久しぶりやね、このへん」
 真樹子がそう言うと、久保田は、ああ、と返事しながら眼鏡を中指で上げる。

 梅田に出るのも、土曜の夜に遊びに行くのも、彼と会うのも、真樹子にとっては久しぶりの出来事だった。ゴールデンウイークに会って以降なかなか予定が合わず、やっと会えたのは六月半ばの今日だった。

「何食べよっか?」
 真樹子が尋ねると、久保田は、そうやなぁと言いながら、通りの店を見渡した。

「それより、飲みに行くか?」
「今日は……」
 採点しなければならないワークブックが残っている。それに、研究授業に向けた指導案を作成しようと思っていた。

 口ごもる真樹子を見て、久保田はため息をついた。

「真樹子、就職してから、変わったよな」
「え、そんなこと」
「余裕がないっていうか。他の就職した連中は、もっと余裕あるよ」

 ごめんという言葉が口から出る。気まずい空気のまま、店を決められず、新御堂筋を渡って、通りを奥に進んだ。

 人の波にもまれ、彼を見失いそうになる。きょろきょろ眺めていると、なぜか見たことのある顔に出会った気がした。

 何か話そうとした久保田を手で制して、もう一度前方に目を凝らした。スーツ姿の男性と手を繋ぐ若い女の子。Tシャツにデニム生地の短パン。長い黒髪が横を向くーー。

「美晴ちゃん!?」
 切れ長の目がびくっと動いて、ゆっくり真樹子の顔を捉える。

「美晴ちゃんでしょ? 待って。美晴ちゃん!」
 女の子はスーツ姿の男性を突き飛ばすようにして離れ、そのまま横道に入っていく。

「待って! 美晴ちゃん、待って!」
 叫びながら真樹子も走る。

 人にぶつかる。
 舌打ちが聞こえる。

 それでも、追いかけないわけにはいかない。

 東通りから横道に外れ、道を渡って、お初天神の方向に女の子は走っていく。しかし、真樹子が信号に阻まれるうちに、その影が消えていく。

「待って!」
 叫ぶ声が、届かない。

「真樹子!」
 追いかけてきた久保田が、肩に手をおいた。
「何やってんだよ」

 手を振り払い、美晴の名前をもう一度叫ぶ。しかし、その声は周囲の店から流れてくる音楽にかき消されていった。

「もしもし。米山です。お休みのところすみません。岩谷先生でいらっしゃいますか?」
「あら、米山先生。何かあった?」

「今、梅田にいるんですが、鈴木美晴を見ました」
 息を切らしたまま、真樹子は岩本に話す。

「鈴木さんは梅田で何をしていたの?」
「男性と手を繋いで歩いていました」
「どういうこと?」
「男性の後ろ姿ですが、鈴木よりもずっと年上に見えました。援助交際の可能性があると思います」

「お父さんという可能性はない?」
「私に気づいて逃げ出したので、その可能性は低いと思います」
「それで、その二人は?」
「すみません、見失いました」

 繁華街を駆けていく美晴の姿が、まだ瞼に残っている。電話をかけながらも、その残像を探すように、真樹子の視線は繁華街の中を彷徨った。

「二人とも?」
「はい。鈴木は一人で逃げてしまって」
「男性は?」
「鈴木を追いかけたもので、どこに行ったのか……」

「不明なのね」
「ええ、そうなんです、でも、どのように対応したらいいのか、わからなくなってしまって」

 救いを求めるように真樹子がそう言うと、岩本は、
「わかりました」
 と落ち着いた声で応えた。

「あの、警察に行った方がいいでしょうか?」
「警察?」
「ええ、事が事ですし。このままでは鈴木の身の安全がはかれません」

「鈴木さんは補導されたわけではないのよね?」
「ええ。まあ、そうです」
「それで、援助交際とハッキリわかるような証拠はある?」
「えっ、その、状況から見て……」
 真樹子の言葉は詰まった。

「それは米山先生の判断ね?」
「そう、なりますね。でも……」
「米山先生、落ち着いて。この状況で警察に行っても、何もしてもらえないわ」

「でも、このままにしておくわけには……」
 どんな方法でもいい。真樹子は美晴を探したかった。

「気持ちはわかるけど、逃げられてしまった以上、今日はもう、どうしようもないんじゃないかしら」
「他にできることはないでしょうか?」
「残念ながら、ないわ」

「でもきっと、鈴木はまだ梅田に……」
 と真樹子が話すと、岩本は、
「落ち着きなさい!」
 と強い声を出した。

「月曜に、緊急で学年会をしましょう」
「学年会ですか?」
「そう。そこでこの件を話し合いましょう。それまでは、この件は一旦忘れなさい」
「忘れるというのは?」
「とにかく、忘れるの。この件は、月曜まで私が預かります」

 しばらく間をおいて、真樹子はようやく、
「はい」
 と返事をした。

「それまで、米山先生はしっかり休んで。この件をこれ以上考えてはいけないわ。わかった?」
「……わかりました」
「しっかり休むのよ」

 岩本の声が優しく響いてから、電話は切れた。真樹子の耳に、まだその声は残っている。それでも、真樹子の目は、繁華街の中に、美晴の姿を探し続けた。

 背の低いパーテーションで仕切られているものの、事務所内の声は筒抜けだ。ひっきりなしに電話のベルが鳴り、それに対応する児童相談所の職員の声が聞こえる。

 児童相談所は、北川市に隣接する山中市の中心部、山中市役所の向かいの建物にあった。三階建てのこじんまりとした建物ではあったが、一階には医師の相談室もあり、遊戯室のような部屋も見えた。

 真樹子が案内されたのは二階フロアで、フロア全体がいくつかのパーテーションで区切られている。

 目の前に置かれたグラスのお茶を飲もうか迷っていると、三十代くらいの痩せた男性がパーテーションの内側に姿を見せた。目の下に大きなクマがある。

「地区担当の中村です」
 真樹子が名乗る前に、名刺を手渡された。

「あの、私は鈴木美晴の担任の」
「岩本先生から聞いています。米山先生ですね」
 中村は慌ただしく椅子に腰を下ろした。

「鈴木美晴の件なのですが」
 切り出すと、
「今度は不良行為の疑いですか」
 と中村は持ってきたファイルに目を落とした。

 阪急東通商店街で美晴を見かけた週開けすぐの月曜日、約束通り、岩本は緊急で学年会を招集した。美晴に梅田で逃げられた経緯を説明し、緊急性がある、と真樹子が説明すると、学年の教員たちは押し黙った。緊急性は理解してもらえたものの、打つ手が限られている。

 重苦しい空気の中で、岩本は、児童相談所に通告することを提案した。虐待という観点ではなく、美晴本人の不良行為という観点で通告することならできるという結論に達したのだ。そしてようやく地区担当の中村に会う約束を取り付けたのが、二週間も経ち、六月の下旬となった今日だった。

「ええ。不良行為の件ですが、私は家庭に問題があるのではないかと疑っています」
 と真樹子は椅子から身を乗り出した。

「でも、美晴さん本人は、母親が家事を行っていると言っているんですよね?」
「それはそうですが。私は、それも怪しいと思っています」
 中村は、うーん、と低い声を出した。

「弟の秋生くんは登校もできているし、不良行為はない」
 中村はファイルの文字を追っている。
「でも、不良行為の件でも、保護者とは連絡がついていません」
「不良行為の、疑い、ですね。正確に言えば」
 中村は早口にそう言ってから、顎に手を当てた。

「確かに、まだ疑いの段階ですが。でも、このまま放置しておくわけにはいきません」
 真樹子は必死に食い下がった。

「それはそうですね、児相としても、通告を受けて放置するわけにはいきません」
 中村は右手で眉間を揉んでしばらく考えているようだった。

「では、こちらから、お母さんのケースワーカーに……」
 と中村が話し始めた瞬間、
「中村さん!」
 二十代くらいの女性が、パーテーションの向こうから駆け込んで来た。

「今、会議中なんだけど」
 中村が怪訝そうな顔を向けると、女性は彼に何か耳打ちした。

 途端、中村の顔がさっと青くなった。
「えっ、病院? なんで?」

 小声なのではっきりとは聞き取れなかったものの、どうやら中村が担当している児童が大きな怪我をしたらしい。事情を知らない真樹子にも、それが緊急事態であることは読みとれた。

「失礼。急に行かなければならなくなりました」
 中村は青い顔のままそう言ってパーテーションの向こうに行こうとして、それから一度立ち止まった。

「鈴木さんの件については、こちらからお母さんのケースワーカーに連絡を取ってみます。何かあったら、先生に連絡しますので」

 返事を待たず、中村は走って行ってしまった。真樹子は慌ただしさの中にぽつんと取り残された。

 真樹子はテレビで見たことのある、災害時医療のトリアージを思い出した。パンク状態になった医療現場では、治療の優先度合いを分類し、患者にトリアージタグをつける。最も優先すべき患者から、処置をされない者まで、タグを見ればその優先順位がわかる。

 児童相談所に来れば、そこは既にパンク寸前であることが読みとれた。
 では、美晴に、秋生に、つけられたタグは何色なのか。「何か」があって、連絡がくるのはいつなのかーー真樹子は、答えの出ない問いをもう一つ抱えたまま、児童相談所を後にせざるを得なかった。

(続く)


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