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【小説】愛の稜線【第6回】#創作大賞2023

 玄関の扉を開けて漂ってきたのは、夕飯の匂いではなく、人が揉めているときの不穏な空気だった。

 そのまま、またどこかへ行きたくなったが、明日は月曜で、授業が始まるから、遊びに出かけるわけにもいかない。仕方なく、ドアをそっと閉め、なるべく気配を消しながら、リビングのガラス扉の様子を窺った。リビングから階段が伸び、そこから自室へ向かうという家の構造は、母が拘ったものだったらしいが、わたしにとっては――おそらく、弟にとっても、父にとっても――あまり歓迎できる構造ではなかった。

 猫のような動きで、静かにリビングに入ると、夕陽の差すダイニングのテーブルに、パソコンを開いた父の姿が見え、キッチンから何やら文句を言う母の声が聞こえた。

 一瞬顔を上げてわたしの顔を見た父は、またパソコンの画面に視線を落とす。珍しく家で仕事をしているようだった。

「あいつにはあいつの考えがあるんだろう」
 と父はパソコンの画面を見たまま、母との会話の続きをしている。

「せやかて、偏差値が……」
 キッチンでは母が料理をしているのだろうか、奥でガサガサと音を立てている。
「放っといたらええ」

 どうやら会話の内容は弟のことだったらしい。一見、子供に理解のあるように聞こえる父のセリフだが、今まで子供に向き合うことのなかった彼の様子を思うと、単なる逃げ口上であるようにも聞こえる。父の声が聞こえているのかいないのか、キッチンではまだブツブツと母の声が続いている。

 わたしは母に気付かれないよう、そのまま音を立てずに階段を上り、自分の部屋に着いた。そっと扉を閉め、やっと大きくため息をつく。

 荷物を床に置いて、着替えると、早速、紙袋に入った新しいスマートフォンを取り出した。

 土曜の夜、譲さんに連れられ、エルドラドに行き、深夜にタクシーで彼のマンションに帰った。グループLINEで店の客たちと遣り取りする譲さんの様子に、「わたしもやりたい」と言ったところ、すぐに止められた。わたしのLINEのIDは、本名を登録してある上に、家族との連絡にも使っているものだ。そのIDであの店の客と繋がるのは危ないという。

 だから、「スマホ、もう一台欲しいなぁ」とつぶやいた。もう一台違うものを持てば、新しいIDでエルドラドのグループLINEにも入れる。けれど、ねだったわけではない。どうしても欲しかったという訳ではないのだ。

 それでも、今、わたしの手の中には新しいスマートフォンがある。

 遅くに起きたわたしたちは、中華のランチに行った。その後、わたしが言ったことを覚えていた譲さんが、梅田の大型家電店で、新しいスマートフォンを買ってくれた。SIMの契約は彼の名前だ。つまり、どれだけ使っても費用の心配のない、新しいスマホがこの手の中にあることになる。

 コンビニで買ってきたアイスコーヒーを飲みながら、新しいスマホの設定をする。まだ、LINEのアプリを入れて、譲さんを「友だち」に追加したばかりだ。プロフィールで名前を「ナオミ」と登録し、アイスコーヒーを撮影して、とりあえずそれをプロフィールの写真にする。

「家に着きました」
 メッセージを送ってすぐ、それが既読となり、
「お疲れ」
 という譲さんのメッセージが返ってきた。

 マンションで休んでいたところなのかもしれない。一人であの広い部屋にいる彼を想像する。「欲しい」と言えば、それをすぐに与える――そんな人が一人でいるときの姿は、見慣れた人のような、それでいて、まるで知らない人のようなものである気がする。

 しばらくすると、LINEの通知が出て、見ると、「エルドラド マスター」という名前が見えた。譲さんがIDを教えたのだろう。「友だちに追加」して、コーヒーをすする。またしばらくすると、「エルドラド マスター があなたを『グループ エルドラド』に招待しました」という通知が届いた。

 通知をタップし、「参加」をクリックする。「グループ エルドラド」を開くと、「ナオミさんを招待しました」と「ナオミさんが参加しました」という文字が連続で並んでいる。

「よろしくお願いします」
 とだけコメントを残す。テーブルにスマホを置いて、わたしは狭い部屋の中で片づけを始めた。

 スマートフォンの入っていた家電店の袋をベッドの下に仕舞う。昨日は譲さんの部屋に泊まったから、着替えは洗濯しなければならない。明日は一時限から一般教養の授業があるから、持って行くもの――といっても教科書もノートも大学のロッカーにあるのだが――をまとめ、明日着ていく服を引っ張り出す。

 まだ昼は暖かいが、朝晩は冷えるようになってきたから、上着も必要だ。時折この部屋まで響く、母の声を聞きながら、それに耳を塞いで、手を動かす。

 作業が終わると、もう一度テーブルを向き、胡座をかきながらスマートフォンを手にした。LINEの通知が何件も着ている。

「昨日コスプレしてた子かな? よろしくねー」
「よろしくー」
「また遊ぼー」

 昨日、車座になっていた男たちだろうか。「まぁくん」や「はまちゃん」などといった名前が並び、同じようなメッセージが何件も続いた。

「昨日、ミニスカポリスのコスプレしてました。またよろしくお願いします」
 メッセージを打ち終わる前に、誰かが階段を上る足音が聞こえた。乱暴にドアが開かれる。咄嗟に新しいスマホをテーブルの下に隠した。

「あんた、いつの間に帰ってたん?」
 母がドアから顔を覗かせる。

「さっき」
「勝手して。挨拶くらいせなあかんやろ」
「……ごめん」

「晩ご飯いるん? いらへんの!?」
「晩ご飯は食べるって、LINEして……」
「LINEなんてようわからんわ。いるならいるで言ってもらわな」
 感情の波が乱高下する母は、そう言って、わざとらしくため息をついた。

「食べます。家で食べます」
 うんざりしながら答える。たとえどんな料理だとしても、この状態の母を交えた食卓では、味らしい味はしないだろう。

 ぶつぶつと文句を言いながら、大きな足音は遠ざかっていく。大学も居心地もいい場所ではないが、この家のほうが、さらに窮屈で、くつろげる空間がない。

 テーブルの下のスマートフォンを拾い上げる。グループラインには、いくつも、「ナオミ」を歓迎するコメントが並んでいる。

 いつものわたしよりも、「ナオミ」としての存在の方が、人に歓迎され、受け入れられている――気が付くと、わたしは口の端を歪めて、ふっと笑い声をあげていた。

 譲さんはまだわたしを「ナオミ」と呼ぶ。そして、その名前で、こうして人に歓迎される――「ここではないどこかに行きたい」という願いが叶うのであれば、「ナオミ」として生きるのも悪くはない。

 夕陽に染まるテーブルに肘をつけながら、わたしは「ナオミ」としての返信メッセージを打っていく。演じているのか、それともそれが本当のわたしなのか、スマホをフリックする指が迷うように宙をさまよった。

 長堀橋の駅で地下鉄を降り、南へ下る。てっきり日本橋の駅から向かう方が島之内に近いと思い込んでいたが、グーグルマップを見ると、譲さんの言う通り、どちらの駅からも同じような距離が保たれている。いわばエアポケットのような空間だ。

 金曜の夜、大学の後に譲さんのマンションで彼の帰りを待ってから、わたしたちは島之内に向かった。エルドラドに行くためだが、その前に、近くにある韓国料理店に行くという。

 十月下旬、晩には冷たい風が吹くようになって、わたしは薄手のニットの上にフェイクレザーのジャケットを羽織った。マンションにビジネスバッグを置いてすぐに出てきたから、譲さんは会社帰りのスーツ姿のままだ。

「大学はどうや?」
 駅から歩きながら、彼は聞く。料理店を知らないわたしは、その後ろをついて歩いた。

「どうって?」
「どんな勉強してるとか、どんなレッスンやとか」

 週の中頃にあった声楽のレッスンを思い出す。ろくに練習していなかったから、レッスンの内容は前の週をなぞるような内容にしかならなかった。もちろん、曲は進んでいない。

 その他の講義もいつも通りだ。ICカードになった学生証を端末にかざして出席し、授業の時間の分だけぼんやりと時間が経つのを待つ。一般教養も、専門科目も、どれも等しく退屈だった。

「別に。普通」
「そうか」

 嫌なことを思い出して、つい口調が強くなる。譲さんはどんな口のきき方をしても怒ったりすることがないから、そのせいで、わたしは誰にも使うことのないような蓮っ葉な会話をすることが増えてきた。そして、そんな自分の言動にもなぜか苛立って、余計に譲さんに当たる。

「ここや」
 譲さんが見上げた看板はハングルで書かれているから、店の名前は読めない。彼はそれを気に止める様子もなく、店に入って、空いている奥のテーブル席にどっかりと座った。

「いらしゃい」
 わたしたちの姿を見た店員が、少しなまりのある日本語で声をかけてくる。

「ビールでええか?」
「うん」
「そしたら……」

 彼はそのままハングルの下に小さく日本語が書かれたメニュー表を見ながら、ビールと料理を注文した。

 店員はそれを書きとめ、店の奥に向かって大きな声で韓国語を話している。店内でも、韓国語で話す客が大半で、日本語で会話しているのはどうやらわたしたちだけのようだった。

「店の名前、なんて書いてあったん?」
 尋ねると、彼は首を傾げる。
「さぁ、知らんなぁ。けど、ここ、美味いで」

 譲さんに促され、店員が運んできたナムルをつまみに、ビールを飲む。ほうれん草、もやし、せんまい。一つ一つの味が少しずつ異なるそれらは、不思議とどれもビールに合う。食べ始めると、自分が空腹であったことに気付いた。

 しばらくすると、焼きたてのチヂミが運ばれてくる。表面がカリカリに焼かれたそれは、口に運ぶとふっくらとした野菜の旨味が広がる。

「美味しい」
 思わず口にする。譲さんもチヂミを口に運びながら、満足そうに頷いた。

 食べながら、譲さんに買ってもらったスマートフォンを眺める。グループLINEでは、エルドラドのマスターが「今日はレディースデーです!」「女性はドリンク一杯無料!」と宣伝文句を並べている。

 あそこでは、女というだけで酒を奢ってくれる男たちがいる。果たして宣伝文句が有効なのかはわからなかったが、「行きます!」という男性客らしき人たちの言葉が、名前と共に並んでいる。レディースデーという言葉は、どうやら女性客よりも男性客に効果があるらしい。

「ねえ、わたしたちも行くってコメントしといていい?」
 画面を見せながら聞くと、届いたばかりのチャプチェを口に頬張りながら、譲さんは頷いた。

「わたしたちも行きます」
 ナオミの名前でコメントし、スマホをテーブルに伏せて置く。ビールを飲んでいると、何度も着信を示すバイブレーションがテーブルを揺らした。

 しばらくしてから画面を見ると、コスプレナイトのときにいた客だろうか、男性からの「待ってるよ!」「行くよ!」というメッセージやスタンプが並んでいた。また譲さんに画面を見せる。譲さんはうれしそうに頷いて、プルコギに箸を伸ばした。

「ナオミちゃん、あっという間に人気者やなぁ」
 ビールを喉に流しこみながら、彼は笑う。

「そうかな」
「そら、こんだけコメントつくねんから」

 自分の恋人に男性からの反応があることが、うれしいのだろうか。譲さんの顔を眺めながら、少し不思議な気持ちになる。

 ごく一般のサラリーマンといった風情の彼は、清潔感もあるし、身なりにだらしないところもない。食べる様子にまだ幾分の若さが残っているが、見かけはどこにでもいる四十男だ。それでも、ダイヤモンドの村田が言った「けったい」という言葉が思い出され、わたしはしばらく彼の顔をじっと眺めた。

「ナオミちゃん、なんや?」
 わたしの視線に気付いた譲さんが、不思議そうにこちらを眺める。

「俺の顔、なんかついとるか?」
「ううん。そんなことない」

 わたしならムッとしそうなそんな場面でも、彼は怒ることがない。ニコニコ顔で、飲食を続けている。

 彼に続いてプルコギを口に運ぶ。同じように香辛料が効いていながらも、一品一品で味が少しずつ異なっている。わたしはいくつもの皿に箸を進めながら、ビールを口に運んだ。

「譲さん、美味しいお店よく知ってるね」
「せやろ?」

 満足そうな彼の顔を見ながら、この顔が歪む瞬間はあるのかと考える。いつも怒ることのない彼が、怒る、あるいは悲しむ、そんな瞬間があるならば、見てみたいような、怖くて見たくないような、不思議な気持ちだ。

「冷めへんうちに食べてしまわな」
 彼に急かされ、わたしは箸とビールのコップをせわしなく動かした。彼がコーン茶を頼む頃には、すっかり満腹になり、わたしはさきほどの考えがどうでもよくなっているのを感じた。

「ほな、行こか」
 いつものように先に店を出て、譲さんが会計をすませるのを待つ。すぐに出てきた彼が渡してくれたガムを噛みながら、エルドラドのあるマンションを目指す。

 男たちの視線、LINEのメッセージ――わたしが無条件で歓迎されるなら、またコスプレするのも悪くはない。きっと、譲さんもそれをさせたがるだろう。

 マンションの入り口で、噛んでいたガムを紙に包んでゴミ箱に捨てる。いつものように音の大きなエレベーターに乗った後、チェーンロックをつけたままの扉が一度開いてから、今度は大きく扉が開く。

 レディースデーとはいったものの、もう午後十時になるというのに、女性はまだ二人しか来ておらず、男性の方は五、六人の影が見える。

 わたしたちはカウンター席に座って、ロックのグラスとカクテルのグラスとで乾杯をした。小さな皿でピーナッツが添えられている。

「今日は何のコスプレしたらいい?」
 少し飲んでからそう言うと、譲さんはまた顔を緩めた。

「え、今日もええん?」
「うん、ええよ」

 カーテンの横のハンガーラックの前で、譲さんは何着もの衣装を手に取っては戻すを繰り返す。しばらくしてから、レースクイーンの衣装だろうか、ミニスカートで上半身がぴったりとした水着のような素材のそれを持ってきた。

 黙って受け取って、脱衣所に向かう。前と同じように服を脱いで籠に入れ、衣装を身につける。洗面器の鏡を覗くと、そこにはまた人気者の「ナオミ」がいた。

 そのまま、カウンター席に戻る。譲さんはまた何度もわたしを誉めた。

「スタイルがええから、何着ても似合うなぁ」
 譲さんはレースクイーンの衣装を着たわたしの身体を、両手でなでた。男たちの視線がわたしに集中するのがわかる。

「かわいい彼女さんですねぇ」
 カウンター席の、二十代くらいの男性が、譲さんに話しかけた。「まぁくん」と名乗る。譲さんと同じように中肉中背をスーツ姿で包んでいるが、顔のニキビが、譲さんにはない若さを感じさせる。

「うん、まあ」
 譲さんはうれしそうに、けれどそのうれしさを隠すようにグラスに手を伸ばす。そのとき、また、そんな様子の彼を困らせたいような、意地悪な気持ちが沸いてくるのを感じた。前回目にした、マリちゃんの様子を思い出す。

 カクテルを飲み干し、立ち上がって、わたしは今度は「まぁくん」の膝に腰をかけた。彼は一瞬驚いたように身を堅くしたが、すぐにわたしの腰に手を回した。

 そのままの姿勢で、譲さんにカクテルをねだる。彼はじっとりとした目でわたしの様子を見ながら、それでもマスターにカクテルを注文した。

 まぁくんの膝の上で、そのカクテルを喉に流していく。飲みながら、腰に回ったまぁくんの腕に、徐々に力が入ってくるのを感じた。

 腰に回った手は、ゆっくりと動いて、わたしの腹のあたりをまさぐっている。譲さんはそれでも何も言わずに、その様子をじっとりとした目つきで眺めている。

 譲さんが何も言わないからだろうか、わたしが止めないからだろうか、まぁくんの動きはどんどん大胆になっていく。わたしの顎を掴み、頬を寄せる。それでもまだ譲さんは何も言わない。

 自分でまぁくんの膝に座ったくせに、わたしは譲さんの様子に困惑していた。少し困らせたかっただけなのに、彼はそんな様子をおくびにも出さない。

 まぁくんはわたしの顎を掴んだまま、唇を寄せてくる。舌がわたしの唇を舐め、そのまま口腔に入ってくる。

 その時、譲さんではなく、今着いたのだろう、たっつんの、
「ま、そのへんにしとき」
 という声が聞こえ、まぁくんの肩にたっつんの手が置かれたのが見えた。

「あ、すみません」
 まぁくんは慌てたように膝からわたしを降ろし、顔色を変えた。

「ん。俺が言うことちゃうけど、その子、譲さんの彼女やからな。譲さんに聞いてからしいや」

 たっつんは笑顔でまぁくんに話す。まぁくんは席を変え、さっきまで彼が座っていた場所にたっつんが座る。たっつんはいつものようにマスターにロックを頼んだ。

「譲さん、なんで……」
 立ったまま、彼のスーツの腕を握る。

「なんで止めへんの?」
 自分からまぁくんの膝に座ったくせに、譲さんに対する怒りが沸いてくるのを感じる。

「そら、まぁ」
 彼は言葉を濁し、グラスに口をつける。怒りや悲しみや困った表情は見られない。それがさらにわたしの怒り大きくする。

「なんでよ」
 スーツの腕をぎゅっと掴む。

「まあ、ええやないか、ナオミちゃん」
 割って入ったたっつんは、わたしの分のカクテルを注文し、元の席にわたしを座らせた。

「こういう場所やしな」
 譲さんはポツリと話す。

「それに、そういうの、好きなんや」
「そういうのって何よ?」
「一言で言うんは難しいなぁ……なぁ、たっつん」

 たっつんは頷く。二人は共通の何かを味わうように、グラスを傾けている。

「帰る」
 それだけ言うと、脱衣所に向かい、服を着替える。レースクイーンの衣装は、籠に乱暴に脱ぎ捨てた。

 自分でもわかっている。わたしの悪ふざけが過ぎたのだ。けれど、自分の恋人がそんな状態ならば、普通は止めに入るのではないか。少なくとも、好意を少しでも持っているのなら――苛立ちは、自分の行為を矮小化し、「何もしなかった」という彼の行為を肥大化させる。

 そのまま、店の出口に向かおうとすると、譲さんに手を掴まれた。

「ほな一緒に帰ろう」
 譲さんは手を掴んだままエレベーターを降り、タクシーを拾う。車に乗り込むと、行き先を告げ、さっきまでまぁくんが舐め回したわたしの唇を唇で塞いだ。まぁくんのように、舌が口腔内を舐める。

「愛してる」
 譲さんはそう言うと、後部座席でわたしを抱きしめた。

 大講義室のスクリーンには、教員が映し出すパワーポイントの画面が広がっている。配られたプリントにも同じものが印刷されているから、それを聞きながらプリントにメモをとっていく。

 たったそれだけの事なのに、薄暗い部屋は眠気を誘い、気が付くと頬杖をついた肘がカクっと動いている。

 「音楽療法基礎論」は最近――といっても十年くらい前なのだろうけれど――開講されることになった講義だと聞く。必須科目ではないにもかかわらず、人気はあるようで、何の気なしに取った講義だったが、大教室の暗がりにいると、眠気と戦うだけのことがいかに難しいかを実感させられる。

 現実と夢の世界を行ったり来たりしながら座っていると、肩をつんつんと指で押される気配にはっとなった。

「終わったで」
 エリカの言葉に辺りを見回すと、薄暗かった講義室にはライトが灯り、女学生たちが出入り口に向かって歩いているのが見える。

「あかん。寝てもうたわ」
「暗かったしな」
「エリカ、起きとったん?」
「まあ、なんとか」

 なんとか、と言う割には、エリカが手にしているプリントにはメモがびっしり書かれている。

「次、昼休憩やで。どうする?」
 エリカはプリントを鞄に入れながら、わたしを向く。
「カフェテリア行こか」

 わたしもエリカも弁当を持ってくる習慣はない。昼ご飯を食べるなら、購買で買うか、カフェテリアに行くかの二択しかなかった。

 講義棟を出て、学内を歩く。十一月に入って朝晩はだいぶ冷えるようになったが、昼の日差しは柔らかく、上着を脱いで腕でファイルと一緒にそれを抱える。

 込み合ったカフェテリアで席を確保して、わたしたちは窓際の席で向き合ってランチプレートに箸をつけた。

「エリカ、えらい真面目にメモとっとったたやん」
「まあ、ちょっと興味出てきて」

 黒いミニスカートにピンヒールのショートブーツ、真っ赤なニットという相変わらず派手な格好のエリカは、それでも、真面目な学生らしい発言をする。

「音楽療法、興味あったん?」
「ううん、前はなかったんやけど。この前、ボランティアサークルで老人ホーム行って」

「もう活動してるの?」
「うん。なんや、音楽活動多いねん。ピアノ科ってだけで、よう声かけられて」
 半分は困ったような、半分はうれしそうな声だ。

「音楽するんやったら、ピアノはいるもんなぁ」
「せやねん。で、行ったとこ、音楽療法士さんも来てるらしくて」

 自分たちはあくまでレクリエーション活動なのだが、利用者たちや介護士たちには、音楽療法士さんのような活動を期待されて困るのだとエリカは話す。だから、音楽療法がどんなものかがわかれば、それに近いものを企画できるかもしれないと、授業に俄然意欲が沸いたらしい。

「音楽療法士になりたいの?」
 意外に思いながらも聞く。たしか、必要な単位数をとれば、この大学でも音楽療法士の受験資格が得られるはずだ。

「ちゃうちゃう。授業を生かしてボランティア、って書けるやろ」
「前に言ってた『ガクチカ』?」
 エントリーシートの話を思い出しながら、質問する。

 エリカは大きく頷いた。どうやら、就職活動への情熱は一時のものではなかったらしい。

「すごいな」
 思わず、つぶやくように声が出る。わたしも同じように頑張るべきなのかもしれないが、彼女のような情熱がどうしても沸いて来ない。

「けどな、わたしなんかより、もっとすごい子いてんねん」
 エリカは同門の同じ一回生の女の子の名前を出した。

「あの子な、もうお見合いしてるねんて」
「は? うちらまだ大学入ったばっかやで」

「なんかな、あの子の家って、でっかい病院経営してんねんて。で、親がどうしても医者と結婚させたいらしくて、無理矢理見合いさせられるらしいねん」

 音楽をしていると、たまにそうした金持ちにぶつかることがある。就職の心配なく、音楽活動だけに専念でき、コンサートを開くときのチケット代の心配もない環境。けれど、それはそれで、のほほんと生きていられるものでもないらしい。

 噂話も終わり、ランチプレートを食べ終わったエリカは、コーヒーを買うために席を立った。食事がまだ済んでいないわたしは、エリカに自分の分も頼む。

 食べ終わると、ポシェットの中で振動していた、エルドラド用のスマートフォンを取り出す。LINEを開くと、この前友だちに追加したばかりの「まぁくん」からメッセージが届いていた。

「この前はごめんね。ジョーさん、怒ってなかった?」
「大丈夫、怒ってなかったよ」
 OKマークを出すウサギのスタンプを追加する。

 スマホを触っている間にエリカが戻ってきて、テーブルにコーヒーのカップを置いた。

「スマホ、新しくしたん?」
「うーんと、前のスマホも使ってる。これは譲さんに買って貰った」
 エルドラドでの経緯は伏せ、SIMも譲さんの契約でしてもらった事を話す。

「えー、そしたら二人専用のスマホって事?」
「えーと、うん、まあ、そんな感じかな」

 初めてエリカに嘘をつく。ごまかして話しながら、その嘘は、心の中でほの暗く光る。

「すごいやん。ラブラブやなぁ」
 エリカはそう言ってから、
「けど……」
 と口ごもる。

「けど?」
「ううん、なんもない」

 続きは、言われなくてもわかる気がした。「別れたとき、大変じゃない?」。現実的なエリカなら、そう考えるだろう。たしかに、こんなにして貰っていれば、別れるときに、揉めるような気はしていた。

 けれど、同時に、それだけのことをして貰って当然なのだと、自分の内側から声が沸き上がってくるのも感じた。

 譲さんはあの日――わたしがまぁくんの膝に乗った日――「自慢したいんや」と言った。「俺の彼女がこんなにいい女やって、自慢したいんや」と。そして、その「自慢」の方法が、人とは異なるのだ、とも。

 エリカもスマホを取り出して、ダイヤモンドの客だろうか、LINEでスタンプを次々に押している。

 両手でコーヒーのカップを包むようにして持ち、まだ熱いそれに息をかける。

 譲さんの「自慢」の方法が、わたしには、まだ理解できない。それを聞いた日からずっと、わたしはその不思議な方法について考えていた。彼の「自慢」――彼の言葉で言えば「寝取られ」となる――は、わたしを他の男性に抱かせる、というものだった。他の男に抱かせることに、彼は性的な興奮を覚える。

 それは理解しがたい感覚であると同時に、今まで抱いていた彼の不可思議な感覚に合致していた。と同時に、あの日わたしの行動を止めなかった彼の様子にも説明がつく。

 そう考えると、彼の告白は、わたしが求めていた答えに相違なかった。そしてそれは、わたしの「行為」についての考え方と大きな矛盾はない。わたしにとって「行為」はあくまで「行為」であって、それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、わたしは譲さんと「行為」ができる。「愛」や「恋」といった感情なしに。まぁくんと唇を重ねても違和感がなかったのも、譲さんと「行為」ができるのと同じことだ。けれど――。

「ほな、そろそろ行こか」
 いつの間にか、LINEのメッセージを送り終えたのだろう、エリカが立ち上がって、わたしを不思議そうに眺めている。

「ああ、そうやった。そろそろ次の講義やんな」

 譲さんのことを考えていた自分をごまかして、慌てて食べたものを片づける。講義棟に向かうエリカを追いかけるようにして、わたしは小走りに駆けた。

(続く)

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