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姿を変える虚像

駅前のバーで調律師、樋口さんと落ち合った。俺の紹介で隣人宅、西岡瑞樹のピアノを調律した帰り、俺の帰宅時間と重なったので一杯ひっかけることにした。

「消音付きって聞いてなかったけど」
「消音付き?」
「ヘッドホンつけて弾けるやつ。ああいうのは専門のがいるから、俺の範疇じゃない」
「じゃあ調律できなかったんですか」
「したよ。糞面倒臭かった」
「それはすみません」

樋口さんは両切りのピースを燻らせる。

「お兄さん、元気?」
「お陰さまで、もうすっかり」
「ピアノは?早く聴きたいんだけど」
「うん、もう少ししたら、多分」

二年前、過去に兄が演奏した音源を渡して以降、樋口さんは兄を気にかけている。

「にしても大変だな、あんな子にピアノ教えるなんて」
「あ、やっぱりそうですか。中々ヘタクソですからね」
「上手い下手以前に、あの子ピアノに興味ないだろ」

西岡瑞樹がピアノに興味が無い?それはおかしい。ピアノを教えてほしいと頼み込んできたのは彼女だ。

「どうして分かるんですか?」
「分かるよ。お兄さんだって気付いてる筈だけどね」
「あの、ピアノに無知な僕に分かりやすく説明すると?」
「調律はガタガタ、楽譜は埃を被っている、ヘッドホンは安物、爪は長い、何より自分が奏でる音に興味が無い」
「じゃあ、何でピアノを習いたいなんて言ったんでしょう」
「さあ、これを機に好きになろうとしたか、何か別の目的があるか…例えば君は俺との関係をどう捉えてる?」
「関係というと…」
「知人だとか、友人だとか、仕事仲間とか、そういう言い回しで言うと」
「なら僭越ながら、友人だと捉えてます」
「あ、そう。俺は君を同志だと捉えてる。君が前衛で俺が後衛。そして今この時間は調査だ」
「余計に混乱するんですが…それは喜んでいんですかね?」
「ある意味ではね。出来事は視点によってまるで様相が違う。当然だ。鏡に映る自分の姿も、コンマ一秒で姿を変える虚像に過ぎないんだから」

思考と共にアルコールも回る。俺はヘベケレになって帰路に就いた。玄関のドアを開けると兄は「おかえり」と言った。俺は「ただいま」と言う。こういうことだろうか?そこで俺の思考は途切れた。

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