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【小説】あしたの祈り【第1回】#創作大賞2023

<あらすじ>
米山真樹子は大学を卒業し、四月、大阪府北部の中学校で教員として働き始める。厳しい家庭環境に育つ生徒たちに向き合う真樹子は、教員としての自信を持てずにいる。
生徒一人ひとりに関わるうち、真樹子は、不登校の生徒、鈴木美晴の家庭環境に違和感を感じ始める。美晴は母親が面倒を見てくれていると言うのだが、その母親と連絡がつかないばかりか、生活の実態が掴めない。
 真樹子は美晴と関わっていく過程で、真樹子は彼女が障害のある弟・秋生の面倒をよく見る「いい子」であったことを知る。そして、美晴たちがネグレクトされているのではないかと疑念を深めていく。

 ビニール袋の内側には油が浮かんでいた。チーズの乗ったパンや砂糖がまぶされたドーナツなどがいくつも乱暴に詰め込まれている。米山真樹子は、そのビニール袋に浮かぶ油を眺めた。

「で、あんたが担任?」

 投げかけられた声に、真樹子ははっとして相手を眺めた。四十代くらいだろうか、腹の出たパン屋の主人は、胡散臭い物でも見るかのように、真樹子を上から下に見た。

 はい、となんとか返事はしたものの、真樹子は自分の頬が熱を帯びてくるのを感じた。

 始業式の今日、初めて生徒に接したばかりで、真樹子には教師としても担任としても実績がまだない。

 おまけに、着慣れないスーツに身を包んだ真樹子は、身長こそ百六十センチあるものの、童顔で、二十二歳の実際の歳より若く見られることが多く、下手をすると十代に間違われることさえある。

 中学生の担任をしているようにはとても見えなかったのだろう。真樹子には、パン屋の主人の目が、自分の経験のなさを見抜いているように感じられた。

「米山先生は優秀な方でして。国立大学の理学部を卒業されてすぐ、採用されましたから」

 と横に立つ紺色のスーツの立花が、取り繕うように言った。五十代の彼は背が低く、声が高く早口だ。その声の調子のせいだろうか、あまり歳の重みを感じさせない。しかし、少なくとも真樹子よりは教員らしく見えるのだろう。

 パン屋の主人は、
「へぇ」
 と興味なさげに言って、再び店の奥に目線を戻した。

 狭い厨房には調理器具や大きな袋に入った小麦粉が並び、パイプ椅子があると他には座る空間などない。真樹子と立花は身を屈めるようにして、その空間にどうにか立っているような状況だった。

「で、なんでこんなことしたんや?」

 真樹子の横に立った紺色のスーツの立花が、ため息まじりにそう言ってパイプ椅子に座る少女を眺めた。

「別に」

 立花から声をかけられた長い黒髪の女の子ーー鈴木美晴は足を組み、横を向いたまま答える。問題生徒と聞いていたからどんな容姿なのかとあれこれ想像していたが、真樹子が想像していたよりもずっと小柄な美晴は、ごく普通のセーラー服に身を包み、目だけがやけに鋭かった。立花は大きくため息をつき、ネクタイの首元をゆるめた。

「別に、ちゃうやろう。お腹でもすいてたんか?」

「は? お腹すいてるわけないし。そんなとこに置いてあるから」
 と、美晴は店の外にあるワゴンを指さした。ワゴンには、「特価品」と書かれたポップの下に、残り物なのだろう、何種類かのパンが詰め込まれたビニール袋が積みあがっている。

「盗れるかな、思って、盗っただけやし。面白そうやったから」
「お前なぁ……」

 立花が白髪頭を掻くと、店内で商品を並べていた店主が戻ってきて、
「ええ加減にしてくれるか」
 と美晴を睨んだ。

「うちは商売でやってんねん。面白がって万引きで商品持ってかれたら、潰れてまう。だいたい、あんたらもなぁ」

 今度は立花と真樹子を睨む。

「どないな教育してんねん。何が教師や。こんなんをちゃんとさせんのが、あんたらの仕事やろう」
「申し訳ありません」

 声をそろえて、立花と真樹子は頭を下げた。

 店の中は油と砂糖の匂いに包まれている。呼吸するたびに、その匂いが喉にこびりつくような気がする。真樹子は喉を動かした。

「親はどうしたんや?」

「それが……連絡がつきませんで」
 立花が言うと、
「仕事や」
 と美晴が声を出した。

「職場の電話番号はわかる?」
 真樹子が訊ねると、ふいと顔を背ける。

「このクソガキ!」
 店主が美晴の胸ぐらをつかむ。
「なめとったらあかんぞ」

 慌てて、立花と真樹子が店主を止める。

「親御さんには、この件、こちらから伝えますので」
 立花はもう一度頭を下げた。

「あんたらもなぁ、ちゃんとせーよ」
 米つきバッタのように頭を下げ、立花と真樹子はなんとか美晴を店外に連れ出した。

 団地の一角で、パン屋は郵便局と小型のスーパーに並んで立っている。団地の中のショッピングモールといったところだろう。しかし、その一角は団地の影になっているからか、午後のまだ浅い時間であるのに、どこか薄暗かった。

「鈴木ぃ、ええ加減にせえよ、お前」
 皺の多い顔をしかめて、立花が言う。

「明日、学校で反省文書いてもらうからな」
 しかし、力のない声は半ば諦めたようにも聞こえる。

「明日、待ってるね」
 真樹子がそう付け加えると、
「あんた、誰や」
 と美晴は真樹子を強い目で睨みつけた。

「さっき言うたやろ」
 立花が間に入る。

「お前、今日学校来んかったかったから知らんやろうけど、今年度の担任の、米山先生や」

 立花は、つぶやくように、俺はもう鈴木の担任じゃないんや、と続けた。

「鈴木さん、よろしくね、米山真樹子っていいます。教科は数学で……」
 真樹子の言葉が終わらないうちに、美晴は小さなショッピングモールから続く道を駆けていく。

「鈴木! おい、鈴木ぃ」

 立花が呼ぶ声よりも早く、美晴はショッピングモールを取り囲む団地の棟と棟との間を走る。散り終わった桜の花びらを踏みしめて、長い黒髪はあっという間に見えなくなった。

「あれが、鈴木ですわ」
 立花が、今日何度目かのため息をつきながら、真樹子を向いた。

「彼女が……」
「学校にはほとんど来ないから、実のところ私もよくわからんのですけどね」

 はぁ、と真樹子は曖昧に相づちを打った。

「万引きやら、喧嘩やら、何か問題を起こすと学校に連絡がきて、それで迎えに行くっていうわけで」
「ご両親は?」

「母親一人なんですけどね、とにかく連絡が取れんのですわ」
「お仕事ですか?」

「や、わからんのですよ。どうも生活保護らしいんですけどね。とにかく、夜になっても電話は出ないし、家に行っても留守やし」

 立花の話はわからないことが多すぎる。しかし、担任として美晴と一年付き合うのが大変なことだということだけは、真樹子にも伝わってきた。

「先生、これから大変やと思うけど、まあ、あんまり思い詰めんと、ほどほどに、ね」

 定年まであと数年という立花の背中を眺めながら、真樹子は美晴の狼のように鋭い目を思った。想像していたような派手な見た目ではなく、小柄な美晴は、長い黒髪と目の鋭さが強く印象に残る。真樹子には、美晴が誰も寄せ付けないような壁を身にまとっているように見えた。

 担任になったばかりの真樹子にとって、彼女とどうやって距離を詰めていけばいいかはわからない。それでも、やっていくしかない??自信は持てなかったが、真樹子は自分にそう言い聞かせた。

 真樹子が北川市立第七中学校に着任したのは、鈴木美晴が万引きをする九日前、四月一日のことだった。

 大阪府では、四月一日に、小学校から高等学校まですべての新規採用教員が一斉に集められ、任命式が行われる。

 大阪市内の大きなホールで執り行われた任命式では、教育委員会の委員長や、府の幹部職員の長い訓示があり、最後に、教育委員会の方針なのか、新規採用教員一同が直立不動で君が代を斉唱した。

 長い任命式の後に、やっと赴任校に赴くことになり、真樹子は同じ七中に着任する男性教員の浜岡とともに、梅田から私鉄で北川市駅に向かい、駅からはバスに乗って学校に向かった。

「先生、大学卒業したばっかりやって?」

 と浜岡はバスの中から景色を眺めながら訊ねた。北川市は人口約四十万人の中核市で、駅前には小さな百貨店があり、商店街が広がっている。それでも、バスを出て五分も過ぎれば、田んぼや畑が見えてきた。

「ええ、まぁ」
「優秀やな」

 いえ、と否定しようとすると、ええねん、ええねんと浜岡は制した。

 浜岡は堅苦しかった任命式の疲れを取るように、首をぐるぐる回す。百八十センチは越えるであろう身長に、厚い胸板。いかにも体育教師といった風貌で睨みをきかせば、やんちゃな中学生でもおとなしくなるように思われた。

「俺はな、ずっと講師しててん、七年目にやっと採用試験に受かって」

 教員には正規採用された真樹子ら教諭と、契約で働く講師、さらには時間給で働く非常勤講師らがいる。

 真樹子は採用試験を受けるまでそういった違いをあまり知らないでいたが、採用試験の集団面接では、長く講師をしてきた人と一緒になり、受け答えの違いに愕然とした。

 教員としての経験のためだろう、一つ一つの話に裏付けがあり、教育実習しかしていない真樹子の理想論とは重みが違う。そのため、真樹子は採用試験の不合格を覚悟していたが、運が良かったのか、なんとか合格通知をもらうことができた。

 浜岡は長年講師として働いてきたようで、それは、全く現場を知らない真樹子にとって、同じ新規採用でも随分差があることのように感じられた。

「俺な、去年までは、隣の山中市で働いててんけど」
 と浜岡は声を潜めた。

「北川市の七中といえば、えらい荒れてるって聞いて」
「荒れてる?」
 つられて、真樹子の声も自然と小さくなる。

「俺もな、詳しくは知らんけど、有名らしいで、昔っから。採用しょっぱなから、俺らも運が悪いわ」

 窓から見える景色は、市境の河川に近づくにつれ、倉庫や、規模の小さい工場が増えていく。工場の煙突の向こうには、四角い箱を並べたような団地の群が見えた。

 真樹子たちは板金工場の前のバス停で降り、トラックが多く通る国道を二百メートルほど歩き、やっと七中の正門にたどり着いた。クリーム色に塗られた三階建ての校舎は、ところどころ色が剥げ、歴史を感じさせる。屋上からは「あいさつで一日を気持ちよくすごそう」と書かれた標語が垂れていた。

 真樹子と浜岡は、校長への挨拶を済ませ、職員会議が終わるとすぐに、それぞれが配属された学年の会議に臨んだ。

 一日から十日の始業式まで、教員たちは新年度に向けた会議や、教室の設営などで、慌ただしい日々を送る。真樹子と浜岡もまた、そのせわしなさに飲み込まれるように、日々を送ることとなった。

 四月十日、始業式の前、下足入れの正面の壁に、それぞれの学年ごとに、クラスと氏名が書かれた模造紙がいっせいに貼り出される。新しいクラスを発表するのである。

 真樹子が二年生の学年主任の岩本と一緒に模造紙を広げるそばから、集まった生徒たちが名前を確認し、歓喜や落胆の声を上げた。

「毎年ね、こんな感じよ」

 五十代の岩本は背が低いわりに丸い体型で、一見するといかにも大阪のおばちゃんといった風貌だが、ちゃきちゃきと校舎内を動きまわり、学年の先生たちに的確に指示を出している。

「先生のクラスにはね、乱暴な男の子は入っていないの」
 と岩本は生徒から離れた場所で、真樹子に話しかけた。

「でも、ちょっと落ち着かない女の子が三人と、鈴木さんがいるから」
 真樹子は学年会議で出た、鈴木美晴の話を思い出した。不登校、非行行動、問題生徒??どの発言にも、明るい印象は持ちにくかった。

「でも、先生、みんなで協力するし。頑張りましょう」
 岩本は真樹子の肩をポンポンと優しく叩き、その場を離れていった。

 クラスを確認すると、生徒たちは自分の机と椅子を、元の教室から新しい教室に運び込む。階段にも廊下にもその行列ができた。

 真樹子は二階の端にある教室で、出席番号順に座席を並べるよう、生徒に伝えていった。教室の黒板には、真樹子が書いた「進級おめでとう」の大きな文字と、美術の教員が書いてくれた桜の絵が踊っている。各教室の黒板にはそんな文字や絵が並んでいたが、生徒のほとんどは黒板に興味を示す様子はなく、クラスの他のメンバーを探りあっているようだった。

 落ち着かないと言われた女子生徒たちは、名札で名前を確認するまでもなく判別がついた。三人だけ、セーラー服のスカートが短かったからである。後で指導しないとーー生徒指導担当の教員から伝えられたことを思い出し、真樹子は内心ため息をついた。

 生徒たちはクラスのメンバーとの距離を測りつつ、真樹子の方をちらちらと眺めている。副担任で、真樹子の指導教員でもある田辺という五十代の男性教員が教室に入ってくると、チャイムが鳴った。

「おはようございます。このクラスの担任の、米山真樹子です」
 真樹子が話し始めると、生徒たちは身体は他の生徒に向けながらも、真樹子の方に目線を向けた。

「先生、いくつ?」
 スカートの短い女生徒の一人?ーー藤本百合が声を上げた。
「二十二歳です」

 答えると、ええーという驚きの声や、わかーいという感想が教室に溢れた。

「そんなに若くて、大丈夫なん?」
 男子生徒の一人がおどけたように声をあげる。

「大丈夫です。私はしっかりしていますので」
 真面目に答えたつもりだったが、生徒も田辺も笑っている。

「なんかドラマで似たようなセリフあったなぁ」
 藤本がそう言うと、あったあったと同意の声が上がった。

 その後は田辺の自己紹介や持ち物の確認などを順調に終え、体育館での始業式もさしたる問題なく終えることができた。体育館に向かう途中で、三人組に声をかけてスカートを見ると、ウエストでくるくると巻き上げているだけで、注意するとそれをすんなり下ろした。もっとも、それは体育館の前に生徒指導担当の教員が立っていたのが見えたからかもしれないが。

「ま、今日のところは順調やね」

 始業式が済んで、生徒たちが下校する様子を見て、田辺が飄々と感想を述べた。田辺は物静かなものの、理科教員として、実験の指導が上手いと評価が高いらしい。数学科の真樹子とは教科が違うが、ベテラン教員ということで指導教員に選ばれたらしい。

 指導教員として紹介があったときは「僕は向かんのやけどなぁ」と言ったが、教室整備や書類の点検など、なにくれとなく真樹子の面倒をみてくれる。

「鈴木さんは欠席でしたが」
 真樹子は朝から気になっていたことを言ってみた。

「あの子は前から欠席が多いからねぇ。去年もほとんど来てなかったしなぁ」
 田辺は腕組みをした。

「近々家庭訪問せなあかんやろうけど、今日の欠席はしゃーないんちゃうかな」

「昨年はどうされてたんでしょうか?」
「うーん……指導らしい指導はできてなかったと思うよ」

 疑問が真樹子の顔に出ていたのだろう。田辺は、
「本人にも、保護者にも、連絡がつかなくてね」
 と言ってため息をついた。

 そのまま、田辺は北川市の教育委員会が開催する研修に出かけていった。
 電話があったのは、真樹子が職員室に戻って、提出された書類を確認している時だった。

「鈴木さんがね、万引きしたらしいのよ」
 電話を受けた学年主任の岩本が、真樹子のところに走ってきた。家庭には連絡がつかないのだという。

「とりあえず、行ってもらえる?」
 こうして、真樹子と、前担任の立花が、伝えられたパン屋に向かうことになったのである。

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