【小説】愛の稜線【第8回】#創作大賞2023
毛足の長いカーペットを歩くと、パンプスが沈み込むような感覚がする。マンションの五階分くらいはあるだろうか、吹き抜けの天井は間接照明で彩られ、大きなモニュメントや絵画が、重厚な雰囲気を醸し出している。
「こっちやで、ナオミちゃん」
こんなに大きな外資系のホテルに来るのははじめてだ。ホテルの入り口でぼんやりしていると、譲さんがわたしの手を引いた。
ロビーを抜け、通路を歩くと、エレベーターホールにたどり着く。広い通路には、もう十二月に入ったというのに、青々とした大きな植物がいくつも置かれていた。
「もう、たっつんたちは着いとるらしいわ」
譲さんはスマートフォンのLINEの画面を見ながら、昇降ボタンを押す。彼の片手で、ドン・ペリニョンの入った阪急百貨店の紙袋が、泳ぐように揺れている。
ポーンと軽い音がして、エレベーターが開く。彼が二十四階のボタンを押すと、パネルの数値が瞬く間に上昇し、また軽い音がして、扉が開いた。
「エルドラドとはちゃうね」
エレベーターの様子にそう言うと、
「あほ、ここは高級ホテルやで」
と彼が呆れたように声を出した。
パーティーしたいねん――エルドラドで会ったたっつんは、そう言って、このホテルの名前を挙げた。
「エルドラドも面白いけど、たまにはもっとゴージャスに遊びたいやん?」
たっつんはそう言うと、わたしたち二人も一緒に楽しもうと誘う。ちゃんとした男の人と、かわいい女の子だけを誘っているのだ、と。だから心配はいらないと説明をした。
「えーと、場所は……」
譲さんはエレベーターホールにある案内図を眺めて、部屋の場所を確認する。どうやら角部屋らしいその部屋は、ホールから少し距離があった。
「たっつんは、なんや知らんけど、えらい金持ちらしくてな」
歩きながら、譲さんは話す。
「東京でも、こっちでも、何回かパーティーしてるらしいわ」
「行ったことあるん?」
「や、ない。しばらく会うてへんかったしな。俺もよう知らんねん」
緊張しているのか、彼は少し堅い表情だ。高級なホテルの一室で、そのパーティーは行われるらしい。たっつんに選ばれた人だけで――それはなぜかわたしの気持ちを高揚させた。
角部屋で、ブザーを鳴らすと、たっつんがスーツ姿でドアを開けた。
「待っとったで」
首もとのネクタイを緩めながら、たっつんは譲さんから紙袋を受け取って部屋の中に戻っていく。
入ってすぐに、コートを掛けるクロークがあり、その先、右手には壁面も透明なガラスで覆われたバスルームがあり、奥に進むと、ソファセットが二組、キングサイズだろう、大きなベッドが一つ置かれた、広い空間が広がっていた。
「すごいやん。スイートルーム?」
コーナーに広がる窓からは、インテックス大阪と、南港が一望できる。譲さんがそう言うと、
「や、スイートちゃうくて、ジュニアスイートやねん。今日は人数少な目やし」
とたっつんが答える。
一組のソファには、ピンクのキャミソール姿のマリちゃんと、スーツ姿の、五十代くらいの男性と三十代くらいの男性が座って、シャンパングラスを傾けている。
「ジョーさん、シャンパン持ってきてくれたで」
たっつんが紙袋からボトルを取り出す。
ルームサービスだろうか、ソファの前の丸机には、オードブルが並べられている。
「やったー」
ボトルのラベルを目にしたマリちゃんは、歓声をあげた。
「マリちゃんは知ってるよな?」
たっつんは、男性二人を譲さんに紹介しながら、部屋の一角にあるバーカウンターのワインクーラーに、ボトルをねじ込むようにして入れた。ワインクーラーには、ボトルが三、四本入っているのが見える。氷の入ったそれの中で、ボトルは汗をかいている。
「後で、もう一組、カップルさん来るねんけど、先にはじめとこ」
たっつんは、シャンパングラスを取り出している。
「ナオミちゃん、脱いどいで」
譲さんは、コートを着たままのわたしに声をかける。わたしは入り口のクロークに戻って、コートをかける。
「コートだけじゃなくて……」
そのまま部屋に戻ると、譲さんがそう口を開く。ワンピースのファスナーのある背中を譲さんに向け、左手で掬うようにして髪を上げた。ジッパーが下ろされ、ワンピースはあっけなく床に落ちる。譲さんはそれを拾い上げ、クロークに掛ける。
黒地に赤い刺繍が入ったキャミソール姿になったわたしに、たっつんはグラスを渡す。
「色っぽいやん」
口の端を上げながら、たっつんはわたしと譲さんのグラスにシャンパンを注ぐ。しゅうしゅうと泡が立って、グラスには部屋の様子が映り込む。
「かんぱーい」
マリちゃんが立ち上がって、グラスを掲げた。
「乾杯!」
声が重なって、泡のように弾ける。
たっつんはソファに座って、わたしの腰に手を伸ばす。引き寄せられて、わたしはたっつんの膝に腰をかけた。
「下着、かわいいやん」
譲さんが買ってくれたキャミソールは、薔薇の模様が刺繍で描かれている。キャミソールは足の付け根までの丈だから、こうして座ると、同じシリーズのガーターが見える。わたしに下着の好みはないから、自然と、譲さんが買ってくれるものが増えていっている。
譲さんはマリちゃんの横に座り、笑顔でこちらに手を振った。
「譲さんが買ってくれた」
そう言うと、たっつんは、へえ、と興味なさそうに相づちを打ち、わたしの肩から首のあたりに舌を這わせた。
わたしはたっつんをそのままに、テーブルの上のブルーチーズをフォークで掬う。口に放り込むと、体臭のような匂いが、口の中でシャンパンと溶け合った。
「たっつん、ちょっと手伝ってー」
声の方を向く。ベッドでは、いつの間に服を脱いだのだろう、五十台くらいの男性が横たわり、その上に座ったマリちゃんが、男性の手を紐のようなもので縛ろうとしている。
たっつんはわたしを膝から降ろし、ベッドに向かう。男性の手首を、器用に縛っている。
「ナオミちゃん。彼、遊んでくれるって言うてるし」
たっつんがベッドにいる間に、譲さんは先程紹介された三十台くらいの男性を連れてきてわたしに声をかけた。譲さんよりも少しだけ背が高く、筋肉質な体つきが、スーツ姿でもわかる。
譲さんはわたしの手を取り、窓際に連れて行く。明るかった昼の日差しが、急激に赤い夕陽に変わっている。
譲さんは夕陽の映るガラスにわたしの手をつかせた。
「こんな感じでな、遊んだってくれへん?」
譲さんは持ってきたバッグから一眼レフを取り出し、わたしたちの姿をレンズで捉え始めた。
暗くなりはじめた窓には、部屋の灯りが映る。手を縛られた男性に馬乗りになったマリちゃんの姿も、そこに映っている。
男性は後ろからわたしの下着に手をかける。ガーターはそのままに、ソングを床に落とす。よろめいて、わたしはパンプスでソングを踏んだ。
窓に映るマリちゃんは、男性と絡みながら、グラスのシャンパンを自分の胸にかける。たっつんの髪を掴み、シャンパンのかかった胸に押し当てる。
「いいねぇ」
わたしと男性が絡む姿をレンズで切り取りながら、譲さんは近づいてくる。
「もっと苛めたって」
譲さんの言葉を受けて、男性はわたしの髪を掴む。顔が、ガラスに押し当てられる。
シャッター音に、徐々に大きくなるマリちゃんの声が重なる。
ふいに、耳にねっとりと残るその声が、マリちゃんのものか、わからなくなる。
顔のすぐ側でストロボが炊かれ、眩しくて目を開けていられない。
耳についた音が止んだ瞬間、膝がガクガクと痙攣して、わたしは立っていられなくなった。
※
梅田はいつも、東通のある東梅田あたりばかりだったから、西梅田に行くのは久しぶりだ。
珍しく、金曜の早い時間に、譲さんと梅田で待ち合わせをすることになった。ビルボードライブ大阪のチケットが取れたのだという。
JR大阪駅に近いスターバックスでコーヒーを飲んでいると、余程慌てて来たのだろう、十二月上旬だというのに、スーツ姿の譲さんは額に汗を滴らせ、それをハンカチで拭きながら現れた。
「どしたん? 走ってきたん?」
「仕事なんとか終わらせて。駅からここまでで走ってきたんや」
時計は待ち合わせた十八時を指している。そういえばこの人は時間に律儀なところがあるのだと、今更ながら思い出す。
「ちょっとくらい遅れてもええのに」
「せやかて、ライブに遅れたら嫌やんか」
音楽にあまり興味を示さない譲さんだが、今日のライブは別らしい。彼が高校生の頃にアイドルとしてデビューした歌手が、今日はジャズライブを行うらしい。その頃から彼女のファンだった彼は、なんとかライブのチケットを確保し、わたしもそれに同行させてもらうことになった。
「ほな行こか」
促されて、コーヒーカップを捨てる。スターバックスを出ると、地下の通路に入って、ハービスプラザに向かった。
地下からそこに入ってまっすぐ歩くと、ビルボードライブ大阪の入り口だ。譲さんがチケットを示すと、係員がボックスシートに案内してくれる。
そこは、ステージが大きく広いわりには客席が少ない空間だった。スポットライトが、まだ演奏者のいない空間を照らしている。わたしたちが席に着く頃には、既に座席のほとんどが埋まっていた。
歌手のファンの年齢層もあるだろうが、洗練された空間には、わたしのような年頃の人は少なく、譲さんと同じくらいか、それより上の世代が圧倒的に多いように見えた。
「ここ、チケット取るの大変やったでしょ」
小声で聞くと、
「そらそうや。頑張ったんやで」
と譲さんはなぜか胸を張った。
シートに座ると、彼は二人分のコース料理と、赤ワインをボトルで注文する。ライブと聞いて、スタンディングのそれを連想していたが、どうやらここは演奏を楽しみながら食事もできる場所であるらしい。
白のニットワンピース姿のわたしは、それがこの場所でふさわしかったのかどうかが気になる。少しでもきちんと見えるよう、背筋を伸ばす。
ワインで乾杯をしてすぐ、客席の明かりが落ちた。それでも、料理が見えるようにするためか、手元が確認できる程度の明かりは残る。
スポットライトと拍手に包まれながら、元アイドルの歌手が現れた。もう五十近いだろうが、ほっそりとした長身は、そんな年齢を感じさせない。
拍手が静まらないまま、静かなドラムで音楽がスタートし、シルバーのドレス姿の歌手は、リズムよく英語の歌を歌っている。譲さんは彼女の姿に顔を緩ませながら、コース料理のステーキと、ワイングラスをせわしなく口に運んでいる。
一曲終わると、歌手は挨拶や次の曲の解説をする。譲さんだけでなく、男性の多い客席は、彼女が言葉を発する度に、拍手をする。
元アイドルとの事だが、わたしは彼女がそうだった時代を知らない。目の前にいる歌手は、高音も低音もなめらかで、クラシックの発声とは異なるが、情感を込めて曲を歌い上げる。
譲さんや他の客のような思い入れはないが、その歌声を聞きながら食事を味わうのは、愉しい時間であることに間違いなかった。譲さんと同じように、ステーキとワインを口に運ぶと、肉の旨みが口の中で弾む。
アップテンポの愉しげな曲、マイナーコードの悲しげな曲、ゆったりと歌い上げる曲――しばらくすると、音楽が途切れ、歌手は少し照れるように頭を揺らしながら、話しはじめた。
「えー、今はジャズを中心にさせてもらっていますが、最初はアイドルやらせてもらってました」
客席から、知ってるー、という男性の大きな声が返る。
「ありがとうございます。では、その頃の曲も、一曲だけ、今からやらせてもらいます」
客席では、一際大きな拍手や口笛の音が聞こえる。
歌手は、手を振りながら、大きく踊り出した。Jポップのようなその曲は、「センパイ」への「恋」を歌う。アイドル時代だろうその振り付けは、どこか昭和を感じさせる。
「恋、これは恋かしら」
そのフレーズは何度も繰り返され、客席からは、その歌手の下の名前を、そのフレーズに合わせて客が叫んでいる。譲さんも目尻を下げて、曲に合わせて手を叩いている。
先程まで口を愉しませていた肉が、急にゴムの固まりのように感じられる。
うんざりする――夕方のカフェテリアで、エリカの話を聞いていた感覚を思い出す。前に聞いた、サークルの男性から「告白された」彼女は、それでも答えを「保留にしている」という。明確な好意を持っていながら「まだ早いかなって」という台詞は、出来の悪いドラマを見ているようだった。
それでも、彼女の求める「正解」を探りながら、「そうかも」「エリカってそんなとこあるんやー」と、笑顔を張り付けて返す自分にも、わたしはうんざりしていた。
ライブに来てからその事は忘れていたのに、振り付きのその曲を聞いて、そのときの気持ちがぶり返すのを感じる。ステージに夢中な譲さんの横で、わたしはそっとテーブルに目を落とした。
さっき彼が乱暴にワインを注いだから、テーブルクロスには赤い染みがついている。ロールシャッハテストのように、それに何が見えるか考える。そうしている間に、その曲は終わり、またジャズのスタンダードナンバーが始まったようだった。
「どうかした?」
譲さんが不思議そうにわたしの顔を覗く。
「ううん、何も。美味しいね、ここの料理」
答えると、彼は安心したようにまたステージに目を向けた。
金曜の夜だ。このライブが終わっても、まだ時間は早いだろう。その後は、きっとまたエルドラドに行く――エルドラドのグループLINEで、「ナオミ」はいつも人気者だ。タクシーの中で行くことを告げれば、きっと「ナオミ」目当ての男性客が訪れる。
バケットを赤ワインで流しこみながら、軽快な音楽に頭を振る。楽しいことだけを考えたかった。
その後もプログラムは進み、アンコール二曲を演奏して、ライブは終了した。
「楽しかったなぁ、ナオミちゃん」
譲さんは上機嫌だ。さっきのアイドル時代の曲を、調子外れにハミングしている。
「ねえ、これからエルドラドに行くんでしょ」
「そら、ナオミちゃんが嫌じゃなかったら、そうするつもりやで」
「嫌やないよ」
JRのタクシー乗り場でタクシーを拾う。場所を告げて、譲さんは後部座席に身を沈め、わたしの手を握る。
「今日はええ週末や」
ライブの高揚感だろうか、譲さんの声は弾んでいる。
いつものようにエルドラドのあるマンションの前でタクシーは止まり、わたしたちはエレベーターで店に向かった。
チェーンロックが付いたまま扉が開き、一度閉まって、今度は大きく開く。
「いらっしゃいませ。きょうも沢山お見えですよ」
マスターは嬉しそうな声を出す。
タクシーの中で、「今日も行きます」とグループLINEにメッセージを投げた。その後には「ナオミちゃんが行くんだったら行きます」「僕も行きます」とメッセージが並んだ。
いつも支払いは譲さんがするから、エルドラドの会計システムはよく知らない。けれど、少なくとも男性客の単価は高いはずだ。理由が何であれ、男性客が増えるのは、マスターにとって嫌なことではないはずだ。
いつものようにカウンター席に座って、わたしはカクテルを、譲さんはロックを頼む。ピスタチオを噛みながら、譲さんは店内をぐるりと眺める。
「ねぇ、今日の相手も、譲さんが選ぶの?」
「え、どしたんや、ナオミちゃん」
彼の目は泳ぐ。
「この前、マリちゃん、楽しそうだったでしょ? あんなんしてみたい」
「どんなんや」
「ほら、男の人の手を縛ったりしてたでしょ。あんなん」
「そらあかん」
慌てたようにそう言って、譲さんは顔を曇らせた。
「M男か。そういうんはあかん」
「M男っていうん? なんであかんの?」
「あんなんを喜ぶんは、M男っちゅうねん。だいたいな、あいつらは、しつこいし、自分勝手な奴多いねん」
「そう?」
マリちゃんが遊んでいた様子を思い出す。相手の男性はおとなしく、そんな様子は見当たらなかった。
「ナオミちゃんはな、まだわかってへんねん」
彼は続ける。
「今までの相手はな、俺がちゃんと選んでるから、おかしなことになったことないやろ。けど、フラフラしてたら、直接ナオミちゃんのとこ何や言うてくるかもしれへんし。危ない目にあったら嫌や」
「えー、じゃあ、マリちゃんは?」
「そら、マリちゃんは大人やから」
「わたしは?」
「ナオミちゃんはな、まだ若いし。この世界もまだ短いやろ? わかってへんとこもあると思うで、色んなことを」
譲さんは、俺はナオミちゃんのことを守ってるんや、と言って、室内の他のスペースに行ってしまった。
一人でカクテルを飲みながら、ピスタチオを噛む。かみ合わない会話を、そうして胃に流してしまおうと思う。
グラスを傾ける。
最後の一滴が喉を流れていった時、頭の上に、ぽんと掌が乗った。
「遊んでくれる人、見つけたで」
ビジネスバッグから一眼レフを取り出した譲さんの後ろには、四十台後半くらいだろうか、彼より少し年上に見える男性が立っていた。
「ほな、行こう」
いつものように譲さんに手を引かれる。カーテンの向こうの空間に、わたしたちは足を向けた。
男性は、大きなバッグを持っている。
布団が敷かれた空間で、男性は持っていたバッグから何やら道具のようなものを取り出して、わたしの腕に当てた。しっとりした感触のそれは、革の腕輪のようなものだった。ゆっくりと腕を覆い、きゅう、と締め上げられる。
「ナオミちゃん、痛ないか?」
譲さんはのぞき込む。
「うん、大丈夫」
締め付けられる感触はあるものの、痛みはない。答えると、次には足首に同じ物が巻かれた。
「あんまりきつくしたらあかんねんな?」
男性は、わたしではなく譲さんに聞く。
「うーん、そうですね。ソフトな感じでお願いします」
彼はシャッターを押しながら男性に答える。
男性はゴルフボールくらいの大きさの玉に紐がついているものを取り出す。その玉をわたしの口に入れ、頭の後ろで紐を固定する。それが終わると、右手首の手錠の金具と右足首の錠の金具、左手首のそれと左足首のそれを固定する。手首と足首が固定され、わたしは頭を枕に埋め、尻を突き出したような格好になった。
譲さんは、わたしが固定されるたびに、シャッターを連写させる。
「ムチしてもええん?」
「バラですよね?」
「うん」
「ほな、大丈夫やと思います」
わたしの頭の上で、会話が続いた。
「しんどかったら、言うたらええしな」
譲さんにそう声をかけられ、返事をしようとしたけれど、口の中のボールが邪魔をして、唸るような声しか出ない。
「ほな、いくで」
男性の声が終わらないうちに、ぱちん、と大きな音と同時に、尻のあたりに、重い痛みが走った。
とん、とん、となぞるように革が触れる感触が続き、また、ぱちん、という大きな音がする。
痛い、やめて――そう言おうとしても、言葉にならない声が、う、う、と唸り声のように漏れる。
「お尻、赤くなるねぇ」
「この子、色白いですからねぇ」
とん、とん、ぱちん。音がする度に、目の裏が熱くなる。
しばらく音が続いた後、男性はわたしの下着をずらし、覆い被さってきた。
やめて。
こんなの気持ちよくない。
音のした場所が、熱い。
言葉にならない言葉が、涙となって目尻から頬を伝った。
助けを求めようと、譲さんを目で探す。
滲む景色の中で、彼の姿を捉える。けれど、譲さんの顔の前にはカメラがあって、その目を見ることはできなかった。
※
まだ酒が抜けていないようだ。ポシェットからキーケースを取り出そうとして、わたしはマンションの内廊下にそれを落とした。
ピンヒールのロングブーツで、姿勢を保てなかったのもあるだろう。わたしは半ば倒れ込むようにしてそれを拾い、力の入らない指で、こじ開けるようにして、譲さんの部屋のドアを開けた。
日曜の早朝だ。角部屋の彼の部屋も、まだ薄暗く、夜の余韻を残している。彼もまだ寝ているだろう。ダウンコートを脱ぎ捨てると、わたしはリビングのソファに身体を預けた。
固い座面でなんとか横になろうとすると、
「何しに来たんや」
という低い声が聞こえた。
声の方を向くと、リビングの入り口の扉のところで、譲さんが表情なく立っている。
「何しに来てもいいでしょ」
捨てるように言って、頭を天井に向ける。昨夜は「まぁくん」から連絡があって、彼のお勧めの居酒屋で飲んだ。その後、ホテルで、行為の最中も、その後も酒を飲み続けたから、過去にない量の飲酒をしたことになる。呼吸すると、自分の口からアルコールの臭いが漏れるのが、自分でもわかった。
「どこ言ってたんや、昨日は」
「わたしの好きなとこ」
「誰と一緒にいたんや」
「関係ないでしょ」
譲さんはスウェット姿で足音を立てて近寄り、わたしの腕を掴む。引っ張られて、わたしは座る格好になった。
「ナオミちゃん、君は俺の彼女ちゃうんか」
言われて、ふっと、鼻から笑いが漏れる。
「その彼女を、他の男に抱かせて喜んでたのは誰よ?」
くっくと喉から笑いが漏れる。
「ナオミちゃん、酔ってるんか」
「酔ってるかもね。でも、そんなん、どうでもいいでしょ」
エルドラドでの夜――譲さんの選んだ男性にムチで叩かれた夜――以降、わたしたちの間に、それまでのような会話は減った。その代わりに、お互いの苛立ちをぶつけ合うような、そんな会話しか、わたしたちはできなくなっていた。
「わたしが嫌なこと、平気でさせたくせに」
カーテンが開け放たれたままの窓から、大阪市内の景色が見える。遠くには、大阪城も見えるはずだ。けれど、それはまだ霞んでいる。
「ナオミちゃん、それは何度も謝ったやないか。嫌なことさせたんは悪かった。嫌がってるのに気付かんかったのは俺が悪い」
わたしの両手を包むようにして持ち、譲さんは声を震わせた。
「けどな、ナオミちゃん、俺は昨日の夜もずっとナオミちゃんのこと待っとったんやで。ずっと、眠れへんかった」
鼻から、ふん、という息が漏れる。
「だから、な。前みたいに仲良くしたいねん。俺は大切にしてたやないか」
「あっそう」
「真面目に聞いてくれ。元に戻りたいんや」
「今まで、どこにいてたか聞きたい?」
譲さんの喉は上下する。
「さっきまでね、ホテルにいたの、ラブホテル。男の人と。そういうの、好きでしょ?」
彼はわたしの両手を投げるようにして離した。ふらついて、ソファに倒れる。
安っぽいホテルだった。梅田のホテル街、太融寺にあるそこは、たっつんのパーティーで訪れたような場所ではなかった。一泊、一万円もしなかったのではないだろうか。広い風呂だけが取り柄のその部屋で、わたしとまぁくんは、ずっと酒を口にしながら、何度も何度も交わった。酒に酔った感覚の中で、頼りない快楽だけが微かに横たわっていた。
ゆっくり寝ていられると思ったのに、用事があると言って、まぁくんはこんな早朝にチェックアウトしてしまった。
「ナオミちゃん、それは浮気や」
横たわった姿勢のまま、また、ふん、という息が漏れる。
「何が違うのよ。他の男に抱かせて興奮してたやない」
「それとこれとはちゃうんや。わかるやろう?」
「わからへん」
「なんでわかってくれへんのや!」
「一緒やない、他の男に抱かれんのは。何言うてるんよ、あんな事までさせといて。もう、わたしは、気持ちのいいことしかしないの」
エルドラドでの夜が蘇る。わたしにとってあれは、ほとんどレイプのようなものだった。そんな状況にした彼も、レイプ犯と同じようなものに感じられる。
寒波が到来したのだと、スマートフォンの天気アプリが告げていた。革張りのソファは冷たく、熱くなった頬を冷やす。早朝、電車はなんとか動いていたが、まだ喫茶店すら開いていない。
こんな酒の臭いをさせたまま自宅に帰ったら、母に何を言われるかわかったものではない。行く場所のなくなったわたしは、ここに来るしかなかったのだ。
「これからは、ナオミちゃんの気持ちのいいことしかさせへん。痛いことは絶対にせえへん。だから堪忍や。勝手に他の男んとこに行かんといてくれ」
譲さんはソファの前で膝をつき、再びわたしの手を取った。
「何が違うのよ、わたしが好きに遊ぶんと」
「全然ちゃうんや。ナオミちゃんは彼女や。宝もんや。だから、全部知っときたいねん。そやなかったら、俺は彼氏でもなんでもないやないか」
「そうかもね」
「何!?」
「他の男に抱かせてる時点で、普通は彼氏言わんのよ」
「それは……」
「だってそうでしょ? 違う?」
「それはな、ナオミちゃん……」
彼の声は震えている。
「わたしはわたしの好きにさせてもらうわ」
「どうしてもか?」
「え?」
「どうしても俺の言うことわかってくれへんのか?」
起きあがって、彼の顔を見る。目の下のクマは深く、疲労の色は深く滲んでいる。
「……わからん」
しばらくしてから、低い、
「そうか」
と言う声が聞こえた。
「そしたら、俺は、もう知らん。好きにせぇ」
それだけ言うと、彼は、わたしに背を向けて寝室の方に足を向けた。
取り残されたわたしは、まだ酒の残る頭で、彼の言葉を反芻する。ほんの少しの苦い気持ちの裏に、彼から自由になった喜びが大きく広がっている。
もう、誰に気を使うこともない――そのまま、わたしは床に落ちたままのコートを拾い、まだフラフラした足で、玄関に向かった。
得体の知れない解放感が、わたしを支配していた。
(続く)
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