【小説】愛の稜線【第10回・最終回】#創作大賞2023
「ナ、ナオミちゃん? どしたん?」
電車の中で、「今から行く」とLINEした。「わかった」と返事も来たが、どんな用事なのかはわからなかったようだ。
マンションのチャイムを鳴らし、部屋に入ると、スウェット姿の譲さんが、わたしの姿を見て声を震わせた。久しぶりに見る彼は、少し頬がこけ、痩せた様子だ。
「LINEで写真送ってきたでしょ、サンタコスのやつ。あれ、親に見られた」
コートを脱いで、座りなれたソファに座る。
譲さんのせいだ、あんな写真を送ってくるから――リビングでそんな写真を見ていた自分のことは棚に置き、そう考える。そう、悪いのはすべて譲さんなのだ。
「親に見られたって、それはまずいんちゃう?」
譲さんは広いリビングをぐるぐると歩き回る。
「えらいまずいわ、あんな写真送ってくるんやもん。親カンカンや」
「お父さんとお母さんは何て?」
「誰に撮られたんやって言うから、『彼氏』って言うといたわ」
「そら、そらぁ、パーティーとは、言えへんよな、ナオミちゃん」
「当たり前や。そんなん言うたら殺される。せやから『彼氏』いうことにしたんやけど……」
口を噤む。譲さんは歩きながら、爪を噛んだ。
「それで、納得してくれたん?」
「納得するわけないやん。彼氏連れてこいって、えらい剣幕や」
譲さんはため息をついた。
「そしたら、俺が『彼氏』いうことで、挨拶行ったらええんやろか」
小さな声で、語尾は消え入りそうになっている。
「そうしてもらわんと、どうにもならんわ」
あんな写真送ってくるんやから、と付け加える。
「けど、会っただけで、納得してくれるやろか」
譲さんは少し痩せた顔で、下を向く。
たしかに、譲さんを会わせたところで、親が納得するとは思えない。歳の差もある。しかも、あんな写真を見られた後だ。
譲さんはソファの端にちょんと腰をかけ、苦しそうな顔で何やら考えている様子だ。
わたしも思案する。どうすればあの二人を納得させられるのか――その時、ふっとある考えが頭を掠めた。わたしが自由にいられるために、そして、安穏と暮らせるために――わたしは口を開いた。
「じゃあ、『結婚する』って言えばいいんじゃない?」
譲さんはポカンと口を開けた。
「そんなん言うて、結婚せえへんかったら、そっちの方が大事になるん違うか?」
「せやから、ほんまに結婚したらええやない」
「ナ、ナオミちゃん、どういうことや?」
「結婚したら、丸く収まるやない。違う?」
「そらそうやけど……ナオミちゃんはそれでええんか?」
「そうやね……わたしかて、普通の『結婚』は、わたしらには合わへんと思う」
注意深く、わたしは言葉を選ぶ。ひらめきを現実にするために。
「せやから、わたしらなりの『結婚生活』を送ったらどうかなって思ったんよ」
「それって、どういう生活や?」
「前みたいに、二人でご飯食べたり、エルドラドに行ったり」
そう言うと、譲さんの顔は紅潮した。
「前みたいに戻れるいうこと?」
「ただし」
顔を緩ませる彼の顔を見ながら、声を出す。
「ただし、前みたいに嫌な思いはしたくないねん、わたしは」
予想通り、譲さんは大きくうなずく。
「せやからね」
わたしは「結婚生活」の条件を続けた。
「遊ぶ」相手も、状況も、わたしが選ぶこと。譲さんがそれに口を出さないこと。ただし、わたしの「遊び」は譲さんに逐一報告すること。そして、わたしが許可した時には、そこに譲さんが参加したり、撮影してもかまわないこと。
譲さんはわたしの言葉に、いちいち頷き、顔を赤くしたり青くしたりした。
「そ、それは、その条件やなかったら、俺と結婚できへんいうこと?」
頷いて返す。
「けど、その条件を守ってくれたら、前みたいに戻れると思うんやけどな」
首をかしげながら、そう言って彼の顔を見る。
「もしその条件が嫌やと言ったら?」
「結婚も、譲さんとこに戻るんもナシや。親には別れたって言う」
「親にそんなん言うんはまずいやろう」
譲さんは慌てたように言う。
「せやかて、条件呑まれへんのやったら、仕方ないやない」
「呑まへんとは言うてないやないか、ナオミちゃん」
「呑むとも言うてないやない」
彼の喉は上下する。
髪をかきあげて、指で漉く。それは彼の好きな動作の一つだった。横目で、彼の様子を伺う。
しばらくすると、
「わかった。条件は呑む」
という低い声が聞こえた。
「ほんまにええの?」
彼は頷く。
「後悔せえへん?」
「せえへん」
答えを聞いて、まるで勝負に勝ったような、奇妙な達成感が沸いてくるのを感じた。これですべてが解決する――ふとしたひらめきだったのに、それがこんな形で身を結ぶということに、わたしは笑い声を上げそうになった。咳払いして、それを鎮める。
「そしたら」
とわたしはスマートフォンを取り出した。
「お父さんに電話するわ。途中で代わるから、挨拶だけして」
「何て言うたらええやろう?」
「今度挨拶に行きますってだけ言うたらええんちがう?」
譲さんは頷いて、手の汗を拭うのか、しきりと両手を膝のあたりでこすった。
「……もしもし、お父さん?」
コール音があってすぐ、父の声が聞こえた。呻くような声で返事をしている。
「今、彼氏とおるんやけど、電話で挨拶したいって言うてるから」
言うだけ言って、譲さんに代わる。
彼は、自分の名前を名乗り、
「挨拶が遅れました」
と謝罪する。そして、改めて家に挨拶に行きたいと丁寧に話した。
どうやら父も納得したらしい。
電話を代わると、いつも通りの穏やかな父の声が聞こえた。
「ちゃんとした人やないか」
「うん、そうでしょ」
「そしたら、また日程決めんとな」
「わかった」
通話終了ボタンを押す。これで、しばらく母の怒りは回避できるだろう。
「ナオミちゃん」
譲さんは、母犬に縋る子犬のような表情でわたしを見る。
「これでよかったやろか?」
疑問は、父に対する対応に対してなのか、「条件」付きで結婚することに対してなのか――それでも、わたしは笑顔を向けた。
「よかったと思うよ。これで、前みたいに仲良くできる」
そう言うと、彼はほっとしたように肩の力を落とした。
手が伸びてきて、引き寄せられる。息が詰まるほどぎゅっと抱きしめられてから、わたしたちは唇を重ねた。
「ナオミちゃん、今日は泊まっていくか?」
「それは無理やわ。そんなんしたら、『彼氏』の家に泊まったってことになってしまうやないの」
わたしはそう言って、ポシェットとコートを拾い上げる。
終電にはまだ間に合う。それとも、彼に車で送ってもらおうか。
考えている目の端に、うなだれる譲さんの姿が映った。
「どうしたん? これで前みたいに戻れるやない」
「そやかて、ナオミちゃんが帰ってしもたら、寂しいやないか」
手を握ってくる。
「あほやなぁ、譲さん。今日はあかんけど、すぐに泊まりに来るやん」
それでも、彼はまだうなだれている。
「それに、これからは一緒に暮らせるんやない」
そう言うと、彼は顔を上げた。
「そ、そうやな。結婚するんやもんな」
彼は迷いを払うように頭を振って、大きく頷いた。
「ナオミちゃんとずっと一緒や」
自分の顔が緩むのがわかる。物事がこんなに自分の思い通りに運ぶのは、はじめての経験だった。
「そしたら、また、すぐに来るし」
譲さんの頬に唇をつけて、玄関に向かう。手を振って、扉を出る。
エレベーターに乗ると、堪えていた笑いが、全身から溢れた。
※
「ナオミちゃん、今日から大学やろ」
肩を揺すられ、眠たい目をこする。起きあがると、譲さんは、すっかりスーツに着替え、ビジネスバッグの中身をなにやら入れ替えている様子だ。
年始早々、譲さんはわたしの自宅に挨拶に訪れた。結婚することを告げ、籍を入れるのを待たず、すぐにわたしは彼のマンションに越してきていた。
文句を言いそうな母を黙らせるため、わたしは父を喫茶店に呼び出して、譲さんがいかに「金持ち」なのかを、挨拶前に説明しておいた。
彼の年齢を告げると顔をしかめた父だったが、彼から細かく聞き出した情報――マンション以外にも現金の遺産が残っていること、管理会社に任せた駐車場を二つ持っていること、会社員としてはそこそこの年収があること――を伝えると、もう文句は言わなかった。
それまで何か言いたげだった母も、父から情報を聞いた途端、態度を変えた。しきりと「いいご縁やわ」と繰り返すようになった。
昨日までは大学が冬期休暇だったから、昼まで寝ていられたが、今日は朝からエリカのピアノ伴奏の譜めくりを頼まれている。そろそろ起きなければ、それに間に合わない。
わたしはパジャマの肩にフリースをひっかけ、台所に向かう。譲さんが朝食を食べたときに用意されたコーヒーサーバーに、まだ暖かいそれが残されている。わたしはカップにコーヒーを注ぐと、ゆっくりとそれを啜った。
「ほな、ナオミちゃん、俺、先に出るから」
「うん」
「愛してる」
家を出る時、譲さんは決まってそう言うと、キスをする。一度顔を上げてから、またカップに顔を落とす。玄関の扉が開閉し、施錠する音が聞こえた。
コーヒーを飲みながら、歩きまわる。譲さんはパンを食べたようで、その香ばしい香りが残っているが、流しには使った皿やカップは見当たらない。それらは、いつも通り、きちんと食洗機にセットされている。
一緒に暮らす前からわかっていた事だが、一人暮らしの長い彼は、自宅で家族と暮らしてきたわたしよりも、きっちりしていて、家事もできる。
コーヒーを飲み終えると、カップを食洗機に入れて、洗浄ボタンを押す。
想像通り、いや、想像していた以上に、譲さんとの暮らしは快適だった。
クローゼットから、今日の服を取り出す。下はGパンだが、上はピンクのオフショルダーのニットにする。少しでも色気のある格好の方が、「ナオミ」らしいと考える。
そう――譲さんは、あとは届けを出すだけといった、この段階になっても、わたしを本名で呼ぶことがない。最初は違和感がなかったわけではない。けれど、「ナオミ」だからこそ、わたしは彼にここまで譲歩させた結婚生活を送れるのだ。
引っ越してからもわたしは他の男性との「遊び」を止めなかった。それが終われば、その「遊び」の内容を譲さんに細部に渡って伝える。譲さんは不満そうな表情を見せることもあったが、言葉でそれを漏らすことはない。
「ナオミ」が虚構の存在であるというのならば、虚構を生きるのも悪くない。
顔を洗い、丁寧に化粧をする。ガラガラだった洗面台は、わたしの化粧品で溢れるようになってきた。丁寧にマスカラを塗り終えると、ホットカーラーで髪をセットする。「指輪はいらない」と言ったら買ってくれた、オメガの時計を腕に回し、支度は完了だ。
ポシェットには、お小遣いが入った財布が入っている。ヒールの高いショートブーツを履いて、コートを纏い、鼻歌を歌いながら玄関の鍵を閉じる。
譜めくり以外にも、大学には用事があった。住所の変更や、定期の区間変更を行わなければならない。
電車を乗り継いで、大学に向かう。
大学では、音楽棟のソファで、スマートフォンを眺めながら、エリカを待った。今日誰かと「遊ぶ」のも悪くはない。
「ごめん、待った?」
息を切らして、エリカが走ってくる。レッスンがあるためか、ニットのワンピースにパンプスという大人しい格好をしている。
「待ってないよ。レッスンそろそろ?」
「うん。もうすぐ」
緊張しているのか、彼女の顔は少し強ばっている。ヴァイオリン専攻の先輩と合流し、レッスン室に向かう。
フランクのヴァイオリンソナタ・イ長調の第四楽章は、ピアノとヴァイオリンがメロディーを掛け合う、優しい曲だ。家で練習してきたのか、エリカのピアノ伴奏は、落ち着いていて、急な代役とは思えない。
わたしも目を凝らして楽譜を追いながら、エリカが頷くタイミングでそれを繰った。
レッスンでは、何度も同じところが繰り返され、その度にヴァイオリンの音色は少しずつ変わる。他の楽器のレッスンに、譜めくりとはいえ、参加するのは始めてだ。演奏しない気楽な立場で、その珍しい光景を楽しむ。
最後に通しで弾いて、講師のアドバイスを聞く。三十分に満たない時間で、あっけなく、それは終わった。
解放されたエリカは、ほっとした表情だ。
「これから授業ある?」
「午後までないよ」
答えると、自然に、足はカフェテリアに向かった。
「けど、意外やったわ」
カウンターでコーヒーを受け取りながら、エリカは言う。
「そう?」
「だって、譲さんとは別れたって、言うとったやん。せやから、急に結婚とか聞いて、驚いた」
大学が冬季休業に入るまでは、譲さんとの関係が、こんな風に進展するとは思っていなかった。どちらかといえば開放感を感じながら、エリカには別れたことを伝えていた。結婚することになったとLINEで伝えたのは、引っ越しがすっかり終わってからだった。
「わたしもこんな風になるとは思ってなかってんけどな」
熱いコーヒーを飲みながら、本心で言う。
「やっぱり、相性が良かったってことなんかな」
エリカはそう言って、カップを両手で包む。
相性――そんな風にわたしたちの関係を語っていいものか迷う。けれど、同意を示すように、わたしは笑顔を返した。
「結婚」はエリカにとって興味を引かれるワードらしい。質問され、答えていると、あっという間に昼食の時間になり、カフェテリアの席は埋まり始めた。
バッグで席を確保して、パスタランチを注文する。席に戻ると、食事しながら、今度はエリカが自分の近況を語り始めた。
ボランティアサークルの男性と付き合い始めたこと。彼が嫌がるから、ダイヤモンドでのバイトは辞めること。代わりに、時間が少し自由になる二回生になったら、会計事務所でのインターンをはじめること。
「エリカが会計事務所って、なんか意外やなぁ」
「週二くらいでな、インターンシップできるとこ探してんけど、そこしかなかってん」
きっとそこでの経験も、就職活動での「ガクチカ」に書けることだろう。
「結婚するんやったら、就職活動とかはせえへんの?」
「今のところそのつもり」
エリカはええなぁ、と羨ましそうに相槌を打つ。
食事が済むと、エリカはつきあい始めた「彼氏」のグチを言い始めた。アルバイトにまで口を出すこと、連絡をこまめに取らなければならないこと、真面目すぎて融通がきかないこと――けれど、それらは最終的に、のろけに変わっていく。
弾んだ口調で「恋愛」を語るエリカを目にして、以前はこういった話は劣等感を持って聞いていたことを思い出す。エリカのようには生きられない――それは、絶望に近い色合いがあった。
だが、今は、もう、そんな劣等感を持つ必要はない。「虚構」を生きると決めてから、わたしはこういった話を穏やかに聞けるようになっていた。
エリカが望むよう、えーっと驚いた声を出したり、深く頷いたりする。時には、して欲しそうな質問をする。
「なんか、変わったな」
とエリカは急に真顔で私の顔を眺めた。
「え、そうかな?」
「うん。穏やかになったっていうか……やっぱ、結婚する余裕なんかな」
「やめてよ」
笑いながら、「女子大生」らしい会話を続ける。
例えるなら、異国の話をしているようなものだ。名も知らぬ国の伝統芸能に興味を示す日本人が、どれだけいるだろう。それと同等に自分には関係のない話だからこそ、劣等感なしに、エリカの話を聞くことができる。
練習室で練習をするというエリカと別れ、変更手続きのため、学生課のある棟に向かう。歩きながら、ポシェットからスマートフォンを取り出す。「ナオミ」のLINEには、数多い男性からのメッセージが着ている。一つ一つそれを眺めながら、わたしは自分の気持ちが満たされていくのを感じる。誰かと遊んだなら、それをまた詳しく譲さんに話して愉しもう。
たとえ本名でわたしを呼ぶ人がいなくなったとしても、「ナオミ」が虚構の存在であったとしても、構わない。もしそれが虚構だとしたのなら、それを味わい尽くすだけだ。
学生課で変更手続きの紙に記入しながら、わたしはLINEの返信をしていく。
楽しいことだけを考えればいい――手続きが終わると、私は棟の外に出て、空を眺めた。冬の済んだ空気が、空を一層青く見せる。
風が、髪を流す。コートの襟をかき合わせ、わたしは足を動かした。
(了)
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