【小説】愛の稜線【第4回】#創作大賞2023
雨の夢を見ていた。わたしめがけて、雨はずっと降り注ぐ。前後が見えなくなったわたしは、糸のように連なる雨の隙間で、呼吸する。少し息を吸い込みにくい。けれど、不快ではない感覚の中に、わたしはいた。
だから、それが現実の音だと気づくまでに、時間がかかった。まるで、譲さんが本物の雨を連れてきたかのようだった。
暗闇の中、床から天井まで続く窓は、雨に打たれて濡れながらも、夜の光を映している。
今は一体何時だろう。ベッドに横になったまま、わたしは、人影に、目だけを向けた。
「寝とったん?」
譲さんは灯りをつけないまま近づくと、ベッドの横に腰をかけた。
「えーと。掃除をして、ベッドで本を読んでいたんですけど……」
いつの間にか、昼間に譲さんのマンションで過ごすことが当たり前になってしまったわたしは、時々こうしてベッドで横になるようになっていた。
リビングのソファは見た目はいいのだが、座面が堅く、座り心地が悪い。そこで、立ち入りが許されている寝室で、寝ころびながら本を読むという、だらしのない癖が身につきつつあった。指でベッドの上を探ったが、本が見つからない。眠っている間に、いつの間にか、床に落としてしまったのかもしれない。
腕を床に伸ばして探っていると、譲さんがわたしの肩を撫でた。
「何探してるん?」
彼の声は、行為とは裏腹に、当惑しているように聞こえる。
「本を、落としてしまったみたいで」
わたしの声は、戸惑いなく真っ直ぐに口から出た。
「そうか」
譲さんはため息のような長い呼吸をして、立ち上がると、服を脱ぎ始めた。窓から漏れる夜の光で、そのシルエットが見える。服を脱ぐ様子はゆっくりと几帳面で、彼の性格を表しているかのようだ。
やがて、下着姿になった譲さんは、ゆっくりとベッドに横になった。Gパンにタンクトップという姿で横になっているわたしに近づき、Gパンごしに、そっと足を撫でる。
「嫌か?」
困ったような声が聞こえる。
言われた瞬間、そうか、と膝を打ちたいような気分にかられた。
鍵を預かって部屋を好きに使うという行為、時折もらうお小遣い、昼夜のドライブ、高価な食事、プレゼント――どこかで感じていた違和感の正体は、二人に欠けていたそれだったのだと、ようやくわたしは気がついた。
「嫌ってわけじゃ……」
男性経験がないわけではない。高校生のとき、同級生とそういう関係になったことがある。けれど、それは特別楽しいものでも、かといって辛いものでもなかった。だから、わたしにとって、そういう行為は、相手が誰であれ、それ以上でもそれ以下でもなく、ただの行為だ。正直に言えば、興味はない。けれど、嫌だという積極的な感情もなかった。
わたしの快適な環境が、より強固になるのであれば、迷う理由はなかった。
「ほんまにええんか?」
どちらかといえば、譲さんの方が迷うような様子を見せながら、それでもわたしたちは距離を縮めた。
「ナオミちゃん……」
その最中で、彼は何度も愛していると言い訳のようにつぶやいた。窓を打ち付ける雨音に、その声は切れ切れになる。
儀式のようなそれが終わると、わたしはなぜか自分がほっとしているような感覚であることに気づいた。
今まで名前のなかったものに明確な名を与えるような、座りのいい感覚。ただの行為だったが、わたしはそれが二人を自然な型に落とし込んだような気がした。
しばらく二人でじっと横になってから、わたしはもう一度指で床を探った。さらりとした紙の感触がする。姫野カオルコの単行本をつまむように引き上げから、わたしはベッドから身体を起こした。
※
「ああ、もうあかん。全然鳴らへん」
エリカは龍笛を持ったまま、肩を落とした。
九月はじめの今日、音楽学部の専攻科目、雅楽が、夏期集中講座として開講された。約一週間、午前・午後を費やして連続開講され、最終日の午後には、それまでに練習した越天楽など有名な曲の、ささやかな発表会が予定されている。
初日の今日、午前は、編成の割り振りを決め、楽譜の読み方などの共通した講義が行われた。午後は、午前に教えられた曲の、楽器別の練習が行われているが、まずは楽器を鳴らすことができるようになるための、自主練習の時間が設けられていた。
龍笛という横笛担当になったわたしたち数人は、地下の広い防音練習室で、それぞれが樹脂製の安いそれを持って、楽譜に向かっていた。しかし、皆が皆、曲以前に、楽器を鳴らせないという問題にぶつかっていた。
「あかんな、なかなかやわ」
エリカに同意して、わたしも唇から笛を離す。一般的に横笛に分類されるそれは、息の加減が難しく、初心者がぱっと音を出せるものではない。部屋にはピッという、高い音が時折響き、それぞれが、音を出すのに苦労している様子が見てとれた。
練習に飽きたエリカは、壁に背をもたれかけ、スマートフォンを取り出した。
「なぁ、そういえば、ダイヤモンド辞めたん?」
「はっきり辞めたってわけじゃないねんけど……」
「でも全然店出てへんやん」
「シフト表出すの忘れて。そのまんま店に行ってないから」
客相手だろう、LINEでスタンプを選びながら、エリカはふうんと相槌を打った。
大学の夏期休暇は、こうした集中講義を除き、九月末まで続く。
八月半ばにシフトに入ってからら、ダイヤモンドには行っていないから、エリカに会うのも約二週間ぶりとなった。久しぶりに会った彼女は、海にでも行ったのか、少し日に焼けた健康的な身体を、ミニのワンピース姿で惜しげもなくさらしている。
「ダイヤモンド行ってへんのやったら、お小遣い困らん?」
「うーん、まあ」
「譲さんと撮影してお小遣いもらってんの?」
「まぁ、そうやなぁ」
どう説明すればいいか少しの間迷ったが、考えるのも面倒になり、結局、正直に今までの経緯を説明する。聞き終わると、エリカは壁から身を起こし、
「それって、付き合ってるってこと?」
と驚いたような声をあげた。
「うーん、まあ、そんな感じかなぁ」
男女のどのような状態が「付き合っている」ことになるのかはわからないが、そういうことにしなければ、この関係は説明がつかないような気がした。
「まーじーでー」
エリカは語尾を伸ばした大きな声を出して、天井を降り仰いだ。
「ていうか、譲さん、いくつなん?」
「四十……いくつやったかなぁ」
「それやったら、お父さんとそんなに変わらへんのちゃうん?」
父は五十代だ。言われて気づいたが、譲さんはわたしよりも、父の世代にずっと近い。
「ほんまや」
感心して声を出すと、エリカは笑い出した。
「そんなんも気づいてなかったん?」
「うん、あんま考えてなかった」
エリカはすっかり龍笛もスマートフォンも放り出し、お腹をかかえて笑っている。
「前から年上好きやった?」
「そんなことないよ。高校生んときは同い年の彼氏おったし」
結局数ヶ月付き合って、なんとなく別れてしまったが、彼氏という存在がいたことは確かだ。
「そしたらなんで、今回は譲さんなん?」
「わからん。なんとなく。とにかくなんとなく、そんなんなってた」
エリカは急に真顔になり、
「わたしは客と付き合うとか、考えられへんなぁ」
と顔をしかめた。
「なんで?」
「わたし、イケメンじゃないと無理やもん」
エリカは最近ドラマによく出る、二十代後半の俳優の名前を挙げた。ファンクラブに入ろうか迷っているという。
「イケメン好きやったん?」
「そらそうやで。付き合うんやったら、イケメンやないと」
エリカはなぜか胸を張る。
「そしたら、イケメンが客に来たらどうするん?」
「そん時は考えさせてもらうわ」
どうやら理想が高そうだ。
「それやったら、譲さんとか、考えられへんやろなぁ」
「う、うーん。まぁ、好みは色々やからなぁ。譲さんのことが好きなんやったら、ええんちゃう?」
気を使っているのだろう、言葉を濁している。
「『好き』って感じでもないねんけどな」
思わず、本音がポトリと漏れる。
「じゃ、なんで付き合ってるん?」
「なんとなく」
「なんとなく、で、わざわざ四十のおっさんと付き合ってるの?」
そう言ってから、エリカは顔色を変えた。まずいことを言ってしまったと思ったのだろう。次の言葉を探しているようだが、見つからないのか、下を向いた。
エリカは正直な人だ。譲さんが「四十のおっさん」だということにも、間違いはない。けれど、その言葉で、わたしと彼との関係が何か汚れたもののような気がして、それまでそういう言葉に触れていなかったわたしは、どこかがチリリと痛むのを感じた。譲さんがお小遣いをくれることも、それに拍車をかけている気がする。それまではお小遣いも有り難がっていたくせに、わたしは、あべこべに彼を恨んだ。
その時、きれいな音が広い部屋に流れた。わたしたちとは対角線になっている部屋の隅で、フルート専攻の真面目そうな女の子が、午前中に見本として聞いたメロディーを、そっくりそのまま鳴らしている。フルートとよく似ているから演奏しやすいのか、彼女の龍笛の音は澄んでいる。
その場の視線は彼女に集中した。ワンフレーズ演奏して、彼女の指が止まる。拍手が起こった。
「練習、しよか」
エリカは下を向いたまま、つぶやくように言った。
「そやな」
彼女の顔は見ずに、答える。
気まずいから、余計に練習は進んだ。
息の加減に注意しながら、笛の穴を押さえる。さっきのような会話をしなくて済むよう、集中して、音を鳴らしていく。
授業の終わり間近になって、エリカが先に、続いてわたしが、少しは龍笛の音らしいものを鳴らせるようになった。
終了の挨拶が終わり、楽譜と笛をロッカーに放り込む。
ツクツクボウシが煩い道を抜け、わたしたちは大学近くの駅へと足を進める。
「さっきはごめんな」
エリカがやはり下を向いたまま、ぽつりと言った。
「ええねん。ほんまのことやし」
講義はまだ続く。互いに他に友人はいないのだし、気まずいまま過ごしていくのは嫌だった。
「そんなことより、ダイヤモンド、だいぶ稼げたん?」
わたしは話題を変えた。
「うん。結構稼げたで」
夕日がエリカの頬を赤く染めている。
「ええなぁ」
「けど、鬱陶しいのも増えるねんな」
彼女はスマートフォンの画面を見せた。
「ご飯いつ行ける?」「昼に会える?」「返信ほしいなぁ」。たしかに鬱陶しいメッセージの数々に、わたしの顔は歪んだ。
「これは鬱陶しいなぁ」
「せやろ? けど、仕事やし、しゃーない」
電車が近づく音がする。
わたしも譲さんからだいぶ「稼いで」いる。では、わたしは「しゃーなし」で、一緒に過ごしているのだろうか。
電車が駅に入る轟音に、わたしの疑問は吹き飛ばされていった。
※
カーテンを開け放しているから、ベッドの中からでも、ライトアップされた大阪城まで続く夜景が見えた。街頭や遠いビルの灯りは地平線まで広がっている。
近くの建物は窓から下に覗き込まなければ見えない。だから、こうして、わたしたちはカーテンを開け放って、誰に覗かれる心配もなしに夜景を楽しむという贅沢ができた。
美しい、とは言える。けれど、九月半ばの今日、まだこのマンションに通いはじめてから一月しか経っていないのに、わたしは既にその変わらない光景に飽きはじめていた。
昼間の暑さは真夏と変わらないが、夜になると空気が変わる。夏布団を首もとまで引き上げて、わたしは肌寒い身体をもう一度包んだ。
「寒いか?」
譲さんは上半身をさらし、汗がひくのを待っている様子だった。
「ううん、ちょうどいい」
こうして裸で布団にくるまれていると、布団カバーのさらさらした生地が、皮膚を撫でてくるようだ。それは暖かく、秋の夜の気配からわたしを守ってくれているようだった。
「そうか」
譲さんの声を聞きながら、ベッドの横に置いたスマートフォンを取り出す。もう二十二時だ。
雅楽の集中講義終了日、金曜の今日、予定されていた発表会が終わると、ダイヤモンドに行くエリカと別れ、わたしは譲さんのマンションに来た。いつものようベッドで本を読んでいると、二十時頃、仕事が終わった譲さんが帰ってきた。
時間からすると、わたしたちは、もう二時間もこうしてベッドでゴロゴロしていたことになる。
「お腹すいてるか?」
「うん、ちょっと」
昼に大学のカフェテリアでランチを食べてから、ずいぶん時間が経っている。聞かれると、急に空腹を感じた。
「どっか食べに行くか? その後送ってってもええし」
譲さんも仕事から帰ってきてから何も口にしていない。
寝室のクローゼットは半分扉が開いている。暗くてよく見えないが、彼がさっきまで着ていたスーツが、そこには収まっているはずだ。
うーん、と返事をして、譲さんの方に寝返りを打つ。自宅に帰って、母と顔を合わせるのも憂鬱だ。
「泊まってくか?」
泊まるなら泊まるで、連絡をしなければならない。どちらにしても憂鬱なのは変わらなかった。欠伸しながら考える。
「俺はどっちでもええで」
土日休みの譲さんも、のんびりと欠伸をしている。
マンションに来るようになって知ったことだが、譲さんは大手電機メーカーで技術職をしているという。お金に余裕がある様子だったのは、サラリーマンにしては高給なこともあると思うが、遺産の方が大きいのだろう。見飽きた夜景を見ながら、そんなことを考える。
「泊まるんやったら、どっか遊びに行くか?」
たしかに、土日をずっとこの部屋で過ごすというのも退屈な気がする。かといって、わたしは趣味らしい趣味を持たないし、彼もカメラ以外の趣味は持ち合わせていない。今までなら撮影に行って過ごしたりしたが、違う季節の花の撮影は別として、大阪近辺の撮影スポットは行きつくした感がある。
「どっか、楽しいとこに行きたいなぁ」
今の環境に不満があるわけではない。譲さんは優しいし、この関係が崩れるような不安を感じることもない。おまけに、時折お小遣いももらうこともできる。
けれど、なんとなく感じた小さな退屈が、気がつけば口から漏れていた。
「楽しいとこって、どんなとこや?」
「うーん、よくわかんないけど、今まで行ったことのないとこ」
「USJでも行くか?」
「並ばなあかんのは、ちょっとダルいわ」
「そう言うてもなぁ」
譲さんはなにやら考えている様子だったが、
「面白いとこ、ないわけやないけど」
と額に皺を寄せながら言ってから、口ごもった。
「それって、どこ?」
「ナオミちゃんが面白いと思うかどうかはわからんからなぁ」
「だから、どんなとこよ?」
「説明が難しいねん。行ってみんとわからんいうんか」
彼の説明ははっきりしない。
「どんなとこかわからなかったら、面白いかどうかわからへんやないの」
「うーん……『バー』いうたらええんかなぁ」
「ガールズバーみたいなとこ?」
わたしはダイヤモンドを思い出した。シフト表を出さないまま、行かなくなってしまった店。ああいった店に、女性の客は滅多に来ない。それに、男性客向けに作られた店では、女性が来たとしても楽しめるはずはなかった。
「そういう店とはちゃうんやけど。とにかく、行ってみなわからん店や」
珍しく言葉を濁したまま、彼は布団の中に手を入れて、わたしの足を撫でた。
「ナオミちゃんの足、すべすべやなぁ」
少し前に本名も教えたはずなのに、譲さんはいつまでもわたしを源氏名で呼ぶ。一度覚えた名前を頭の中で書き換えるのは難しいのかもしれないと考えてみるが、釈然としない思いは残った。
「それやったら、とりあえず連れてってみてよ。面白いかどうか、わたしが決めたらええんでしょ」
彼は考え込んでいるようにも、相槌にも聞こえるようにもとれる、うーんという声を喉から出した。
「ねえ、お腹すいた」
「面白いとこ」はまだどんな所なのかわからなかったが、また聞けばいい。それより、急に空腹を感じだした。わたしは彼の肩に歯を立てた。
「おお、そうやった」
譲さんは起きあがって、伸びをする。
「ほな、何食べる?」
あっという間に立ち上がりクローゼットまでスタスタ歩きながら、彼は聞いた。
「どこでもいい。けど、この時間やってる店って、そんなにないでしょ」
「そうでもないで」
電気を付け、Gパンを取り出す。
わたしもあわてて床に散らばる服を拾い上げた。
「何があるの?」
「この辺は、なんでもあるで。夜遅うまで営業しとる。和・洋・中、選び放題や」
譲さんはおいしい店をよく知っている。連れて行ってくれた店は、どれも、わたしが普段行くようなチェーン店とは全然違う味だった。
クローゼットに背を向けて、下着を身に付ける。ショートパンツにタンクトップを身に着けて、わたしは髪を指で梳いた。
「そしたら、中華食べたい」
「よっしゃ、ほな行こか」
ポシェットから鏡を出して、口紅をひき直す。
スーツのポケットから鍵を取り出した譲さんは、玄関に向かう。ポシェットを肩にかけると、わたしはその後を追った。
泊まるかどうかは、食べた後に決めればいい。それよりも、彼の言う「面白いとこ」がどんなところなのかが気になっていた。
※
リビングのアップライトピアノに向かってみたものの、久しぶりの練習は、思うように進まなかった。
九月末、昨日の土曜は友達の部屋に泊まることにして、譲さんの部屋で過ごした。最近は彼の部屋に泊まることが増えている。泊まるたび、大学の同期の名前を「友達」として母に伝えるので、その話だけ聞けば、まるで友達の多い、楽しいキャンパスライフを送っているように思うだろう。事実とは大幅に異なる作り話だが、母は文句を言いながらも、それを信じている様子だ。
もうすぐはじまる後期、最初のレッスンに指定されていたのは、イタリア歌曲集の中の曲ではなく、ドナウディーの「ああ愛する人の」という歌曲だった。失恋の歌らしい、おおまかな対訳は、歌曲集の末尾に載っている。しかし、指導教員は、単語ごとに訳することを求め、その上で、歌声にその意味をのせていくことを課している。
本来なら前期終了後すぐに訳も歌の練習もはじめていれば良かったのだが、夏期休暇に練習をさぼったことで、九月末の今になって、ようやくわたしはピアノに向かうこととなった。
レッスン初日までに、対訳と、歌を仕上げなければならない。単語がそのまま使われていれば訳も簡単なのだが、イタリア語は男性詞・女性詞などが複雑で、動詞の活用も何通りもあり、どの単語が変化したものなのか特定するのも一苦労だ。イタリア語を選択していながらも、不真面目な生徒であるわたしにとって、この作業は煩わしく、ずるずると先延ばしにして、気が付けばレッスンが間近に迫っていた。
わたしは楽譜とまだ真新しい伊和中辞典を見比べながら、アップライトピアノの楽譜台で、鉛筆を走らせていた。
楽譜台に置いたスマートフォンが震え、LINEを開くと、エリカからの「ごめん、寝てた」というメッセージが届いていた。休み中、平日も朝までダイヤモンドに入ることが多いようだ。今日も朝まで働き、昼すぎの今になってようやく起きだしたのだろう。
「レッスンの合わせをお願いしたくて。後期、空きゴマある?」
メッセージを送ると、すぐに既読にはなったものの、なかなか返事が来ない。おそらく、後期の日程を調べてくれているのだろう。わたしはまた楽譜台にスマートフォンを伏せて置き、面倒な作業の続きをはじめた。
リビングと続くダイニングでは、母と弟がテーブルを挟んで向かい合い、なにやらボソボソと声を出し合っている。西日が、二人の顔を照らしている。
ピアノで旋律をとりながら、単語を拾うように声を出していると、突然、
「こんな成績やったら、あそこの大学には入られへんやないの」
という母の怒声が聞こえた。
雑然と物が置かれているダイニングテーブルの上に、どうやら模試の結果らしい、紙が広げられている。母の思うような結果が出ていないのだろう、模試の結果を前に、弟はなにやらボソボソした声を出した。
「偏差値が足らへん」「来年はもう三年になるんやから」「今から頑張らなどうすんの」。
聞き取れない弟の声とは対照的に、母の大きな声はリビングまでよく聞こえてくる。こちらに怒りが飛び火しないよう、わたしは小さくなって楽譜に向かっていた。
その時、
「だいたい、模試の結果の封筒、なんで勝手に開けたんや」
という珍しく大きな弟の声が聞こえてきた。
彼はいつもおとなしいから、大きな声など聞いたことがない。驚きを隠して、目の端でダイニングの様子を盗み見る。
「勝手言うたかて、模試のお金はうちで出してるんやない」
母は少し驚いた様子で、立ち上がった弟を見上げている。
「それとこれとは違うやろ。俺宛てなんやから、俺が開けるの待たなあかんやろ、ふつう」
珍しく真っ当な怒りをぶつける弟は、立ったまま、手のひらでテーブルを叩いた。
「だいたい、なんで人の進路を勝手に決めるんや」
「親が進路のこと言うて、何が悪いのよ」
会話は噛み合っていない。
「俺の進路は俺が決める。勝手にあれこれ言われても困る」
今まで弟が母に意見するところなど見たことがない。余程腹に据えかねたのだろう。
「ほな、どこにすんのよ」
弟が真剣に話しているというのに、母は怯む様子がない。
「それは……これから決める」
「これからって、あんた、あと一年ちょっとしかないんよ? だいたい……」
ずけずけと人の気持ちに踏み込む母に、弟は、
「うるさい!」
と更に大きな声を出した。そのまま、大きな足音を立てながら階段をのぼり、二階の自室に向かっていく。バンという音を立てて、扉を閉める。
ダイニングに残された母は、まだブツブツと文句を言っている。
小さくなって辞書をひいていると、譜面台の上のスマートフォンが震え、手にとると、エリカからのメッセージが届いていた。十月頭の空いている日程を、いくつも並べて列記してくれている。
後期日程と見比べながら、返信しようとしていると、
「だいたい、あんたが勝手なことばっかするから」
と母が急に矛先をこちらに向けた。
立ち上がる母を、呆然と見上げる。
「あんたが勝手するから、あの子まであんなこと言うようになったんや」
まるでわたしが諸悪の根元のような言い方だ。
「勝手て何よ、勝手て」
リビングからダイニングを見る。リビングにも物が多いが、ダイニングはそれにも増して物が雑然と置かれている。テーブルの上には出しっぱなしの調味料や新聞、封筒。食器棚の上には買い物したときにもらったのだろう、紙袋が山のように積まれている。その様子は、母の性格にリンクしている。
「昨日かて友達の家に泊まって。遊んでばっかやない、学生のくせに」
「泊まるときはちゃんと連絡してるやない」
「そやかて、練習かてずっとしてへんかったやないの。今になって慌ててして」
時には的を射たことも言う。わたしは首をすくめた。
「集中講義とかも行ってたし……」
言い訳しながら、楽譜と辞書をまとめて、ピアノの扉を閉める。これ以上リビングにいたら、攻撃が激化するのは必死だった。
「そんなん、たった一週間やないの」
「そやけど、わたしが遊ぶのんと、あの子は関係ないやない」
右手ではエリカに返信を送りながら、小さな抵抗を試みる。
母は大きなため息をついた。
「関係大ありや。あんたが勝手するから、それでいいって思われるんや」
わたしが勝手であるというのは当たっているかもしれないが、弟の怒りはしごく真っ当で、それに対しての母の怒りは理不尽だ。
弟に加勢したい気持ちはあったが、そうすることで問題が解消されるとは思えない。荷物をまとめて、二階への階段に向かう。
「みんな勝手ばっか。わたしはちゃんとしてんのに」
どこに向かっているのかわからない母の声は、雑然と物の溢れる部屋に飲み込まれていく。
弟とは逆に、わたしは足音を潜めながら自室に向かう。母にも、雑然としたこの家にも、寄り添う気持ちは生まれてこない。かといって、わざわざ反抗する気も生まれてはこなかった。すべてが面倒なのだ。
自室で扇風機をまわし、辞書を広げる。音程やリズムはまだ取れていないが、今日は対訳に専念することにする。扇風機の生ぬるい風が、頬をなでる。
昨日泊まった譲さんの部屋は、この家よりもずっと快適だった。
面白いとこ――譲さんが言った言葉が蘇る。結局、彼の話では、どんなところかはわからなかったが、今まで彼が連れて行ってくれたところにハズレはない。彼が言うのだから、きっと面白いのだろう。ここではないどこかに、今すぐ連れて行って欲しかった。
次に会う約束をしている金曜の夜のことを考えながら、わたしは伊和中辞典を繰った。
(続く)
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