見出し画像

【小説】愛の稜線【第3回】#創作大賞2023

 半分閉まっているシャッターをくぐるようにして、ダイヤモンドの扉を開ける。入ってすぐ、ゴーゴーと唸るようなクーラーの音が聞こえた。

「おはようございます」

 挨拶をして、バックヤードに向かう。金曜のこの日、村田はカウンターで、新人らしき若い女の子と話をしていた。挨拶の代わりだろう、わたしに向かって手を挙げる。

 狭いバックヤードで着替えをしようとすると、奥からエリカが顔を覗かした。

「久しぶりやん」
「そう? 先週の金曜は入ってたで」
「そやかて土曜は入ってなかったやろ?」

 先週の日曜は、譲さんとひまわり畑に撮影会に行った。朝が早かったから、土曜はシフトに入っていなかった。

「日曜にな、撮影に行っとってん。朝早いから、土曜は入らんかってん」

 LINEで送ってもらった写真を開き、スマートフォンをエリカに渡す。写真をスクロールする彼女を放って、店にあったバドガールの衣装に着替える。素足に圧底のサンダルを履いていると、エリカが、

「譲さん、写真上手いなぁ」
 と感心したように言って、スマートフォンを返してきた。

「うん。けど、いっぱい撮った中の数枚やから。失敗の方が多いって言うてたけどな」
「今週はシフトどうするん?」
「今週は金・土入るよ。エリカは?」

 先週の撮影では、衣装代もあってか、封筒に二万円が入っていた。ダイヤモンドのバイト代と比較すれば、どちらを優先させるかは考えてみるまでもない。それでも、撮影の予定のない今週は、金・土とシフトを入れた。
「わたしは平日もほとんど入ってるからなぁ」

 エリカは黒のミニスカートに、白いシャツという格好で、鏡を覗いている。シャツは下着ギリギリまで胸元を空けている。

 わたしも化粧ポーチを取り出し、鏡を覗く。サウナのように暑い東通を歩いてきたから、化粧崩れが気になる。ティッシュで脂を押さえ、ファンデーションを塗り直す。カラーコンタクトをはめていると、村田の、

「そろそろ開けるで」
 という声がバックヤードの扉の向こうから聞こえた。

 先程村田と話していた子たちも含めて、女の子は皆、カウンターに等間隔に並ぶ。村田がシャッターを開けると、すぐに、常連の客が店に入ってきた。

「来てくれたんですかぁ」
 エリカのうれしそうな声が聞こえる。

 わたしはガラス窓の近くに立ち、いつものように通りを行き交う男の顔を眺めた。暑い屋外から店内に入ってすぐは、汗が引いて気持ちよかったが、しばらくすると十度台に設定された温度に、鳥肌がたった。

 目が合った男に笑顔を作ると、その男は吸い込まれるように、ダイヤモンドの扉を開けた。

「いらっしゃいませ」
 接客しようとすると、村田が寄ってきて、男を、新しく入ってきた女の子のところに案内する。女の子たちは二人一組になって、その男の声に、嬌声をあげて答えている。

「ごめんな、ナオミちゃん。新人に勉強させたって」
「はぁ」
 仕方なく、相槌を打つ。また新しい客を捜さなければならない。

「ナオミちゃん、最近、休み多いやろ」
 村田は困ったような顔をする。

「すみません」
「いや、ええねん。ええねんけどな、うちは金・土に入ってくれる子が優先になるから」

 新人は金・土にシフトに入れるということだろう。
 せっかく客がついても、その女の子がいなければ、来店の機会は減る。店長としての村田の判断は正しいのだと思ってみるのだが、せっかく入った客を奪われたら、成果報酬も期待できない。

 わたしは窓の外を眺めながらそっとため息をついた。

 窓から通りを眺めても、次の客はなかなか見つからない。仕方なく、わたしはLINEで譲さんにメッセージを送った。

――今日はダイヤモンドにいます。よかったら遊びに来てください。
 送ってすぐ、OKマークのスタンプが返ってくる。これで客がゼロになるのは避けられる。

 わたしはまた窓のそばに立ちながら、そっと店の奥に視線を向けた。金曜の夜らしく、カウンター席はもうほとんど埋まっている。エリカも、新人の女の子たちも、楽しそうに笑顔で接客をしている。新人の女の子たちとは歳もそう変わらないだろうが、わたしにはもう彼女らのような必死さがない。かといって、エリカのような接客の上手さも身についてはいなかった。

 もともとダイヤモンドでのわたしの役割はほとんどなかったが、今日はそれが一層身にこたえる。
 通りの男たちに何度目かの笑顔を作った後、やっと譲さんが姿を見せた。

「お待ちしてました」
 さすがの村田も、譲さんを他の女の子に接客させることはない。空いているカウンター席に案内し、注文を聞いた。

 譲さんのロックと、わたし用のカクテルを作って、乾杯をする。譲さんは今日もニコニコと機嫌よくグラスを傾ける。

「ナオミちゃん、この前はありがとうな」
「撮影のことですか?」

「そう。暑かったやろ」
「でも、短い時間でしたし。撮影、楽しかったです」
 譲さんはビジネスバッグからタブレットを取り出し、画像を見せた。

「あれからな、もいっかい、写真整理したんや。きれいに撮れてるやろ」
 タブレットには、背の高いひまわりに背伸びする、わたしの写真が移っている。目を細め、息を吸い込むように唇が軽く開かれている。ひまわりに焦点が合っているから、わたしの顔の輪郭はぼやけている。

「きれいに撮れてますねぇ。譲さん、やっぱり写真お上手やないですか」
 譲さんは照れたように笑った。

「そんでな、ナオミちゃんさえ良かったらやねんけど、この写真、インスタにアップしてもええやろか?」
「わたしの顔が出るんですか?」

 ガールズバーで働ける程度の容姿ではあるはずだが、世間に顔をさらすほどの美しさでないことは、自分でもわかっている。

「や、個人が特定できるような写真はアップせえへんで。そんなんは恐いやろしな。顔がはっきり写ってないような写真だけ、アップしたいんやけど」
「そんなんやったら、全然いいですよ。けど、フォローさせてもらってもいいですか?」

「うん。ほな、アカウント作ったら言うわ」
 譲さんはまた違う種類のウィスキーを注文する。ロックを作っている間も、譲さんはタブレットで写真を見ているようだった。

「お待たせしました」
 タブレットから顔を上げて、譲さんがグラスを受け取る。

「ナオミちゃん、次の撮影もお願いできるか?」
「いいですよ。次はどこに行きますか?」

 譲さんはタブレットをバッグに戻してわたしに向き直った。
「次やねんけどな、もしナオミちゃんが嫌じゃなかったら、撮りたいとこあんねんけどな」

 譲さんは言いにくそうに、ウィスキーを口に含んだ。

「うちな、タワーマンションやねんけど、上のほうに、ラウンジと、空中庭園あんねん。そこで夜景とかどうかなと思ってんねんけど」

「タワーマンションにお住まいなんですか」
 高額な住宅というイメージがあるが、譲さんならば住んでいてもおかしくはない気がする。譲さんは頷く。

「ラウンジとか、空中庭園って、どんなとこなんですか?」
「マンションの共用部でな、住人しか入られへんねん。高層階にあるから、景色ええし、住人ならいつでも出入りできるから、撮影しやすいと思うねんな」

 共有部なら、密室というわけではないだろう。それに、小さな戸建て暮らしのわたしは、今までマンションにはあまり縁がなかった。おまけに、普通のマンションではなく、タワーマンションだという。覗いてみるのも悪くない。

「それやったら、そこで撮りましょう。きれいに撮ってくださいね」
「よっしゃ、決まりやな」

 譲さんは手元の酒を一気に喉に流し込んだ。もう一杯新しいウィスキーのロックを飲むと、上機嫌のまま、店を去って行った。

 譲さんを扉の外まで見送り、また窓の近くに立つ。空調の寒さに足をすり合わせながら立ち続けたが、上がりの時間まで、結局新しい客は見つけられなかった。村田に、帰ることを耳打ちしてから、バックヤードに戻る。

 服を着替え、駅に向かって東通を歩く。人の多い通りを抜け、やっと終電に乗り込むと、立ち続けたせいか、疲れがどっと押し寄せてきた。

 電車は淀川を抜け、巨大なビル群が、小型のそれに変わる。そのエリアを過ぎると、小さな戸建ての明かりの群れが窓に広がっていく。

 ダイヤモンドに向かうときは、いつも面倒な気持ちがする。けれど、明日も出勤すると思っただけで、今はそれ以上の疲労が体に押し寄せてくるようだった。

 地下鉄の出口を出ると、辺りは既に夜の闇がはじまっていた。まだ昼の熱を持った、広い道路に、ビルの灯りが足下を照らす。

 スマートフォンを握って、LINEをするか迷っていると、チノパンにTシャツで、リュックを背負った譲さんが現れた。

「ごめんな。待った?」
「いえ。今着いたところ」

 会話もそこそこに、譲さんは足を進めた。

 八月半ばの平日の今日、わたしたちは譲さんのマンションで撮影をする約束をしていた。譲さんは夏期休暇だとのことで、珍しく平日の撮影となった。指定された地下鉄の出入り口で待ち合わせ、マンションに向かう。

 今日の撮影では、服装のリクエストはなかったから、悩んだ末に、バーゲンで買った黒の小花柄のキャミワンピースを選んだ。デコルテや肩は丸見えだし、膝から十センチくらい上の丈で、足も露出している。何かを言われたわけではないが、譲さんとの撮影には、なぜだか露出度の高い服がいいような気がした。

「今日もかわいい服着てるやん」
 わたしの勘が当たったのか、譲さんは機嫌よさそうに笑った。

「譲さんのマンションって、どのあたりなんですか?」
 譲さんの後ろを歩きながら聞く。
「あれや」

 振り向いて、譲さんは道路沿いのビルの向こうに見える、巨大な建物を指指した。道路沿いのビルも十四、五階はあるだろうが、指さされた建物は、もっと空に長く伸び、巨大な形で周囲を圧倒している。一体何階建てなのだろう。反射するガラス窓と黒い壁が、その巨大な体を包んでいた。

「めっちゃ大きいじゃないですか」
「五百戸くらい入ってるからなぁ。このへんでは大きい方かな。けど、一戸一戸は普通のマンションやで」

 道の角を曲がると、マンションの全体が見えた。真四角の細長いそれは、広い公園に面している。

 譲さんは建物の入り口で非接触のキーだろう、鍵のようなものをかざして二重になっているガラス扉を開けた。

 入り口近くのカウンターには若い女性が立っていて、譲さんの姿に軽く会釈をする。

 三階分くらいだろうか、エントランスの広い吹き抜けの空間には、ソファセットが何組も置かれ、その中央にはグランドピアノも配置されている。

 はじめて見るタワーマンションの内側は、外側と同じくきらびやかで、わたしの目はせわしなく動いた。

「豪華ですね」
「そうか?」
「わたし、タワーマンションに入ったの、はじめてです」

 譲さんはエントランスから奥のエレベーターホールに向かいながら、照れたように笑った。

「そやけど、ああいう空間の維持費なんて、五百戸で分けるから、実は大したことないんやで」

 しばらくすると、十基近くあるエレベーターのうちの一基が止まった。乗り込んで、譲さんはラウンジのある最上階のボタンを押した。階数を示すパネルの数字はあっという間に上昇していく。

 ポーンという軽い音がして扉が開くと、ガラス窓に覆われた空間が広がった。はめ殺しの窓から、大阪市内の町並みが見える。

 わたしは小走りして窓に近づき、そっと指でガラスに触れた。

「めっちゃきれい」

 幹線道路に沿った街頭が、規則正しくきらめいている。ゆっくりと交差していくかのように、それは続いている。
 わたしたち二人の他は、人の姿が見えない。

「他の人は来ないんですか?」
「入居当初はいっぱい来てたけどなぁ。いつでも来れると思うと、案外来なくなるみたいや」

 譲さんは毛足の長いカーペットの上にリュックを置いて、カメラを取り出した。ガラスに触れるわたしを、何も言わずに撮りはじめる。二人しかいない空間に、シャッター音が響いた。

「顔をもっと窓に近づけて」
 譲さんの言葉に、おでこをガラスにつける。

「目を閉じて」
「窓の外向いて」
「今度はこっち向いて」

 投げかけられる言葉通りに、わたしはポーズをとり、レンズに笑顔を向ける。

「ほな、今度はあっちに行こか」
 譲さんは窓の反対にある出入り口を指で示す。開けてもらった扉を抜けると、さっきの窓とは反対側の夜景が広がる、空中庭園が顔をのぞかせた。

「こっちもきれいですね」
 思わず棒立ちになって、夜景を眺める。梅田で撮影したときの夜景とは比べものにならないくらい、広い景色が広がっている。遠くに、ライトアップされた大阪城も見える。

「ナオミちゃん、夜景好きなん?」
 譲さんはレンズを換えながら、わたしを見る。

 はい、と答えようとすると、ビル風がふき、スカートの裾が捲れ上がりそうになる。思わず腕で裾を押さえると、またシャッター音が聞こえた。

「変なところ、撮らんといてください」
「変ちゃうで。きれいや。後で見せたる」

 高層階だと風が強いのだろうか。真夏の気温に、風が心地いい。髪も流され、風向きが変わる度に、シャッター音が響いた。

「もう一回、ラウンジで撮っとこか」
 譲さんの言葉に、空中庭園からラウンジへの扉を開ける。

 ガラス窓のところで再びポーズをとっていると、エレベーターが開き、男女数人がラウンジに入ってくるのが見えた。奥のソファに座り、持ってきたボトルを開ける。男性は皆スーツ姿で、中央に座る若い女性は上品な藤色のワンピースを着ている。肩も胸も露出していないが、華奢な身体は見てとれる。こぼれ落ちそうな大きな瞳は、その容姿が特別であることを示していた。

 女性は一度こちらに視線を投げたが、見飽きた光景を見たかのように、ふっとそれをずらし、わたしたちの存在を無視して、グラスを傾けながら、男性たちと穏やかに談笑している。

「ナオミちゃん、こっち向いて」
 顔をレンズに向けながら、目だけで女性を見る。見たことのある顔だ。といっても、もちろん知り合いではない。

「窓の外見て」
 譲さんは男女に気を止めない様子で、さっきと同じように指示を出す。

 あ、と声を出しそうになる。見たことがあるはずだ。女性はタレントで、元宝塚だったとテレビで紹介されていた。最近は知性派として情報番組のコメンテーターもしている。

「ナオミちゃん、どしたん? 疲れた?」
 うまく笑顔を作れなくなったわたしを見て、譲さんはカメラを下ろした。
「うん、ちょっと」

 本物の美人を前に、モデルの真似事をしている自分が、急に恥ずかしい存在に思えてくる。わたしにはあんな特別な容姿は与えられていない。気に入っていたはずの小花柄のワンピースも、ひどく安っぽく、惨めに思えてきた。

「そしたら、お茶でもするか?」
 頷く。
「ここに座るか?」
 譲さんは近くのソファを指さす。

 下を向いたまま、小さく首を振る。さっきはあんなに楽しかったのに、今はもう、ここから、すぐにでも逃げ出したい。

 譲さんは困ったようにしばらく黙っていたが、
「そしたら、俺の部屋寄ってお茶するか? 汚いんやけど」
 とわたしの顔をのぞき込んだ。頷いて返す。

 撮影機材をリュックに詰め、譲さんはエレベーターホールに向かった。
 数階下のボタンを押し、ラウンジを離れる。ラウンジの少し下の階に到着すると、奥の角部屋のドアを開け、内線で、エントランスの受付にアイスコーヒーを二つ頼んだ。

「ナオミちゃん、どうかした?」
「なんでもないです。ちょっと疲れただけ」

「それやったらええねんけど」
 譲さんは心配した様子で、リビングのソファにわたしを座らせた。

 チャイムが鳴って、譲さんが玄関に向かう。グラスの乗ったトレーを手に、彼はリビングに戻ってくる。リビングのテーブルにトレーを置き、譲さんは少し距離をあけて、ソファの隅に座った。

 グラスを手に取り、先程の惨めな気持ちを流すようにアイスコーヒーを飲み込む。

「さっき撮ったの、見るか?」
 心配した様子のまま、譲さんはそう言って、SDカードを差したパソコンで、撮ったばかりの写真を開いた。

 ガラスに指をついた写真は、ガラスに反射した横顔が夜景に溶け合っている。スカートを押さえた写真は、いやらしさはなく、無防備な躍動感があった。

「きれいにとれてるやろ?」
 満足そうな譲さんに、ようやく気持ちがほぐれてくる。

「さっきはすみません、ちゃんと撮影できなくて」
「そんなんはええねん。もう大丈夫か?」
「はい」

 気持ちがささくれ立ってあまり目に入っていなかったが、よく見れば、二十畳以上あるだろう、広いリビングダイニングに、硬質なインテリアが趣味よく並んでいた。譲さんは汚いと言ったが、物の少ない部屋はきちんと片付いている。黒い革張りのソファは金属のパイプが外側を囲んでいた。

「素敵なお部屋ですね」
 ダウンライトの照明も、木を削り出したようなダイニングテーブルも、不思議と部屋に調和している。

「ああ、これ、コーディネーターさんに選んでもらったんや」
「コーディネーターって、何する人ですか?」

「家具の相談とか、そんなんができる人や。この部屋買ったとき、分譲した会社が紹介してくれたんや。俺、家具とか興味ないし、全部お任せにしてもうた」
 事も無げに言って、譲さんはアイスコーヒーを啜った。

「この部屋、買ったんですか?」
 最上階に近い角部屋だ。天井から床までコーナーに広がっているリビングのFIX窓からは、ラウンジとほとんど変わらない夜景が広がっている。普通のサラリーマンがポンと買えるような値段ではないだろう。

「うん。ここ買う前に、俺の両親亡くなったんや。で、遺った土地とか整理して、この部屋買うたっちゅうわけや」

 譲さんの余裕のある様子は、そうした事情も絡んでいるのかもしれない。少し落ち着いてきた頭で、譲さんの懐事情を推し量る。

「譲さん、こんなに夜景がきれいな部屋なんやったら、ここで撮影の続きしませんか?」

 二人だけなら、もう惨めな思いをすることはない。せっかくだから、もう少し、きれいな写真を残しておきたいような気がしてきた。

「そらありがたいけど。大丈夫なん?」
 笑顔で返す。

 譲さんはリュックからまた撮影機材を取り出す。リビングのカーテンを開け広げ、照明を調節しながら、彼はカメラを握った。ポーズを決め、レンズを覗く。しばらく、ポーズ指示の声と、シャッター音だけが部屋に響いた、
 気が付くと、時計の針は終電の近くを差した。

「あかん、遅なってもうた」
 譲さんは我に返ったように、リビングの壁にかかる時計を見上げた。

「ごめんな、お腹すいたやろ。車で送るし、どっかで飯食おか」
 譲さんは車のキーを取り出した。

「譲さん、そういえば、前言ってた話ですけど」
「何の話やったっけ?」
「掃除とか洗濯のアルバイトの話です」

「ああ、そんな話したなぁ。それがどしたん?」
「良かったら、やらせてもらえないかと思って」
「え、ほんまに?」

「わたし、あんまり家事得意じゃないんですけど、それでよかったら」
「そら助かるわ」
 譲さんは外に出る支度をしながら、口笛を吹いた。

 ラウンジでは少し惨めな思いをしたが、このマンションのこの部屋に通うのは悪くない。しかも、譲さんは二人きりになっても、手を出してくる様子も見せなかった。

 ダイヤモンドでのバイトより魅力的なのは確かだ。

 譲さんと一緒に、タワーパーキングに向かう。近所に、味のいい洋食の店がまだ開いているという。アウディの助手席でシートベルトを締めながら、わたしは譲さんの鼻歌を聞いた。

 カーテンの隙間から、夏の日差しが漏れていた。もう八月下旬だというのに、夏の日光は弱まる気配がない。枕元のスマートフォンを指で探り、時間を見る。針は昼の十二時を差している。

 日曜だった昨日は、譲さんと夜景を撮りに、車で神戸まで行った。山からの、小さな明かりが点在し、それがタンカーの泊まる海まで見渡せる景色の中で、わたしは譲さんの指示通りにポーズを撮った。ピッツェリアに寄ってから送ってもらい、家に着いたのは零時を越えた。帰ってからも本を読んでいたから、寝たのは朝方近くだった。

 まだ眠気は残っていたが、日差しが眩しい。
 インスタグラムのアプリを起動する。ダイヤモンド用のアカウントでログインし、客の中では唯一フォローしている譲さんのページを開いた。

 昨日はわたしを送ってからマンションに向かったので、部屋に着いたのは遅かっただろうに、神戸での写真が既にアップされ、ハッシュタグが並んでいる。#ポートレート#夜景#神戸#ナオミ、とともに、わたしの横顔が載っている。

 星空を仰ぐようなポーズに、神戸の夜景が写っている。わたしの輪郭は、夜景にぼやけている。譲さんはこうした、顔が認識できない写真を撮るのが得意だ。もっとも、パソコンにはもっとはっきりと顔の写った写真が沢山保存されているはずだが、それらがインスタにアップされることはない。

 わたしはイイネを押してから、もう一度スマートフォンを枕元に放った。譲さんがインスタを始めたのは、わたしがモデルになってからだったが、もうフォロワー数は四桁を越えている。知らなかったが、ポートレートというのは一定のファンがあるらしい。

 日差しを避けるように、枕に顔を押しつけて瞼を閉じる。しばらくしてやっと眠気が訪れたとき、
「ちょっと!」
 という怒気をはらんだ母の声とともに、乱雑にドアが開く音がした。

「いつまで寝てんの! もう昼すぎやない!」
 母はわたしの背にかかるタオルケットを強引に剥がして、起き抜けの目の前に、葉書をぬっと出した。

「何?」
 何も、寝ている人間に、いきなり怒号を飛ばすことはないではないか。

「大学から葉書来てんの! インターなんちゃら書いてあるわ」
 そんな叫ぶような声が、この人の通常の会話なのだと思い出すまで、しばらく時間がかかった。

 起きあがって、葉書を受け取る。何の用かと思えば、在校生向けに、企業インターンシップの説明会があるという、大学からの案内だった。

「なんなん、これは?」
 母は葉書をのぞき込む。

「インターンシップの案内やって。就職活動の案内の一環」
「あんた、それ、行っとかなあかんやつちゃうの?」

 葉書には、昨年度のインターンシップの実施状況や、経験者である在学生の報告といった、説明会の予定が簡単に書かれていた。

 最近の就職活動では、大学二、三回生のうちからこうしたインターンシップに行くのが流行りになっているらしい。少しでもいい企業に行きたいと願う学生は、そうした企業のインターンシップに参加できるように活動をする。企業もまた、学生の囲いこみのためにこの制度を利用しているらしかった。

「行かんでええやつ」
 答えて、もう一度寝ようとすると、母はタオルケットをまだ握りしめていた。

「そやかて、参加してほしいから、わざわざ葉書送ってくるんやろ」
「そんなん全員に送ってるの。わたしはまだ一回生やから、早いわ」

 うんざりして、髪をかきあげる。まだとかしていない髪は、どこかごわついている。

「あんたには高い学費払ってんねんから、ちゃんとしたとこに就職してもらわな困るわ」
「どっかに決まればええんでしょ」
「どっかやない。ちゃんとして」
「ちゃんとて何よ、ちゃんとて」
「学校の先生とか、聞いたことのある会社とか」

 勝手に人の人生に踏み込んでくる様子に、かちんとくる。

「教職は取らないから、先生は無理」
「はぁ? なんで取らへんのよ?」
「教員免許なんて持ってても、先生にはなられへんの」

 音楽の教員免許を持った人間など、ごまんといる。教員採用試験の音楽科の倍率は、四、五十倍にもなるから、どうしたって、そこを狙うには無理がある。前にもそう説明したはずなのに、母の脳は、自分の気に入った情報しか記憶しないらしい。もう一度説明するために一旦は口を開いたが、徒労という文字を思い浮かべて、ため息をついた。

「とにかく無理」
「ほな、何のために高い学費払てると思てんのよ?」

 同じ大学の中でも、音楽学部の学費は高い。そこにいくばくかの負い目があるのはたしかだ。しかも、そこを卒業したとしても、学んだことを生かす道など限られている。それでも、推薦の話があったとき、前のめりになったのは母ではないか。

「そんなことより、あの子どしたん?」
 話を逸らすために、高二の弟の名前を出す。

「予備校。あんたと違て、真面目やから、心配いらん」
 そう言いながらも、母は頬をひくつかせた。おそらく、母が望むほどの成績は出ていないのだろう。

 まだブツブツと文句を言う母を追い出し、洗面所に向かう。簡単な化粧をして着替えると、寝室にある単行本とスマートフォンをポシェットにつめ、わたしはそっと玄関の扉を開けた。これ以上家にいても、母の攻撃をかわすことはできないだろう。

 駅に向かいながら、LINEを開ける。
――今日、掃除しといてもいいですか?

 譲さんの部屋の鍵は、マンションに行った日に、預かっていた。廊下の収納に掃除道具があると言っていたから、それを使えば、掃除もできるはずだった。

 仕事中のはずだが、間を空かず、「ありがとう」とウサギがお辞儀しているスタンプが送られてきた。

 これで、避難場所は確保できたことになる。掃除が済めば、あの部屋でのんびり譲さんの帰宅を待てばいい。

 私鉄から地下鉄に乗り換え、譲さんのマンションに向かう。途中、ゲリラ豪雨が降ったようだったが、地下鉄の出口を上がると、地面に水たまりはあるものの、澄んだ青空が広がっていた。

 コンビニでタピオカミルクティーを買って、エントランスに向かう。キーで二重扉を開け、エレベーターに乗る。

 今度は玄関の扉を開け、リビングに向かう。市内を一望できる窓の下に、くっきりときれいな虹が広がっていた。

 しばらくそれを見下ろしてから、ようやくわたしは廊下の収納庫を開けた。スティック型の掃除機や、フローリングワイパー、ほこり取りやウェットシートが乱雑に詰め込まれている。

 手始めに、寝室のダブルベッドからシーツを剥ぎ、ドラム型の洗濯機に突っ込む。洗濯機が回っている間に、リビングと寝室のかすかなほこりを取り、掃除機をかける。

 譲さんの部屋は3LDKだから、寝室の手前にもう一部屋あるのだが、そこにはカメラ機材があるから掃除しなくていいと言われていた。カメラを触らない人間にはよくわからないが、どうやらカメラ機材は繊細なものらしく、通常の掃除のように乱暴にほこりを取ったりすれば、故障の可能性が出るという。

 鍵をかけてあるらしいその部屋を避け、廊下や部屋に掃除機をかけ、ウェットシートで床も磨いた。しかし、元々物のない部屋は、掃除するにも限界がある。洗い終わったシーツをかけ、浴室乾燥のボタンを押すと、もうすっかりやることはなくなってしまった。ゴミ箱ものぞいたが、紙ゴミが少しある程度だ。二十四時間ゴミ捨て可能らしいが、捨てるほどの量はない。

 リビングのソファに座る。クーラーの温度を自分好みに設定して、わたしはタピオカミルクティーを飲みながら、ポシェットの中から単行本を取り出した。譲さんは部屋を好きに使っていいと言っていた。

 ダイヤモンドはシフト表を提出しないまま、出勤しなくなってしまったし、大学の休暇はまだ続く。おまけに母が常にいる家は居心地が悪いから、こうして誰の気も使わずにいられる場所があるというのは幸いだった。

 ソファに足を伸ばし、わたしは欠伸をした。単行本を繰って、昨夜の続きを読み始める。快適なはずなのに、どこかに不思議な居心地の悪さが寝そべっている気がする。わたしは部屋をくるくると見渡してから、もう一度クーラーのリモコンに触れる。空調は暑くもなく、寒くもない。先程感じたその小さな違和感を首を振って打ち消し、わたしはもう一度本の内容に集中した。

(続く)

#創作大賞2023 #小説 #note #連載小説 #恋愛小説 #恋愛 #大人 #大人の恋愛 #眠れない夜に #R18推奨 #R18 #R18指定 #フィクション #NTR


この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?