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病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈33〉

 リウーのパヌルー神父に対する反発と敵愾心は、オトン判事の息子がペストによって死に至る場面において、そのピークに達する。
 老医師カステルの手によって完成された血清は、そのときすでに「もはや絶望的なほどに重篤な状態」と診断されていたオトン少年に、ある意味「実験的」に投与されることとなった。一方でリウーは、内心この血清投与に、この行き詰まった状況を打開する最後の希望を託していた。
 しかし、投与を終えてから一定程度の時間が経過しても、オトン少年の病状には何ら改善の様子も見られなかった。意識のないまま病床で苦悶に喘ぐ少年の様子を、ほとんどつきっきりの状態で見守っていたリウーだったが、この芳しくない状況に対して明らかに動揺し、普段の冷静さをすっかり失っていた。望みの綱であった血清は思うような効果を上げられず、年端もいかない少年の身体をいたずらに苦しめるばかりの現状に、彼は絶望的な思いで打ちのめされていた。カステルから病状を尋ねられ、「少しは長く持ちこたえている」と絞り出すようにして返答はしたのだが、しかしこれはどう聞いても負け惜しみのようにしか聞こえないものだった。
 そんなとき、保健隊の一員としてその傍らにいたパヌルーが、何の他意もなく「もしこのまま死ぬとすれば、むしろ長く苦しんだことになる」と、誰にともなく呟いたのだった。するとリウーは、神父の方を振り返って、キッと睨むようにさえした。パヌルーの、その正直で何気ない一言は、リウーにとってまさに図星の一撃だったのだ。

 やがてオトン少年が、長く強い苦しみの絶叫を上げはじめた。それに呼応したかのように、周囲のベッドに横たわる患者たちも、めいめいに呻き声を漏らすようになり、その呪わしい声音が病室中を重苦しく充たしていく。するとリウーは、「もう聞いていられない、これ以上ここにいるのは耐えられない」と、傍らのタルーに思わず弱音を吐いてしまうのだった。
 それからほどなくしてオトン少年は息を引き取った。それを確認したリウーは勢いよく立ち上がると、気色ばんだ面持ちで急ぎ足に病室を飛び出して行った。すれ違ったパヌルーが、その異様な様子に相手を呼び止めようとしたが、それに対してリウーは、「あの子には何の罪もなかったことは、あなたにもわかっていたはずだ」と、まるで食ってかかるように言い捨て、そしてそのまま外に飛び出して行ってしまうのだった。
 しかし、さすがに自分でもそれは八つ当たりが過ぎたと反省したのか、追ってきたパヌルーにリウーは詫びの言葉を告げた。そんなリウーにパヌルーは、自らの神父としての立場から、その信仰にもとづく言葉を用いながらも、しかしその背後にある彼個人の人間性をもって、相手へのシンパシーの言葉を投げかけるのだった。
 だがリウーは、その言葉をそのまま額面通りに、つまり「宗教的な意味合い」において受け取り、以前からある反発の姿勢を改めてパヌルーに対して示すのだった。このときのリウーにはさすがに、パヌルーの言葉の含意まで汲み取る余裕まではなかったのである。
 「罪なき者」であるはずだったオトン少年の命を、たしかに神は救いはしなかった。しかしリウーの医学もやはり同様に、このたった一人の命、具体的な「この子供」の生命を取り戻すことについては、結果として「何の役にも立たなかった」のだ。医師として、この上なく厳しい結果を突きつけられたリウーだったが、しかし彼は、けっしてそのことをパヌルーの前では認めることをしなかった。彼もまた、医学に対する自分の信念あるいは信仰を、捨て去ることはできなかったのである。

 ところで、このとき二人の間において交わされたオトン少年の死をめぐる対話の中で、結局リウーから理解を勝ち取ることができなかったパヌルーだったが、「理解しえないものをも愛する必要がある」という自らの言葉に対する回答、そしてまた、それらパヌルーの言葉に対してリウーから示された反発への回答は、彼による第二回目の説教と、その後さらに我が身を惜しみなく賭したかのような、彼自身の死に様において、強く反映されているのだと言ってよいだろう。パヌルーにおいてもこのときすでに、もはや後戻りのできない道程がはじまっていたわけである。

〈つづく〉

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