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スピーチ・セラピスト?!
「言語訓練専門職員」、、、これなに?
時は1988年、昭和のバブル絶頂期。サラリーマンとして6年が過ぎた頃、会社を辞めることを決めていた私は「では、何で食べていくのか?」と思案していた。芸術関係に職があるだろうか、、臨床心理士や当時脚光を浴びていた日本語教師はどうだろう、、そんな頃、仕事帰りに寄った本屋で手にした職業の本を捲っていくと、目に飛び込んできたのが「言語訓練専門職員」だった。「言語訓
勉強、バイト、勉強、、、
授業がスタートした。ワクワク、ドキドキ、、クラスの皆も目はキラキラしていた、と思う。
大学卒業以来8年ぶりの授業である。大学時代はアルバイトとサークル、合コンに明け暮れ、授業は単位取得が目的だったので座っている動機が全く違う。知りたい、学びたい、、未知の分野を、という気持ちで一杯だった。席は最前列でのかぶりつき 、教えて頂けた先生たちは現役の臨床家、助教授クラスから医師、国立大の元教授など、
初日、学級委員に立候補!
さあ、いよいよ学校がスタートした。
名古屋城から5、6分ほど、閑静な住宅街の一角にある3階建の四角いビル。一階は駐車場、二階に事務室があり、すぐ隣が教室だったと思う。狭い図書コーナー、まあまあ広いプレイルーム、個別の訓練室もあったと思う、、30年以上前のこと、記憶は定かではない。。😅
入学式を終えて教室へ。「ワイワイ、ガヤガヤ、、キャー、、」みたいな、30人以上の若い子たち?、私はその
一路名古屋へ! 軽トラ駆って…
学校を決めた32歳、その年の12月一杯で会社を退職した。8年勤めた私の会社はテレビジョンを発明した柳沢健次郎(日本人も発明したんです!)がいた会社で、私の事業部はテレビ研究所と工場があり2000人以上が働いていたと思う。当時のアメリカの国務長官だったアレクサンダー・ヘイグがヘリコプターで見学にやって来るくらいのちょっとした研究所だった。その時は、多くの職員がグラウンドに日米国旗を振って出迎えた。
もっとみる「国立障害者リハビリテーションセンター聴能言語専門職員養成課程」
さっそく、「言語訓練専門職員課程」のある、所沢の国立障害者リハビリテーションセンターへ電話をして「見学をさせて下さい」とお願いをした。今、調べていてこの長い学校名が蘇った。STになると周りは「国リハ」と呼んでいたが、正確には記事タイトルのようだ。学生は履歴書の一行にこの学校名を押し込むのに苦労したのではないだろうか、、、
1989年のGWの頃だった。丹沢山に登り山小屋に一泊。翌日爽やかな五月