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『独学大全』を社会実践に拡張する ーーにじさんじ🌈とweb・ライティングとノート・MJとヒゲダンとみのミュージックとエンターテインメント・ゼロ年代と京アニ、ファンダム



ああ、そうだな。私もそう思う。やって後悔する方がいいなんてことをいうのは、『やってしまった後悔』の味を知らない、無責任な第三者の台詞だ。 

だけど、一番いいのは、やって後悔しないことだ。

西尾維新『花物語』(神原駿河)


独学大全を手にして約一年が経った。この本に書いてあることを実践しようとして、いくつもの手痛い失敗と、それに引き換え大きな、今までなかった体験をnoteを書く中でさせていただいた。

しかし―—実は去年『独学大全』を手にした時に、まず感じたのは「このままの生の状態では私には使えない」だった。それは、私が勉強しようとしていたのは、プログラミングの実作やカラオケ、文章、絵のようなアウトプット、五感を使い、人に働きかける実践的側面が強いものばかりだったからだ。(当然、アウトプットしないと意味がないとは考えていない。私個人の、譲れない事情である)

故に、課題はむしろアウトプットとインプットをどう繰り返すか。技法1「学びの動機付けマップ」をつくりなおしつつ、「技法4 1/100プランニング」「技法5 2ミニッツスターター」でギアをあげつつ、自分の価値観を作り上げていくか、アウトプットの質を変えていくかに懸かっていた。

読書猿さんは、人文学がそもそもある一つの分野だけではなく、横断的に諸分野を見ていく「実践知」から出て来たものだと述べて、次のように述べている。

厳密じゃない知の方が大切だと考えたのが、さっきも出てきたイソクラテスでした。イソクラテスは、プラトンの厳密知(エピステーメー)に対して、俺たちが求めるのは実践知(ドグサ)だと言うんです。確かに世の中の普遍的な法則は存在するし、そうしたものの知識は大切だ。でもそれは幾何学などの世界だけで、成立する分野は極々限られているじゃないか、と。そして実際に問題に向き合った時に、厳密知(エピステーメー)では絶対に間に合わないと言うんです。                             ――現代の政治や社会にも通じるお話ですね。                                       厳密でいつの時代も正しいような知識が得られなくても、その場所で判断をくださなければいけないことがあります。絶対正しいかは分からずとも、よりましなほうを選ぶという知があって、ほとんどの人間が生きている中では、むしろそのほうが重要なんじゃないかとイソクラテスは考えました。彼がモデルにしていたのは、ソロンなどの賢人であり政治家であるような人物でした。政治が目指すところは、いつの時代にも正しいとは限らないけれど、その時代の限定された状況で、できるだけよい問題解決をすることです。                                                          好書好日「『独学大全』読書猿さんインタビュー 学ぶとは、生い立ちや境遇から自由になる最後の砦」より
(https://book.asahi.com/article/14080904)

実践知は、その性質から必ずしも正しい判断を下せるとは限らない事項に関わる。故に、その知は実践の中に組み込まれないと、その真価はわからない。独学大全は、会読と私淑、ゲートキーパー、周辺環境のこと以外は、かなり自分自身のケアにまつわることに範囲が限定される。(ただし、当然本を読むことは時間と場所を超えて、違う世界の人の考えを共有することになる)。私の関心は、その次、勉強をして得た知見を外に出すことへの罪悪感やその倫理についてだった。勉強して得た知見は、必ず一般的な視点とは違う、その場にいる人とは違う視点を含む。

今回の記事では、私が『独学大全』に対して感じていた「物足りなさ」の正体である、「社会の実践や体験」との関係性について、考えたことをとりあえず書いてみることとする。そして、今年2月から、独学大全を読むモチベーションになっていたバーチャルユーチューバー集団「にじさんじ」を紹介しつつ、にじさんじについて文章を書く中で感じた、独学と現実のつなぎ方の課題を書き記そうと思う。この文章は私が私なりにやってみた、社会的実践の読書猿さんへの報告、である。


※ この文章は、私の実際的な問題(コロナの状況や時間の関係から図書館に行き、完璧なレファレンスを使うことが出来ない)の制限を受けている。故にここで引用していく記事や事例は、なんとかできる範囲で、この問題に対処するために考える材料となるものである。そして…この文章には明らかに、不安や自分が考えきれていない部分があり、必要のない寄り道も多い文章になっており、その部分をあえて残している。



このようなタイトルをつけておいて恐縮だが、この半年ではむしろアイデア大全と問題解決大全の方を手に取ることが多かったかもしれない


『Please Mr.Postman』は、カーペンターズやビートルズなど有名なバンドに次々にカバーされた不思議な曲。人はこの曲のように、好機や素敵なことを待つことしかできないのだろうか。



読書猿様、「独学大全」の読者の方へ ーー語る時代の倫理へ

文筆家、ゲーム作家の山本貴光さんと文筆家の吉川浩満さんは『哲学の劇場』というYouTubeチャンネルを開設。本の紹介を行っている

 例えば、人の機嫌のように変化するものを、数学やプログラムの用語である「変数」という言葉を借りて表してみる。すると、「あたし」が推しを推すことで味わっているのは、世界や自分の肉体とのあいだにある、いささか多すぎて煩わしい変数とその変化を、かたとき無効化する状態である、と捉え直せる。友人のように、推しとつきあいたいと考える人もいる一方で、「あたし」はむしろ、画面やステージと客席のあいだにある隔たりに安らぎを覚える。(中略)                                       推しを推すあいだ、こちらから推しへは、金銭を支払うという変化以外には無用の変化を与えずに、つまりは壊れる恐れのない安定した関係を維持することができる。変数を限定しているからだ。アイドル(idol)は「偶像」、古くは「幻」や「虚像」と訳される言葉だが、いささかネガティヴな響きが強い。むしろ語源にあたる古典ギリシア語のエイドーロン(εϊδωλον)が湛えていた、形やイメージ、観念(精神にあらわれるイメージ)や現れという意味こそが、「あたし」の推しのスタイルにぴったりだ。具体的に関わり合う人間ではなく、画面越しに、ステージと客席の隔たりの向こうにある、視聴覚を通じた存在であり、当の推しはもちろんのこと、誰に憚ることもなく、思うさまに我をも忘れて推しそのものになり、没入できる対象である。推しの言動を解釈し続けることは、推しの言動を、彼とは別の人間である「あたし」の意識に取り込み、推しとして世界を見るために不可欠の営みであり、生きる意味をもたらす営みだった。                 山本貴光「推しがいるということ 宇佐見りん『推し、燃ゆ』について」より引用                                                               

読書猿さんによくツイートを拾っていただき、それを励みに勉強を頑張ってまいりました。今回、この文章を書こうとしたときにまたツイートを広がっていただいたのは、かなり不思議な感覚になりました。

私の抱えていた問題は、わかりやすく言えば「ファンダム(熱狂的なファンで作られた文化)」との接し方、そして自分の中の「ファン感情」との接し方です。SNSの形で相互交流が可能になった現在、作品を発表することがだんだんとコミュニケーションのレベルに近づいてきたように感じます。独学大全であれば、「私淑」を現在、存命している人物にすることの意味を問うに近い部分があります。私淑は、本来亡くなった人、会えるわけがない人にするものですが、webの登場でかなりその状況も変質しています。

今回、話題にでてくるバーチャルユーチューバーは、ファンとユーチューバーの距離が非常に近く、さらにある種ユーチューバーに対する二次創作(つまり解釈)を行うことが事務所からも一定レベルで認められており、ファンとの交流も活発な独特の文化圏を築いています。一方で、ご存じの通り、聖典の解釈は様々な争いを招いた歴史を持っています。しかも、YouTuberの場合、アーカイブも多く残っている。

その意味で、この文章の話題は『独学大全』が発端になったものの、むしろ『ライティングの哲学』の次のステップの話かもしれません(私のやっていることが、筆者の方々を超えているという意味ではなく)。自分が出した文章との接し方や、その反応に組み込まれることを考えた時、どうすればよいのか。これから長すぎる文章を書いたので、ネタバレ気味に私の答えのうちひとつを書くと「対話主義」、相手に読まれることを想定して手紙のように文章を書くことでした。あえて、思考の途中で寄り道した部分は残してあります。


Creepy Nutsの『教祖誕生』は、北野武監督の映画を下敷きにした曲。この曲では、現代において人々の不満を救うような発言をした人は、どうしても信者たちのなかの「教祖」的なものにならざるを得ないような風潮を描いている。そしてその教祖は、いつのまにか自分が切り倒した昔の「教祖」のようになっている。非常に怖い曲であるが、一方で歴史とはこのようなものなのかもしれない。

さらに、Creepy Nutsは新アルバム『Case』で、「デジタルタトゥー」という曲を発表した。この曲は、自分を守るための言葉が,偶然ぶつかった肘のように誰かを傷つけたり、10代の頃のmixiが発掘されたり、そうした不用意な言動が全て揚げ足取られる世界に対して、「それすらも体に刻み込んで、痛みを感じて進む」ことを宣言した歌だった。私が良く見る音楽や野球は、その技芸が人本人と切り離しにくい問題に長年悩まされてきた。今回は音楽を主に引用して色々考える。推しが炎上した時に、人はどういう心構えをしておくべきだろうか?

東京オリンピックで日本代表を率いた建山義紀ピッチングコーチは、外出できない環境下で、ネット記事や野球評論家のYouTubeを思わず「見てしまった」という。5つに1つはよくわからないものがあった一方で、侍ジャパン担当の新聞記者の言っていたことは的を得ていたという。オリンピック代表のコーチですらネットの記事を見ているとなると、今回考えるきっかけになったにじさんじのような、webで活動している人がnoteやtwitterを見ている確率は、低いとは思えない。

海外でも「REACT」という番組シリーズで、アーティストがリアクションを見る番組が流行している。よくもわるくも、ウェブの時代に作者と観客の関係はこうしたコミュニケーションの組み込まれている


にじさんじの相羽ういはさんは、ボーイズユニットCuberの一人、末吉9太郎さんのこの曲をカバーされました。はっきりと注目されてまだ4-5年の文化である「バーチャルユーチューバー」の世界には、こうしたある時代の若者文化が映し出されています。


にじさんじ1期生メンバーの月ノ美兎さんは、今年エッセイ集を発表しました。この本は、友達たちとも話していたのですが、単にVtuberのファンブックというのを超えて、「現代のメディア環境の中で、創作を行うとはどういうことか」を、自らの嫉妬心や炎上と言った事象に向き合いながら、真摯に『書くことで考えた』本です。おすすめです。


ライティングの哲学とノート、そしてその倫理

B'zが歌っているように、全てを知ることはとうてい無理である。しかし人は前に進まねばならない時がある

倉下忠憲さんの『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』(星海社新書)と、千葉 雅也, 山内 朋樹, 読書猿, 瀬下 翔太『ライティングの哲学』(星海社新書)は、どちらも一般的な意味でのアウトプットに関わる本である。

『すべてはノートからはじまる』では、「第6章 伝えるために書く」にて、wikipediaなどのネットの記事も突き詰めればノートであることを説いた上で、「文章はテレパシーであり、直接私の言いたいことが相手に伝わるわけではない」ことを述べている。読む人のことを良く考えることは、相手の脳内で自分の考えている理路がよく伝わるようになる。                   他の人と考えを共有する良さは、「自他の越境が起こること」である。ブログであれば、追加情報をもらったり、同じ情報にまったく違う反応が返ってくることによって、この世の考え方の軸が複数あることがはっきりわかる。


岡田斗司夫氏は、自分のYouTubeチャンネルで、コミックマーケットに代表されるような二次創作は、今まであった作品に対する「解釈」から始まっていると述べている。その解釈を外に出すことは、実は作品に参加することと同じと述べられている。安彦良和さんは、ガンダムの本筋のストーリーに納得がいかず、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』という物語を書いていた

一方で『ライティングの哲学』は、文字通り他人に見せる文章を作るための苦難を書き記した本である。この本での問題は、「自己検閲されていない」語りをいかにして許すかという問題に取り組んでいる。アウトプットを行うことは、基本的にはどうやっても攻撃の対象になり得る。故に問題は、自分のトラウマや原体験からやってきた、半分自動的な語り、思わず出てしまう語りを許すか、である。罪悪感との戦いである。

マナー本のような存在は、罪の意識は和らげることができるが、一種の正しさへの脅迫を感じさせる。これは千葉雅也さんが取り組んできた「アンチ・エビデンス」の問題にもつながっていくだろう。


「エビデンシャリズム」とは、常にエビデンスを示さなくてはならない、とでもいうかのような「強迫的な『正しさ』の緊張感」のことだと千葉は言う。あくまでも「健全な議論にはエビデンスが必要だという『実証主義』とは区別されるべき」と前置きしたうえで、ごく些細な判断においてもエビデンスを求める姿勢を「エビデンスの配達人」と揶揄し、このような姿勢の蔓延を「責任回避の現象」だと指摘する。                                                            千葉が例に挙げるのはファッションだ。コーディネートもまた、一種の判断である。無難さから一歩踏み出して個性を表現しようとする場合、それは常に不安がつきまとう意思決定となる。                                                             太田 充胤「栄養表示だらけ「サプリメント」みたいなコンビニ食の正体」

『ライティングの哲学』『すべてはノートからはじまる』「アンチエビデンス」、この2冊の本と1つの概念は、にじさんじを見ていた私にとっては、痛切なものになっていた。

ものを書くことの始まり ーーはじめてブロックされた所から

岡崎体育の『Fight On the Web』はネット上で争う人が、実はお互い人間であることを思い出させてくれる曲

私が、後述するにじさんじについて書き続けていたのは、一年前、Discordのサーバーであるユーザーにブロックされたところからだった。

それ以前に、一回、かなり集中して書き物をしている時に、横から「モノを書くことの不安」について話しかけられ続けて、思わず強い言葉を出してしまったことがあった。その時はお相手に明確に謝罪して、物を書くときはDiscordに触らないようにした。これは反省が正常に作動したことになる。そのお相手とは今も普通に話している。

しかし、当時ブロックされたユーザーは、私に一言も違和感を告げずに突然にブロックをした。身に覚えのないことだった。これが私の悩みのタネになり続けていた。去年、私の目標は「アウトプットをしていくこと」だった。それは、何年も本を読み続けていても何も起こらなかったこと、何も起こせない自分への反逆だった。しかし、対話もない形で突然ブロックされることは、確かに安全保障上よいかもしれないが、「雨降って地固まる」形のコミュニケーションや、時間をかけた信頼関係を築くことを拒否されていることになる。これが、長い間ネットで発言をしていなかった私にはカルチャーショックだった。

インターネットは住んでいる場所や喋り方といった前情報無しに物事を見れてしまう。私の知り合いの中には、そうした匿名性にあこがれや、新しい公共性への期待を持った人もいた。

しかし、インターネットについて長い間論じて来た思想家である東浩紀氏は、ついに対面のコミュニケーションの重要性、そして「時間をかけて」「世の中と違うリズムの場所がある」ことの重要性を認識したという。故に、オフラインは否定しないものの、東氏はオフラインの交流の重要性を説く。

文字の情報は、webにおいては偶然を生みにくい。例えば『読書猿』と検索すれば、読書猿さんのように本が好きな人の情報だけが手元に来やすくなることがある程度予想される。そうした状況を脱臼するには、間違いかもしれない想定であっても想像力を働かせる、あるいは日常で偶然気になった新しい言葉を検索にいれるなどの工夫がいる。

この時代に、本を読んで育った人の進むべき道はどうなるのだろうか。


検索エンジンを工夫する、頭をからっぽにして本屋や散歩をしてみるのもあり


コミック百合姫で連載されている『君と綴るうたかた』は、小説を書く女の子が、過去の傷と向き合い続ける物語である。まだ完結していないが『ライティングの哲学』を読まれた方なら、その続きとしておススメする。

日本でタイアップなしで最も売れた曲であるミスターチルドレンの「シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌」は、恋愛の感情は「愛憎」真反対の微妙な感情であることを歌ったものだった。しかし、現代のYouTubeの高評価と低評価がくっきり分かれた世界では、その合間の感情を描くことがデザイン的にできていない


デザインの倫理 ーー人を導くことの難しさ


その次に私が考えていたのはデザインの問題である。文章もそうだが、デザインは、少なからず人を自分を思うように誘導したり、魅惑する部分が存在する。建築やコンピュータの領域では「アーキテクチャ論」と呼ばれる、「ユーザーに自由意志を持たせる仕組み」をあえて作ることの是非がすでに議論になっていた。例えばYouTubeは、自発的に作品を提出する場所を提供しているが、一方で広告などのお金にまつわる部分の多くはYouTube側に依存することになる。こうしたデザインにまつわる倫理感は「エシカルデザイン」という名前で議論され続けている。


しかし、ここでも問題が一つある。

こうした、外からやってきた「倫理」は、押し付けの規範になりかねない。故に表現にまつわる倫理感もまた、個々人が経験の中で練り上げるものになるだろう。私の場合、読書猿さんと同じく実践知の立場に立ちたい。だとすれば、失敗を許さないような倫理設計は難しい。失敗がなければ、倫理観の更新可能性はないからだ

コミュニケーションのすれ違いなど、どちらが悪いかわからない形で起こる悲劇はそこら中に溢れている。

「自由意志が本当に人間に存在するのか?」を考えながら、責任の概念を新しい形に更新しようとする哲学者に國分功一郎氏がいる。

「ぼくらの責任の論理では、意志をもって行為したことが証明できないと責任を問えないんです。だから自分の意志で選択肢から選ぶ余地がなかったと認められたら責任を問えなくなる。意志という言葉は非常に曖昧であるにもかかわらず、ぼくらはこの言葉なしでは社会を維持できないような体系をつくりあげている。ぼくらは意志と責任を一体化させた法体系を信じているんです。しかし、この意志という概念は非常に大きな矛盾を抱えています」    現代社会において、自分の意志で何かをすることはその人自身の意志が行動の出発点となることを意味する。つまり、意志とは原因や欲求すら存在しない、何もないところから何かを始めることだといえるだろう。しかし、実際には因果関係が無限に遡れるため、本当の無から意志が起こることなどありえないのだ。たとえば、あなたがいま「うどんを食べたい」と思ってうどんを食べたとしよう。それは一見意志が行動の出発点になっているように思えるが、実際はうどん特集の雑誌を見てうどんを食べたいと思ったかもしれないし、そもそも「うどん」というものを知らないとそんな気持ちは生まれえないのだから意志がすべての始まりになっているわけではない。                       (上記リンクより引用)

いわゆる「中動態」についての國分さんの指摘は、この後出てくるOfficial髭男dismやにじさんじの話に繋がっていく。なぜなら、このweb全盛の時代になり、人の意見と自分の意見が混濁するような時代においては、自らの意志を作り上げることの意味がわかりにくくなっているからだ。

責任は、「人の心の中にしみじみ感じいられて」はじめて意味がある。


Official髭男dismの覚悟 ーー誰かを傷つける悪役になりえること

Pretenderのヒットで一躍J-POPの革命児となったヒゲダンの歌詞は、はぐれ者にされた人が、周りの目線や「優しくあれば、許される」と言った甘えを振り切り、前に向かおうとする勇気の曲を多く出している。

前出の岡田斗司夫氏が述べていたように、基本的に現状に違和感を持つ人は誰かにとっては「悪役(=バイキンマン)」としてしか最初は出現することができない。そして、事実として全ての人を傷つけない表現というものは、多様な人間の前で思想を披露する場合、相手の脳内が全て読めないのだがら、考えにくい。

後述するにじさんじは、バーチャルユーチューバーの中でも「二次元」であることに、初期は違和感を抱く人が少なくなかった。キズナアイさんをはじめ、バーチャルの可能性を3D表現に見ていた人が多かったからだ。しかし、にじさんじはトークスキルや企画の面白さを持ってその批判を振り切り、一つの「スタイル」を確立した。つまり、にじさんじもまた、最初期は悪役、とまでは言わないが変な人たちとして現れていた。


ヒゲダンは、汚名を着せられようが、空気を読まずにまっすぐに言葉を放つ人を常に力強く肯定する。これは、千葉雅也氏が『ライティングの哲学』のあとがきで書いた、「何事も起きなければいいのに」というマインドを捨てて、出来事や他者に向けて書く、偶然性に賭けることと共振している。



にじさんじ ーー今を時めくYouTuber・Vtuberについて半年、独学大全と共に書いた結果分かったこと


にじさんじは2018年に発足したバーチャルユーチューバーの事務所である。バーチャルユーチューバーは、HIKAKINさんをはじめとしたyoutuberのブームの中で生まれた、2Dのキャラクターを自分の顔と同期させて話すYouTuberの一種である。

外国の動画だが、バーチャルユーチューバー自体については、この動画に詳しい


本気で遡ると、伊集院光氏の作った架空のアイドル「芳賀ゆい」にまで遡れるが、広義のVirtual YouTuberはロンドン在住の日本人であるAmi Yamatoさんが始めたとされている。そして2016年に誕生したキズナアイさんが爆発的な人気を得たことで電脳少女シロさん、輝夜月さんといった後続のVtuberが次々誕生した。

その中で「にじさんじ」は、当時は珍しい2D技術を用いたバーチャルユーチューバーとして誕生した。

最初は2018年月ノ美兎さんがその独特なサブカル知識と言葉遣いでTwitterでバズったり、ニコニコ動画でバズったことが始まりだった。その後、彼女の友達である樋口楓さん(左から三番目)がプロ歌手としてデビューしたり、勇気ちひろさんがFPSゲームのプレイヤーとして有名になり、8人だった所属Vtuberも100人を超えた。今では、所属するライバーが面白いことをするたびにTwitterのトレンドを独占するような状況が続いている。


・黛灰 ーー現実と虚構の不思議な繋がり

2020年2月に、にじさんじの事を時々呟いていたところ、黛灰くんというライバーのファンの方から、「noteを書いてみませんか?」ともちかけられたのがきっかけだった。

黛灰くんは、ラーメンズを愛するVtuberで、時々不穏な動画を投稿するのが特徴だった。特に彼自身が影響を語っていたserial experiments lainのテーマを引き継ぐように、「人によって勝手に解釈され、運命を握られてしまう自分とどう向き合うか」を、視聴者側に体感させる形で演じ切った。これは、ゲームの用語で言えば現実とゲームを融合させようとした「代替現実ゲーム」と呼ばれるものにあたるだろう。

黛くんは、一連の代替現実ゲームが終了したのち、児童養護施設に一千万円を寄付することになる。これ自体も、ある意味娯楽としてお金を払っていたものが、社会に還元されたその瞬間を見せたことになるだろう。



・葛葉と叶(ChroNoiR) ーーゲーム

今、にじさんじの放送を見るとそのほとんどは「ゲーム実況」で埋め尽くされている。従来、ゲームは一人で、あるいは友達と通信ケーブルでポケモンをやり取りするようなものに限定されていた。

しかし、2000年代後半から主にニコニコ動画を中心に、「ゲーム実況」、ゲームをやっている様子をネットで共有する文化が根付いてきた。にじさんじはそのゲーム実況者の集合体としても大きなものになり、特にFPS(ガンアクションの一種)で有名になった葛葉さんと叶くんはその第一線にいる。

独学大全の「第10章 集めた資料を整理する」を意識しつつ、にじさんじについて考えるための資料をまとめています。今後にじさんじの動画を見る時は、たまにこちらの資料を振り返りながら見ることで、新しい発見ができたらと思います。


・月ノ美兎 ーー映像


存在がカオスに包まれている月ノ美兎について語るのは、相当な困難を伴うので、「映像」に限定して書こう。月ノさんの作る映像は、友達の映像関係の仕事をする人たちがざわめくほどに、精密に構図が練られていた。こちらの動画にその技法がまとめられているので、ぜひご覧いただきたい。

月ノさんは2018年のユリイカで「オタクくんたちの裏をかきたい」と述べていた。その試みは、へそ曲がりなオタク君(私含む)の心に揺さぶりをかけ続けている。


月ノ美兎さんは、先日大槻ケンヂやいとうせいこう、長谷川白紙らに曲提供をしてもらい、『月の兎はヴァーチュアルの夢を見る』というアルバムをリリースした。

こちらのユリイカの特集に出てくるVtuberの方々は3年を超えて活躍し続けている。知り合いのVtuberに関わる人によると、Vtuberの世界は、自分の夢から逃れられない、宿痾を抱えた人が多いという。


・緑仙 ーー歌

にじさんじを語る上でもう一つ欠かせないエレメントは「歌」である。にじさんじSeeds元所属の緑仙は、これまでに歌謡曲、アニメソング、ロボアニメソング、アイドル、果てには宝塚歌劇団までありとあらゆる日本の歌を歌ってきた。とんでもなく珍しい曲を歌う度に「この人はやく音楽評論家に発見されんかいな」と思ったりする。

緑仙の活動の発端は「自分の好きを共有したい」ところからだった。だから、緑仙が歌った曲は時々原曲を探すようにしている。



・成瀬鳴 ーー演劇(声劇)

クワガタマニアの怪しげなTwitterを運営している成瀬鳴くんは去年度より、積極的に声劇同好会を開き、ライバー同士の交流を図っている。にじさんじはVtuberという特性もあって、演劇について考えている人が多い。



・健屋花那 ーー医学

健屋さんは、にじさんじライバーの中でも唯一の医療従事者として活躍している。勉強のやり方について配信をしたことも繰り返しある。彼女は、一度自分の夢をあきらめた(ぶっちゃけ言えば、あきらめきれていない)こともあり、また、医療の世界のあまりに厳しすぎる現実も真摯に伝えてくれる。


健屋花那さんは、にじさんじのクイズ番組である「にじクイ」のメインパーソナリティでもある。QuizKnock協力の元、クイズを作成することもあり、面白く見ている。


・グウェル・オスガール ーー数学と企画

Twitter上でもバズを生んだグウェルオスガールさんの企画。これは、不登校だった魔界ノりりむさんにたいして、8時間以上をかけて積分を教え込む放送だった。こちらのnoteではこの時の様子を結城浩『数学ガール』のファンの視点から語っている。



・家長むぎ ーー読書と哲学

読書猿さんからこの記事を読まれている方におススメしたいのは、家長むぎさんである。家長さんは、元々哲学の本が好きで、その解釈についてリスナーと一緒に考える配信を時々行っている。自分の言葉でいろんなことを考えたnoteを投稿されている。



Q.なぜ読書猿さんの話でにじさんじの話とかすんの? ーーA.「今起こっている出来事」と人文知を考えるため


えっ、私は読書猿さんの話を聞きに来たのに、何故にじさんじのごり押し話を聞かされなければいけないのかって?しかも、動画のURLばっかり貼って?

きちんとした理由がそこにはある。


「自分」を発信するというのは悪手だと思ってます。ごく限られた天才でもない限り、早晩枯渇する。後はファンの囲い込みと自己演出の繰り返し(実はこれは天才にも必要ですが)→逆張り炎上狙いの道まっしぐら。
(次の記事の「私小説家」の末路が、ネットで「自分」を発信している人達のそれにならなければいいのですが)。                                                           じゃあお前はどうなんだ、と問われると、できるだけ「自分」や「個性」を出さないようにしています。
これ自体は好みの問題で、自分を押し売りしてくる書物やブログや動画が好きでない(そんなのに時間つかいたくない)からなんですが。               「私」を消すと、世界全部が、人類がこれまで積み重ねてきた[知的営為]のすべてが、自分の〈持ちネタ〉になります。もちろん現時点では、そのほとんどを知らないわけですけども、可能性としては、ある。自分の貧しい経験や現有知識に限らなくてもよい訳で、この方が長続きするだろうと踏んでいる訳です。                                              質問マシュマロ「これからの時代は「自分」を絶えず発信して人を惹き付ける人がどんどん有利になっていくと思うのですが、私は小学生の頃から「自分の考え」を表現することが非常に苦手でした」より
 赤裸々告白系の私小説は、志向として反=技巧的でした。
 節を曲げて生きなければならない不満インテリである読者は、作家の〈嘘をつかなくても生きられる生活〉にあこがれたので、文章の技巧より、〈ありのまま〉に実際の生活が書いてあることを求めました。
 しかし実際の生活を技巧なしに〈ありのまま〉に書くことなら、作家でなくてもできます。私小説作家は、〈嘘をつかなくても生きられる生活〉を構成する2つの要求=嘘をつかない+生活できるの両方を満たさなくてはなりません。自分の生活を〈ありのまま〉に書くことによってずっと生活していかなくてはならないのです。
 しかし読者は残酷なもので、ただ赤裸々であることに飽きると、より強い刺激を求めていきます。
 文学上の工夫/技巧なしにこれに応えるためには、何しろ「嘘のない生活」が売り物なので、実際に生活の方をより波乱に満ちたものにするしかありませんでした。                            読書猿『なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史』より

ヨビノリのたくみさんは、真摯に数学や理科の面白さを伝える動画を作り続けている。おそらくこれが私小説家的ではない発信の形になる

お分かりいただけるように、私の見ているVtuberは、ある部分で間違いなくその「自己を発信する」職業である。

私の脳内には、ずっと読書猿さんの引用した指摘がずっと頭に残っていたし、正直言えば今でも悩み続けていた。なぜなら、現実には、個々人の事情が存在するため、全ての個性を消して生きることができる人間だけではないからだ。環境や素材、本人のどうしても譲れない意志や制約がそれを許さないことはあり得る。

将棋には、初手9六歩で始まるイレギュラーなものも存在する。この手を悪手と見なすかは判断が割れる。「悪手のような」手からはじまる将棋も存在しており、それは一般的な定跡とはまた違う世界観を作り出す。そして、将棋の棋士は本番に入ってしまえば、その間は過去のデータベースに接続することはできない。また、にじさんじで人気のある麻雀は、いくら手を読み切っていても、敗北することが確率的にあり得る世界である。

読書猿さんの私小説に対する反発は、文学史をやるとよく見られる問題なのだが、おそらく私のようにネットについて考えている人間であればメディア論から慎重に再考が必要と感じている。身体性が忘れられているような感じがしてならないのだ。

(付記すると、月ノ美兎さんは、自分の方法論として逆張り」をはっきり明言したこともあるし、恐らくVtuberの外の世界から見れば、1人の謎めいたインフルエンサーにしか見えないだろう。そして、新しく出来事を起こすことの多くは、現状への反抗としてしか存在できないため、炎上の可能性は常につきまとう。)

ドストエフスキーの小説の一部は、口述筆記だといわれている

Ed Sheeranは自らの吃音について、ラッパーのエミネムのおかげで明るい方向に持っていけたことを述べている

特に演劇や歌という、自分の身体を前に推しだす職業においては、どうしても「自分を発信する」部分が出てきてしまう。この話は、にじさんじであれば、家長むぎさんのnoteに自分自身を売り込む時の罪悪感が描かれている(良いことが書かれているのだが、家長さんご本人の意向もあり、深くは掘り下げない)。「営業」という言葉が、その疚しさを表す概念になるだろう。

2020年の調査では、YouTuberやesports選手、声優や歌手といった舞台上に出ていくような職業がなりたい職業として上位に挙がっている。つまり、「自分を売り込む部分が存在する」職業が「実際問題として」なりたい職業になっていることを表す。(いないけど)娘や息子が「YouTubeやりたい」と言い出し、会社がYouTubeを始める可能性が高い時代になっている。この時に何を考えるべきかを、今のうちに考えておきたいというのが、私の動機のひとつだった。これは実践上の問題である。私が目指したい方向は研究者ではなくて、アーティストや、彼らを支援する人だからだ

私は、読書猿さんの「技巧」や「私を消す努力」に対するこだわりは大切なもの(特に、中級の壁にぶつかった、ある程度努力を継続した人に対して)だと思う。ただ、それだけでは最初の振り切りや割り切りをかき消してしまうように思えた。

知識を手に入れることは、例えばある行動が軽々しくできなくなったり、出来ないことが出来るようになったり、行動の方向性が変わることを意味する。そうしたドラマチックで怖い側面が、勉強には存在していた。そしてそのアウトプットは基本的に、やましさを抱えながらも、自分の身体を通じて、行動を通じてしか外に出せない。時にそれはスゴ本さんの紹介した『プロパガンダ』という本にもあるように、恐ろしい側面も持っている。

ひたすらナンを作り続ける生放送をした文野環さんは、インドの現地紹介をしてもらうことになった

月ノ美兎さんは、体験レポという形で雑談放送をよくやっている。人によればこれは水曜どうでしょうのような、90年代の旅番組を思い出させるだろう。

しかし、一方で、『独学大全』という本の前半部が動機付けや行動記録といった、環境面についての整理に目線が行っているように、文学も本来、魯迅『狂人日記』やマルコ・ポーロ『東方見聞録』のように、自分の身辺を綴ったものが含まれていたはずである。現在の状況下では難しいが、そうした冒険記的なあり方は、問題解決大全の『エスノグラフィー』が近いものになるだろう。

こうした知恵は、YouTuberの世界でしか顕現できない部分もあるのではないか。「~してみた」とかVlogは、うがった見方をすれば確かに自分を売り込むことなのかもしれないが、一方で、それは素直に自分が見て、面白いと思ったことを共有したいという気持ちの表れではないか

この文章では、独学大全の「私淑」「ゲートキーパー」をあえて、推しやライバーさんと間を取るための方法として紹介している。

私はこの半年の間、およそ一週間に2本のペースで、「ライバーさんについて特集をする」「ライバーさんの放送を見るための資料集をつくる」ことで文章を書き続けてきた。およそ30本の記事・20万字程度にはなっているだろう。これは、「技法12 ラーニングログ」と「技法14 私淑」、「第10章 集めた資料を整理する」の章を見て、それをゆるやかにつなげてつくった型だった。以下のようなループになる。

生放送を見る→そのライバーの面白いところに気づく→特集するため本を読み、資料としてまとめる→資料をたまに読み返すことで、自分自身もちがう景色を見に行く→自分の生活に還元したり、生放送を別の見方で見る

これを繰り返すことで、落語やメタルミュージック、歌謡曲、医学アイドルといった、自分の見たことのない世界へのスタックポイントを作ることができた。今でも自分がにじさんじについて書いた記事を読み返しながら、違う世界への知見を少しずつ再帰的に広げている。


後述するが、半年継続できた大きな理由は、にじさんじの場合ライバーと視聴者の距離が異様に近く、どうもご本人に読んでもらわないと起こりようがない怪奇現象が何回か起きたことだった。第四の壁が一瞬ぶち壊れたのである。

その近さには、時に悪い部分にもなりえる。ただ私の感覚では、資料をまとめたり、文章を書くことがどこか孤独な試みだと感じていた思い込みが吹き飛ばされたことが、本当にありがたかった(これは勘違いでもいいし、勘違いと思い込んだ方がいいのかもしれない)。リアルの友達にも「文章がうまくなった」と言っていただいた。まさかこんな形のゲートキーパーが存在するとは思わなかった。資料をまとめることも、文章を書くこともちいさくてもひとつの社会的行為だった。

人間の知性は、確かに識字能力が重要な要素ではあるが、全てが文章に規定されているわけではない。もしも実践知を考えるならば、その知識は何等かの形で上演されなければいけない。自分が傷つくかもしれない恐怖や恥を取っ払って。


「観光」という、人文学の世界ではふまじめなワードとして批難されやすい概念を、哲学的に重要なものとしてカント『永遠平和のために』の読み直しから語りなおしたのが、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』である。さらにその前の『弱いつながり』では、インターネットの検索をうまく使うためには身体の移動が大事であるとする論考を書いている。しかし、この情勢下ではなかなかそれはできなくなってしまった。

また、東氏は『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で、物語と現実を対応させる(恋愛が書いてあれば、愛や人間の関係性を考える)『自然主義的な分析』がこれまでの文学分析の主流だったが、物語は文章の中では完結しておらず、その物語自体がある環境におかれ、流通することによって違うメッセージを発することになるという立場から『環境分析』という読解法を提案した。これは後に「聖地巡礼」「観光」といった概念に繋がっていく。

物語と現実は、不思議な経路で繋がっている。

Vtuberの世界も問題がないわけではない。昔からゲーム実況をされているガッチマンさんが指摘するように、生放送でのゲーム実況は、あまりにハイペースで行われてしまえば、流行のゲームしか出来なくなったり、ストーリー性のあるゲームが消費されることがある。ここに、ゲーム制作とゲームプレイの創作のループを作り出すことができるかが、Vtuberの今後を左右するのではないか、と仮説を立てている。



『Please Mr.Lostman』『HAPPY BIVOUAC』といった、ロック史に残る名盤を出してきたバンドthe pillowsは、長年自分たちの音楽が認められず、スタイルも何度も変わるなどの苦境を乗り越えてきた。「ハイブリッドレインボウ」は、BUMP OF CHICKENの数少ないカバー曲になった。しかし、このバンドのFunny Bunnyという曲があるマンガで取り上げられ、そして色々なバンドが彼らがスタイルを変えずに貫いてきた音楽的姿勢に惹かれていたことを公言し始めている。



にじさんじを半年めぐって考えたこと、そして現代社会にも通ずること


『独学大全』の「習慣」「私淑」といった、いくつかの要素を混ぜ込んで、にじさんじについて、半年間で20万字程度の文章を書くことが出来た。しかし、これは自分自身の資料集積の意味があった一方で、自分の書いたものを外に出す訓練の意味があった。ここはにじさんじ掲示板ではなく、noteなので、ある程度思ったことを色々な形でつなげて書いてよいはずだ。


①視聴者とライバーの近さ、日常を共有していること ⇔依存度が高くなりがち 

舞元啓介さんは、2018年8月に「スポーツ実況がしたい」という夢を持ってにじさんじに加入した。最初は全く視聴者数が伸びなかったが、ラジオ番組「舞元力一」やラグビー世界大会の同時生配信を始めた頃から、徐々に固定ファンを獲得していくことになり、2年後には野球ゲーム「パワプロ」の案件を獲得したり、実際の野球実況に招待された。にじさんじを見るということは、一人の人の夢や行動が現実を変えていく様子を、配信に参加しながらドラマチックに見ることになる

にじさんじは、生放送を主体に動いているため、現実の出来事に直結してイベント事が起こる。そして、視聴者はその出来事を視聴覚全体を使って一緒に、リアルタイムに体験することになる。さらに、コメントを通じて、その放送には(必ずご本人に届くわけでないにしろ)参加することができる。これは、従来のテレビのように、こちらからは全く話しかけられない存在だった芸能人と視聴者の関係を揺り動かしている。またTwitter上のエゴサーチによって、生放送の感想についてもライバーさんは直接見に行っているようである。

※ この距離感は、ANY COLOR株式会社(にじさんじの運営会社)側も大事にしたいと公式に述べている。


しかも基本的にはアーカイブが残っているため、彼らの言動は過去にさかのぼって辿ることも可能である。こうしたドキュメンタリー性は、ネットカルチャーの新しい形である。この樋口さんのアーカイブでは、ライブが終わった直後の感想や皆の様子が語られている。ここまで直接的にアーティストと交流する文化は、私の少ない知識だと都会の文学喫茶やゲームセンターなどくらいしか思いつかない

ただ、外に目を向けるとこの「近さ」は決してにじさんじ特有のものではない。海外の有名バンドなどを見ても、ファンとの交流を積極的に図ろうとする動きが見える

このように、多数のプラットフォーム、多数のメディア業界が参加するようなカルチャーについては、1990年代からポケモンや遊戯王、そして同人文化やメディアミックスの視点から研究が行われていた。ポイントは、SNSを始め、相互に交流を行うプラットフォームの誕生ですでに作品の内容にファンの声が無視できなくなっていることである。このインタビューでは「良いファンとは何か?」について、にわかと古参、作り手の倫理が語られている

学術の世界では「在野研究」やフィールドワークを生業とする文化人類学で問題になった。『在野研究者ビギナーズ』の執筆陣の一人、工藤郁子さんの「推し研究者」に関する記事は、「ファンや推しとして研究者に近づこうとするのは、健全な批判精神を害するのではないか?」という批判が届いていた。またフィールドワークに際しては、「ある文化を語る権利があるのは誰か?」という問いが1990年代に頻繁に語られるようになった。

②ライバーの方の一つ一つの趣味や夢に対する理解が果てしなく深い

健屋花那さんは、にじさんじFesで演劇論について話す時間をもらっていた。

私は、まさかにじさんじの生放送を見ていて、まさかジェンダー論ハイデガーや贈与論の名前を聞くとは思っていなかった。にじさんじはテレビと関係の強い芸能事務所と違い、自分の好きなことに対して話すことができる時間も長い。

哲学や医学を語っている人を実際に見たことがあるかどうかで、現実の学者の方や医療従事者の方への考え方も、じぶんごとになっていくだろう。おそらく家長むぎさんや健屋さんをはじめ、バーチャルユーチューバーの存在は、いつでも居てくれる秘密基地や、昔の喫茶店のような、親密圏を作る効果を持っている。



③「人に対する二次創作」という現象が大量発生している

「ぷちさんじ」は、公式が長い生放送を見やすいように、絵をつけて切り抜いた動画

バーチャルユーチューバーは、その見た目が完全に「絵」であることから、二次創作が色んな形で増えている。発言や「歌ってみた」、にじさんじの歴史について、さまざまな物を元ネタにして、二次創作が誕生している。


にじぷよは、にじさんじのライバー同士の関係性に着目したぷよぷよのゲーム

それぞれのライバーの方が作った非公式ファンサイトも存在している。


また、逆にライバーの方が出す音源やゲーム実況も、その多くが二次創作と考えることができるものである


④インターネットがゆえの危険も多い ーー風聞とストーカー


6月いっぱいでバーチャルライバーグループ・にじさんじからの卒業、そして引退を発表していた鈴原るるさんが、6月30日に最後の配信を行いました。                                主な内容は、披露できていなかった衣装・イラストの紹介、約2年間の活動の振り返り、そして動画アーカイブの期間やTwitterアカウントの扱いなどのお知らせでした。                                                配信のなかで、卒業・引退の理由が本人の口から語られていました。いわく「果たし状なるものをいただきまして、魔界警察にお頼みしまして、対処いたしました」とのことでした。                                                                         ゆうき(KAI-YOU)「人気VTuber鈴原るるが語った引退理由 インターネット時代の悪意とメンタルヘルス」より引用                                                         

にじさんじは、活動開始の時期からどうしても色々な噂に取り囲まれたり、小さな炎上事が続いていた。起こった一連の騒動については大きく取り上げないが、個人的には、炎上事の度に私の周りのにじさんじファンの方がぐったりしたりする様子を毎回見るのは、きついものがあった。そのため、ネットの文化を見る時は、複数の趣味を持つなど、避難場所を作る必要があるだろうと感じてる。


事務所であるANY COLOR株式会社は、攻撃行為と誹謗中傷対策チームを立ち上げた。こちらはその活動報告になる


炎上や誹謗中傷について考えるための材料はこちらにまとめている

ANY COLOR社の理念 ーー「共創」ファンと共に作る新しいエンターテインメントの形

社名の由来
共創」が当たり前になるこれからのエンターテイメントには「個性」「多様性」が重要で、「個性」「多様性」で未来を描いていく存在でありたいという意味で「ANYCOLOR」と名付けました。                    (社名変更の記事より引用)

詳しくはこの記事で述べたが、「共創」という言葉は、もともと経営学とデザインの思想の間から出て来たものだった。

従来、商品を作る時は、製造元が価値があると思うモノを作り、それを提供する「価値提供の世界観」(G-Dロジック)が主流だった。冷蔵庫やテレビの発達は、提供される価値がどんどん高性能化していく過程であり、日本の高度経済成長期を支える原動力になった。

時は立ち、生活必需品は飽和し、第三次産業(サービス業)が発達することで、製品の作りすぎが発生した。提供する商品をいくら大量につくっても利益は変わらない。そこで注目されたのが、「おしゃれさ」や「くつろぎ」など、ユーザーが実際に商品を使用した時に感じる使用価値(value in use)だった。

この使用価値は、ユーザーが主観的に体験するものである。つまり、開発者側はユーザーをよく調査して、ユーザーとともにサービスを開発していくことになる。これが「共創」という言葉の含意である。価値判断や審美眼を問う批評的な目線がここでは重要になる。



ただ…ここが個人的には悩みの根源だった。価値をユーザーに見極めてもらう側面があるということは一見、自分にあった製品が出てくる側面がある代わりに、ユーザーの想像力に範囲が限定されることを意味する。しかも、ユーザーは必ずしも一人ではないため、二次創作の世界でいうところの解釈違い(俺はここがいいと思う、いや俺はここがいいと思う)の問題を避けられないだろうということだ。YouTubeの生放送やSNSは、自由にコメントを打てる場所なのである程度双方向性が前提にされた場所である。

価値判断は「趣味」の問題であり、そもそも思い込みや妄想を含むものだろう。そして、一つの価値判断(例えばYouTuberなら「好きなもので食っていく」とか)があまりに強く空気として共有されてしまうと、それは時に同調圧力として働く可能性があった。そして実際的な問題として、私の周りには、にじさんじのApex大会の開催にまつわる賛否や配信時間を減らしていくライバーに複雑な気持ちを吐露する人もいたため、①愛着を外し、ライバーから離れることができる時間を作れるようなデザイン違う意見や価値観に遭遇した時に「それは違う」と考えながらもうまく併存する知恵③摩擦をうまくアイデアに昇華するコツが必要であると考えた。おそらく、文化人類学や国際理解に関する学問が有用となる。


結城浩先生がグウェルさんの配信に見たものも、にじさんじの活動に数学指導の視点から新しい側面を見出したことになる

中世の時代、哲学は書簡のようなやりとりで行われていた。それを後世の人々が読み直すことで、対話の中で思想が紡がれる様子をありありと体感することができた。近代以降は一人の天才が思想を作っているような印象が強くなっていくが、本来は思想も対話の中でで作っていく側面があった。むろん、ルソーとヒュームの論争はかなり激しい




京都アニメーションと二次創作 ーーお互いの孤独を確かめ合うこと、そしてコミケの理念

出町柳駅につき、さっそく『たまこまーけっと』の舞台として描かれた「出町桝形商店街」を訪れた。彼の最愛の作品であるという。現地に来たのは初めてらしく、興奮してスマホで写真を撮っている。8年前、花園会館に案内した人たちのことを思い出した。彼ら彼女らも、今回の事件を孤独に受け止め、悲しみに暮れた時間を過ごしているのだろうか。
彼の足が止まった。目前には、商店街の屋根から吊られた巨大なメッセージボードがあった。事件により被害を受けた人々へ、哀悼の意を記したものだった。「私たちは皆さまが描いてきたとおりの人情と絆とで変わらずここにいます」とあった。その後ろには、作中でも印象に残った、巨大なサバのオブジェが変わらず吊られていた。                          黒嵜想「2019年8月19日」より引用

(この章についてのさらに詳しい文章はこちら

批評家の黒嵜想氏は、京都アニメーションがささやかでも力強く、作り続けてきたものは「共に作る喜び」だったと述べている。この文章は、是非、創作をされている方なら読まれて欲しい。

京都アニメーションの作品、そして日本のアニメーションの歴史は、あえて作り手の名前を伏せることで視聴者が作品の中に入って来れるように、余白を開け続けたことにあった。

ニコニコ動画に多数アップロードされた二次創作と戯れるように作られた映像、実際に存在する場所を精緻に模写して描かれた背景。それ自体が独立して視聴されることを前提にしたダンスと楽曲。京都アニメーションは、アニメに潜在的であったこの喜びをさらに顕在化させ、制作側自ら視聴者に明け渡した。                              黒嵜想「2019年8月19日」より引用


二次創作というのは、元々グレーゾーン(著作権者が暗黙の了解で許可している)のものだった。しかし、京都アニメーションの場合、むしろ「みなが共有できるように」私を消す形で、ささやかな創作を作り続けてきた

(個人的には、にじさんじの文脈を考えると視聴者と作家がひたすら戦いまくっていた『さよなら絶望先生』の存在も、特筆に値する)

 「二次創作」という言葉が指すのは、一方に顕名のオリジナリティがあり他方に匿名的なコピーの群れがある、という単純な優劣、主従の図式ではなかったはずだ。解像度を上げ捉えなおすべきは、この言葉に著される「創作」のディテールである。当然のことだが、創作物が手渡され別の人間に描かれ直される瞬間瞬間、彼ら彼女らの創作は、二者関係のなかで思い思いの継承関係をつくる、一回限りの孤独な営みであったはずだ。
 「二次」に力点をおいてしまっては、「二次創作」という言葉は、「一次―二次」という固定された二者関係を指す言葉としか捉えられない。だがこれはあくまでも「創作」という営みを指した言葉であり、力点はそこにある。たとえ模倣のための創作であっても、模倣・引用の限界を迫られることで、「彼なり彼女なりの類似」をつくってしまう。「二次創作」とは、二者関係そのものを新しく作りなおす営みを指す言葉であったはずだ。そして、アニメーションを観るという経験は、この両者の連続性を確かめることで、時間を幻視するものであったことも忘れてはならない。私たちは、無数の二者関係を通過する類似をキャラクターと呼び、ここに確かめた変容によって時間を見出している。                          黒嵜想「2019年8月19日」より引用         

『ライティングの哲学』であれば、アウトライナーや型の話と近いものがあるだろう。京都アニメーションがたとえば『たまこまーけっと』で描いた出町桝形商店街は、本物の模倣、二次創作的なものだった。しかし、その思いは現地の方に届いていた。想像力は、現実をささやかに作り出している。この想像力は、時に押し付けにもなり得る。しかし京アニは、ひとりひとりの孤独な創作活動を言祝ぐように、私を消して創作活動をつづけた。



福岡ソフトバンクホークスの柳田選手は、「憧れの野球選手は誰ですか?」という問いに、現役選手ではなく「ダイヤのAの轟雷市です」と繰り返し答えていた。同じく、テニスの錦織圭選手も、テニスの王子様の存在から大きな影響を受けたと言う。マンガのような虚構作品も、決して現実と隔絶された存在ではない。読まれて解釈されることによって新しい意味が付与されていく。


歌い手やゲーム実況も、精査が必要ではあるがこの二次創作の歴史のひとつと考えられる。



【市川孝一】「コミックマーケットは、サークル参加者、一般参加者、スタッフ参加者、企業参加者等すべての参加者の相互協力によって運営される“場”であると自らを規定し、これを遵守する。コミックマーケットは、法令と最小限にとどめた運営ルールに違反しない限り、一人でも多くの参加者を受け入れる事を目標とする」としております。表現に対する受け止め方は人の数だけあり、各人が自分で表現に触れて、感想を形作っていくことは大切だと考えています。すべての表現は、受け手の感情を揺り動かすものであり、“正の感情”を生むものもあれば、“負の感情”の場合もあります。表現を行う人たちは、自分の表現がそうしたものであるという自覚が求められると思います。一方で、表現に対し“負の感情”を抱いた人が、批判の域を超えて脅迫や暴力等により、その表現を排除しようとすることはあってはならないと考えます。それは、他者が表現を受容して自分で考える機会を奪うことになってしまうからです。                                            「“コミケの父”が残した理念 『多様性を求め、認めること』こそが“表現の自由”」より引用

この状況下で、コミケのように、ありとあらゆる多様な表現をしたい欲を持った人が集まる場は存続の危機に瀕している。コミックマーケットの初代準備会代表であり評論家だった米沢氏は、「歩く百科事典」とも言われる、在野の賢人だった。こうしたあまり表では有名ではない「アンサングヒーロー」の地道な活動で、マンガ文化は受け継がれてきた。

にじさんじにも、同人誌即売会が存在している

二次創作性のある文化は、日本であれば、複数人で歌を作り合う「連歌」も入るだろう



ファンコミュニティと評論の問題 ーー人に解釈をぶつけることの倫理、そもそもコミュニケーションは誤解を含むということ、そしてにじさんじは「冒険」できるか?


事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。

フリードリヒ・ニーチェ


黒嵜想さんの記事において問題にされたのは、二次創作という言葉が持っていた力は顕名の創作者(原作者)と匿名の二次創作者という主従関係ではないということだった。京都アニメーションの作品は、あまり原作者を前に出さないこと、そして丹念に描写を重ねていくことで、踊りや聖地巡礼などの形で作品にすっと入っていくことができる。そして、時には、二次創作の動きをも原作に取り入れる。これは、ある部分では読書猿さんの考えている「私を消すこと」に繋がっていると感じる。


その黒嵜さんにとってあまり評価できない存在がVtuberだった。その理論は正確に説明するとかなり難しいのだが、ポイントはVtuberは中の人とキャラクターがあまりに密接に結びついていることだった。つまり、YouTuberと同じく「私」を消せないことだった。つまり、作品として見ることが相当困難になる。そして、人に対しての解釈は常に波紋をよぶだろう


初音ミクは、中に人がいないという了解があるため、キャラクターをめでるもよし、音声ソフトとして使うもよし。声だけの存在であるため、二次創作をする際に気にするものが少ない存在だった

この号のユリイカで、『周回のその先に――バーチャルYouTuberの分岐点をめぐって / さやわか+ばるぼら+黒瀬陽平』『縫い付けられた声/ 黒嵜想』の2つの論考は、特にVtuberの存在意義に対して否定的だった。


どんなに弱くてもクズでも卯月軍団はおまえらを受け入れる
おれもSeedsの中で技術ない方でさ…活動する前に消費者コンプレックスみたいなのがあって…生産側に回らずに作品を見続けることが…途中で辛くなっちゃうみたいな。生産せずに、アニメとか見まくって、途中でヘラっちゃって「あーおれ、観てるだけの人間だわ」みたいな。素直に好きな作品にすら向き合えないっていうね。これね、結構消費オタコンプレックスっていうのがね、起こりうるんだよ。                                                しかも俺らみたいな界隈って二次創作とかさ、一旦漁っていると、めちゃくちゃうまい人がもう見渡す限り無限にいるから。ただ、放送している側の人から見ると二次創作とか、SSとか書いてくれる人見ると、それだけの労力をかけてくれるんだなっていうのはあるんだけど、放送している最中のモチベーションは圧倒的にコメントだから…。あのね、放送でコメントを盛り上げるっていうのもね…。それだけでもね、ものすごい貢献だから…。結局コメントないと放送できないからさ。伸びてく数字だけ見ても意味ないじゃん。だってさ、ぶっちゃけた話さ、YouTube登録者数何人とかいうけど、登録者数ってそんな減らないんだよ。大げさな話十年、二十年続けていったら、そのうち何万人かになるんだよ。多分。でも、コメントってその現状の盛り上がりだから。今盛り上がっているかどうかってのはコメントの部分で現れるから。コメントで貢献するのが、一番現状の人気につながるって思うな。モチベーションにつながるから。                                         卯月コウ「卯月コウ陰キャグランプリ」より

このように、にじさんじのライバーは才能の差の問題についてもよく考えられている方が多い

私の立場からすると、にじさんじの様子を見るに彼や2018年頃多くの批評家の考えは、外れたと思っている。ライバーの方は相当高いレベルでファンを信頼していたし、様々な困難をファンとともに潜り抜けて来た。いくつかの話についてはこれまでのnoteで言及している。

ただし一方で、批評家が指摘した問題点であるキャラと人の近さ、距離や愛着の問題がここには発生している。

例えば、善良なキャラクターの二次創作で、そのキャラを血も涙もない冷酷なキャラクターにしたとする。それは、通常のマンガであれば一つの解釈となるだろう。しかし、Vtuberの場合は人とキャラクターの距離が近い。そして視聴者とライバーの距離も近い。故に、その二次創作は原典に近い(あえていえば1.5次創作的)なものになりがちである。(ライバーさんには嫌われたくないのが人情だろう

こんな感じ。内輪ネタと言い換えてもいい。

私は、にじさんじを見ていてどちらかというと「新しい体験」や「面白いゲーム」を探していた人間だった。そして、月ノさんが年と共に「新しいことが出来なくなっていく」ことを繰り返し述べていたことに複雑な思いがある人間でもある。一方で内輪は当然、即座に否定されるものではない。

マイケル・ジャクソンは自ら企画を持ち込んでゲームを作った


Bad Appleはそもそも絵コンテと呼ばれるのにも程遠い、字コンテとしか言えないものをある投稿者が「誰か描いてくれ」と言いながら投稿したことで、ノリで本気にした人が3DCGをつけることで広がった作品だった


にじさんじのライバーたちは、アニメソングや音楽のメジャーシーン、ゲーム実況とそれぞれの界隈で活躍し始めている。一方でこれは、別の界隈の論理がもしかしたら入ってくるかもしれないことを意味する。

樋口楓さんは、「2.9次元」「どこにでもいる17歳の女子高生としての樋口楓」「(Vtuber界の)察する文化」について、自分の言葉で形にしている。


コンテンツとしての「白石麻衣」と「キズナアイ」の違い。それは、ビジュアルがリアルかデジタルか、という点と、ビジュアルと中身が一体か分離されているかどうかであろう。                                              ビジュアルがデジタルで、かつ中身と分離している。ここに、「初音ミク」と同じとは言わないが類似点を見いだすことができ、VTuberが生きる世界として、ユーザー・コミュニティの新しい形が生まれてもよいのではないだろうか。                                                                              分裂動画のなかで、彼女は「私は存在理由を見つけたいのだ」と語る。これはすべてのユーザーに投げかけるメッセージであり、存在理由を見つけるのは作り手ではなく、ユーザー・コミュニティ側に委ねられているのではないのか。コミュニティの創造力が問われている。               片野 浩一「2019.09.02 器の「初音ミク」と生身の「キズナアイ」2人を隔てる「差」の正体」より引用 

初音ミクは、「N次創作」と呼ばれる、解釈が解釈を呼び、原作とはかけ離れた所に国や様々な制約を超えていくのが魅力だった。一方で、キズナアイ分裂があまりファンから喜ばれなかったように、「中の人」の存在によって、その唯一性が強調されてしまう。

面白いと思う発見は、実は他の界隈の人から見なければわからないことも多い。さらに、「意外な組み合わせ」は大きな革命を起こす反面、それまでの関係性を壊す側面も当然ある。しかし、にじさんじは、「バーチャルの枠組みを超えて、一人のアーティストとして多くの方に認知される」ことを目標とした夢追翔くんなどを見ていると、違う界隈からの評価が避けがたい可能性が高い



 本の中にも書きましたが、創造性についての心理学研究は、次のことを教えています。
・「アイデアを生み出すことができるのは、特別な才能を持った人だけであり、自分にはそんなことはできない」と多くの人が信じていること
・アイデアなんて考え出せないという人たちを押しとどめている最大のものは、「自分はひどく間違った(受け入れられない化け物のような)考えを生んでしまうのではないか」という恐れであること
・しかし実験してみると、彼らのほとんどが何らかのアイデアを生み出すことができ、そのうちには独創的と評価されるものすら少なからず(ある実験では3割も)含まれること                                                      アイデアを生む方法(発想技法)の多くは、あえて間違えて考える方法であると、言ってもいいかもしれません。                            読書猿「2017.01.18 読書猿名義で『アイデア大全』という本を書きました。1月21日書店に並びます。」(読書猿Classic: between / beyond readers)より引用

このように、読書猿『アイデア大全』では発想技法のことを「あえて間違える方法」と呼んでいる。Vtuberが素材だと、こうした創作のアイデアだしに「推し」の感情が入ってくることに注目しよう


にじさんじでもトップの人気を誇っていた御伽原江良さんは、「やりたいことが見つかった」という理由でにじさんじを辞めることになった。人生は長く、人は時に違う道を選ぶことがある

この記事が発表された後、ルックバックは単行本版でもう一度修正されることになった。このような事件でよく話し合われるべきは、例えば一方では文学と想像力、余白を読む意味であり、一方で精神疾患を持った方のことである。しかし、「対応の良し悪し」だとか、党派性だけにこだわりすぎるとそこから新しいものが生まれない


みのミュージックと評論 ーー評論家はうざい?でもアーティストも「評論」をしている

批評とは理由に基づいた価値づけである                                   ーーノエル・キャロル(帯文より)

まず、何故批評が必要なのだろうか。一つは前述のような二次創作を作ることで作品に参加することだった。他には何があるだろう。

みのミュージックさんは、先日、戦後音楽の歴史を包括した著書を出版されたUUUM所属の音楽を語るYouTuberである。彼はノエル・キャロルや岡本太郎の文献を紹介しながら、音楽で批評を行うことの意味を確認している。例えばこの「評論家うざい!?」の動画では、岡本太郎が縄文土器のすごさを批評したことによって、世間の人がはじめてその美しさに気づき、美術史の教科書に取り入れられた例を紹介している

そしてみのさんが扱うランキング動画は、「人気」に関するものだが、これが何故安心できるかと言えば、それが「客観的事実」が載っているだけであるという。「主観的な解釈」をはっきり口に出すことは十中八九、賛否両論を起こすことになる。それは新しい価値観を提示することになるからだ。

そしてアーティストの方が創作活動をしている時、少なからずそれまでの常識に挑むことになるため、そこには少なからず批評的な姿勢も含まれる。故に「こういう考え方もあるんだ」くらいのノリで見て欲しいと彼は考えている

岡本太郎はここで「縄文土器」という資料的、歴史的にしか見られていなかったものに、「美術」の文脈から価値を見出している。こうした、違う文脈を接続できるのが批評のよさではないだろうか。


では、そのみのさんの批評に関する話を二つ、例で挙げよう。こちらの動画では、みのさんは光文社新書の本を取り上げながら、藤圭子を除く多くの70年代初頭の演歌は、ジャズの要素を取り入れた歌唱法など、日本的とはいいにくい要素も含んでいたことを示す。

演歌という用語自体も、小説家の五木寛之氏の小説が元になったのではないか、と考えられている

ニルヴァーナのボーカル、カート・コバーンは、とんでもないカリスマ性を持っていると同時に、強烈な批評家でもあった。アンダーグラウンドの精神性を大事にする彼は、産業に迎合した軟派(L.A.メタル)ではなく、硬派な音楽ではダメだという批評的なこだわりを持っていた。彼らのアルバム『Nevermind』とその一曲「Smells Like Teen Spirit」は爆発的な成功を生んだが、それはアンダーグラウンド性を大事にしていたカートに強い葛藤を生むことになった。カートは27歳で亡くなることになるが、パンクロックをオーバーグラウンドなものにした偉業は未だに伝えられている。


Guns N' Rosesのアクセルとカートは、度々争いを行っていたというが、最終的にメンバーたちは和解しあった。当然、この後、「Nirvanaのようなグランジのバンドが本物だ!」「いやガンズのようなバンドも素晴らしい」という解釈の繰り返しは今も続いている。二つのバンドとも、日本のロックシーンへの影響が巨大なバンドであることは疑いようがない。


みのミュージックさんは「作品(音楽)」と「人格やストーリー」を切り分けて楽しむ提案をする動画を出したうえで、「ファンが音楽の本質を決めることはありえない」と述べている。これもよくよく考えるべき話である。この動画のコメ欄には、「ファンが苦手だから、そのアーティストを見る度変な思い出がよみがえってしまう」という話もある。みのさんは、取り巻きのファンに対して色んな感情をもってしまったら、むしろ「アーティストに歩み寄ってほしい」という。




マイケル・ジャクソン ーー誤解は時に悲劇を起こす

アルバム『スリラー』は世界7000万枚を売り上げ、史上最も売れたアルバムとされている

マスコミ嫌いの彼が80年代中盤以降インタヴューをほとんど受けなくなったこともあり、約10年前に<ドント・ストップ・ティル・ユー・ゲット・イナフ>や、<ロック・ウィズ・ユー>を照れくさそうにはにかみながら歌っていた「素顔の」マイケルを見ることは、一般的には非常に難しくなっていた。そして、彼が「世界一有名な家」ネヴァーランドに籠るようになり、プライヴァシーを閉ざせば閉ざすほど、彼の存在とすべての行動が「理解不能のモンスター」のように扱われるようになった。90年代中盤以降、作品のリリースや露出が減ると、信憑性のない噂や、ごく一部を切り取り面白おかしく増大させたゴシップだけがばらまかれ続けた。                              この時期、インターネットが世の中に浸透し始めてはいたがまだまだ不完全なものだった。「インタラクティブ(双方向性)」という言葉が流行し、アーティストにも対話のしやすさが求められたが、様々な体験から人間不信を極めたマイケルは時代に逆行するように心を閉ざしていく。          西寺郷太『マイケルジャクソン』講談社現代新書(p202-203)

マイケルジャクソンほど、強烈なカリスマ性と共に、あらゆる噂話に囲まれた人はいなかった。

マイケルジャクソンにかけられた犯罪疑惑については、私にはとても判断できない

一方で、マクロな視点で見れば売り上げを含めて、彼が世界で一番のエンターテイナーだったこと、今もエンターテイナーの象徴であることは間違いがない。そして非常に重要なのは、マイケルほど映像が残り、行動が知られている人であっても、彼の行動や心情を確定させることは簡単にできないということである。そして、それを本気でやりたいという欲望を爆発させてしまうと、ストーカーにしかならない。ここに、有名人を見る時の倫理的な難しさが存在している。


マイケルはこっから100年 200年、よく言ってるんですけど モーツアルトとかそれからレオナルド・ダウィンチとか、ピカソとか、ああいうレベルの、すごい巨大な才能であるし、別に僕らの時代のだけの人じゃないっていうのはわかってるんですけど、やっぱり、リアルタイムで僕らの年齢はそういうニューアルバムとか楽しみにできたっていうこと、今だにありがたいことだと思っていますし、特にこれから若い人たちにも、僕もジョンレノンやマーヴィン・ゲイ大ファンなんですけど、亡くなってからファンになったので、そういう意味でも、マイケルが亡くなってからマイケルのファンになった人たちも、多いと思いますから(…)(西寺郷太さんの言葉)

Nona Reevesの西寺郷太さんは、自らもミュージシャンであり、マイケルジャクソンやプリンスなど、多くのミュージシャンにまつわる著書を書いている。この言葉は、「推しは推せる時に推せ」という言葉にもつながってくるだろう。マイケルやジョンレノンを生きている時に知った人、死んでから知った人だと、見方が変わってくる。目の前のモニターで見ている推しは、もしかしたら伝説を作っているのかもしれない。でも一方で、その人は一人の間違いもする人、なのである。(マイケルジャクソンは、ライブではミスすることも当然あった)


マイケルジャクソンは、亡くなる直前、YMOのカバーとして「Behind the Mask」をリリースした。ところで、バーチャルユーチューバーを長い文化的なスパンで見ると、一番近いのはこのPVにあるような「仮面舞踏会(masquerade)」ではないだろうか?


BUMP OF CHICKENの『Angel Fall』はマイケルジャクソンに捧げられた曲

バーチャルユーチューバーの九条林檎さんは、ファンコミュニティを作らない、ファンとの距離感をうまくとるという選択をした。彼女は「そもそもファン同士の交流や団結はコンテンツに必要なのか?」という問いかけをこのインタビューで行っている。これは、にじさんじの理念と真逆の立場になる

神秘的な作用は、作る過程を隠す・忘却することによって起こるという分析を行った本に、ロラン・バルト『神話作用』がある。

Queenに熱狂した少女漫画読者たち ーー誤解は時に奇跡を起こす

しかし、マイケルの例とは逆に、解釈がよいことを引き起こすこともある。1975年当時、批評家から酷評を受けていたバンドQueenは来日公演を行った際に、羽田空港に集まった彼らをもみくちゃにせんばかりの、2000人の日本の女性ファンたちに衝撃を受けた。『SHEER HEART ATTACK』というアルバムが出て少しブレイクしたころだった。ここから日本とQueenは相思相愛ともいえる関係となり、フレディマーキュリーは庭園を自宅に構えていたという。この来日公演の後に作られたのが『ボヘミアンラプソディー』である。実は、少女マンガ家、特に「24年組」と呼ばれる革新的な漫画家の作品には、多くのロックンローラーが登場している。

ポイントは、Queenはいわゆる硬派なロックファンに最初は受け入れられたのではなく、むしろ少女マンガや今でいうアイドルファンから人気に火がついていることである。つまり、ある種の「誤解」が良い方向にQueenのキャリアを進ませた。

Queenは『手を取り合って』という日本語の曲を作ってくれた。これは来日公演の次の年の事である。日本と洋楽のアーティストの繋がりは、ビートルズやQueenのこうした強力な繋がりがあった歴史を持っている。


David Bowieも、大島弓子作品においてよく言及されていたアーティストの一人。


イギリスのシンガーソングライターのDua Lipaは、セーラームーン風のPVを突然3日前にYouTubeに投稿した。





コミュニケーションは誤解を孕む ーー引きこもれば、誤解は存在しない。しかし……

そう見えないかもしれませんが、ぼくも嫌われるのは嫌いです。しかもかなり嫌いなほうだと思います。ひらたくいえば、自意識過剰で被害妄想の気があります。(中略)50才近いいまも悪循環を脱出できたとはとても言えませんが、ただむかしより多少賢くなったのは、「ひとはどうせなにをやってもだれかには嫌われる」という諦めに到達して、多少開き直ることができている点です。このようにいうと、いまの世の中では評判が悪そうです。おまえはハラスメントに居直るのか、と糾弾する声が聞こえてきそうです。むろんそんなつもりはない。ひとを傷つけることは最大限に避けなければならない。けれども、人間は驚くほど多様だし、相性もいろいろとある。だからあらゆるコミュニケーションには失敗のリスクがあり、それを怖れるならばそもそもコミュニケーションをしないという選択が合理的です。そして実際に年齢を重ねたひとはたいていその選択肢を選び、どんどんつまらない人間になっていく。けれども、ぼく個人はできるだけその合理性に抵抗したいと思う。(中略)本当にまずいのは、「嫌われたくない」からという理由でコミュニケーションそのものをやめてしまうことです。そして後悔しなくなることです。たしかにそうすれば短期的な心の平安は手に入ります。けれどもそのかわりに多くの可能性を失ってしまう。あなたを嫌うひとは必ずいる。しかし同じように、あなたを好きなひとも必ずいる。                                                 東浩紀「【 #ゲンロン友の声|013 】あなたを好きなひとも必ずいます」より引用

にじさんじには、学ぶことに対する敬意や自分の姿勢を持つ人が多い



冒険とおすそ分け ーー人は人を愛するために旅に出る/Adventure of Lifetime

まぁでも、結構わたくしはやりたいこととかをね、色々、やって楽しく人生をさせていただいているので、皆さんも楽しそうなものとかがあったらおすそ分けをしていただけると嬉しいなと思います。またちょっとね、みんなからB級のスポットを募りたいんだけどね。結構みんな、前メールを開設していた時はいろいろ来たんで。そこで行きたいなって思ってリスト化しているものもあるので。是非是非、みなさん、楽しそうな場所を見つけたらおすそ分けをしてください。一緒に人生やりましょう。             一緒に人生を神ゲーにしようと…思います。                                       「月ノ美兎/専門家の元で食事を4日間抜いてみた」より

この言葉は、数あるにじさんじの名言のなかで一番好きなものである。

「好きなことで生きていく」ことの弱点は、ネタ切れやマンネリに陥いる可能性があることだ。その時、人は「嫌いだと思っていた物の中の好きな部分」や「これまで無関係だと思っていたものへの挑戦」をすることになる。いわゆる味変や価値観の激変が発生する可能性があるのだ。マイケルジャクソンやQueenの歴史を見るだけでも、彼らの物語には多くの人が関わっており、恋愛のすったもんだやら、バンド内紛争やら、ライブの成功などでアーティスト像も変わっていっているのが分かるだろう。果てには、ニルヴァーナのような結末を迎える人もいる。

私は信者にもアンチにもファンチにも特になりたくない。それは、彼らが固定したテキストとかではなく、「今も生きて、悩んで、行動している人間(キャラクター)」だからだ。そして私自身、どちらかというと洋楽やJ-POPの方がオタク度も高い。

冒頭の山本貴光氏の「推し」に関する引用のように、推しを完全にブラウン管の向こう側の存在として考えることはできなくはない。しかし、SNSを前提にした双方向性コミュニケーションツールや、にじさんじの、特に黛灰くんをはじめとした考察を求める企画や、グウェルさんのような面白い企画、あるいは歌動画たちはそもそも解釈を誘発する上に、その解釈が誰に届くか想定ができない。さらにいえば、みのミュージックの項で書いたように、批評が「価値判断」だとすれば、人間はそもそも少しずつ批評をしているのではないだろうか?その、「人とずれ」をため込んだ時、そして何かにそのずれを昇華できないときに「推し疲れ」という現象を起こす。

そして、もしも推しとのコミュニケーションが避けられないと想定されるならば、実は逆に新しい可能性が存在する。例えば月ノ美兎を応援すると考えた時、普通人は月ノ美兎の作品の解釈や放送の感想を書くだろう。しかしそれを続けていると、月ノ美兎永遠解釈循環の魔境に入ってしまう。だって月ノ美兎の話なんだもの。それは月ノ美兎よ。(一応、私が月ノさんのことを書き続けていたのは、ガチ恋だから………ではなく、彼女が考察をしてよいことをインタビューで話していた部分が大きい。もしもご本人、しつこかったら申し訳ない)

にじさんじがきっかけでお付き合いを始めた方もいっぱいいるとのこと

だがもう一回だけ、月ノ美兎委員長の言葉を「解釈」してみよう。Vtuberは魅力的な存在である一方、その放送時間は長く全てを追うことはできない。しかし、例えばアンジュの放送(R-18の話注意)を見た後にピンク色の本を探しに行ったら、そこの店員さんと仲良くなってお付き合い…なんてこともあるかもしれない。

人は、にじさんじでもなんにでも触発されて、自らの「ゲーム」を新しいものにすることができる。実は、あなたの推しは、基本的にはファンたちのこともいつのまにか、推しているはずなのだ。自分が好かれることを否定する必要はない。だから、胸を張って自らの生活に帰っていけばいい。

そして…もしも現実のゲームで嬉しいことがあったり、悲しいことがあったり、推しの解釈が変わるようなことがあったら、それを推しに渡してあげてよい。ちょっとした茶目っ気や、ドジくらい、推したちは飲み込んでくれる。

これが、バーチャルな存在でありながら、人間を信頼し続けたにじさんじの人たちへの私の「応答」である。

こうした目線から考えると、シュルレアリスムはわけの分からない単語をつなぎ合わせることで、想起の力で人を旅させる術だったように思える。


Creepy Nutsの『バレる!』は、R-1グランプリテーマソング。ここには世の中に出ていったエンターテイナーが、昔作った自分のイメージに引きずられ苦悩する様子が描かれている。アーティスト本人ですら、自分がどう思われているかはコントロールしきれない。そこで詰まった時に何か新しいものをアーティストにもたらすのは、ひとつはファンじゃないか?と考えている


Creepy Nutsの『のびしろ』は、今まで反抗していた相手だった街やオトナに自分自身が馴染むこと、自分自身が大人になっていくことについて受け入れていく曲だった。時間は残酷なほどに人を変えていく。それが救いなのか、終わりなのかは誰にもわからない。


ガッチマンVさんは、専業でゲーム実況や配信で食べていきたいのならば、自分がやりたいことは「後回し」にすべきという。天才ならばやりたいことをやり続けることはできるが、それに対して普通は需要はあまりついてこない。そこで、みんなを求め続けている自分を演じつつ、やりたいことをすりあわせる必要があるという。「好きなことで生きていく」はずのYouTuberの世界にも、難しい塩梅が存在している。




もう一度人文学の問題 ーー実践知・部分的正解の時代に

芥川賞を受賞した、ピースの又吉直樹さんはYouTubeで様々な文学作品を紹介し続けている

親父:独学は、実家の太い強メンタルな者だけに許された贅沢品じゃない。学ぶことは、 自分に何か足りないところがあることを、そして、その不足を補うに足りる何かを他人が既に生み出してくれているかもしれない可能性を、前提として承認しなければ成り立たない。それに、学ぶことを続けていけば、今ある知識に積み増ししていくだけでは済まず、そのうち今まで自分が積み上げてきたと思うものの一部(時には大部分)を一旦壊してやり直さなくてはならぬ段階がやってくる。一片の謙虚さも持たずに、どうして他人が作ったに過ぎない知識を受け入れ、その中に入って行こうとすることができる? 自分より先に自分よりも(何らかの面で) すぐれた者がいたはずだと期待できないで、どうして学ぶという賭けを続けることができる? 自分が誰の教えも必要ないと思うほど偉ぶって、この世界が生きるに足り、また学ぶに足りると、どうして信じることができる?                2021.02.19 無知くんと親父さんの対話・番外編「独学者は独善に陥るしかないのか」より引用         

こんなことがありえる時代である

私が悩んでいたのは、今の世の中にある、あえていえば「素朴厳密知主義」的なものです。「webの世界を前提としてしまうならば」読書猿さんのおっしゃる通り同じものを読む人は確かに遠くにいるのですが、今度はその遠くにいるけど同じものを見ている人たちの繋がりが強すぎる時代に私たちは生きているように、体感では感じます。私がにじさんじを見ている人たちの世代だから、年代による感じ方の違いもあるかもしれません。                                           

すると、そのバーチャルなコミュニティの中で解釈が決まってしまい、場を共有した親密さを抜きに、いきなり争いが始まることもある。○○警察なんて言葉もあります。ここまで、間違いが許されないかのような強迫感がある時代もなかなかない。

相手の前提条件(何故その理路に至ったか?お相手の環境的にやむにやまれぬ理由があったのではないか?)が想像されることなく、まるで反応のようにツッコミを入れてしまう。これから、リモートワークが一般化するだろう時代に考えておかねばいけないな…という思い付きでした。音楽は、人へのファンダムと作品の評価の兼ね合いに常に悩まされており、Vtuberも同じ局面に来ているように感じておりました。そして、表現をこの時代に行う人は、ある程度の確率でこうした問題にぶつかるだろう、というのが私の見立てです。

この文章に確定した答えがあるわけではありません。しかし、「YouTuberのような誰が見るかわからないものを、全て完全に理解してもらう形で書かせるのは、できなくはないが、あまりに敷居を高くあげすぎるのではないか」というのは分かってきました。200時間を超えるアーカイブのあるライバー(ここまでくるとYouTuber一般にもある程度いえるでしょう)の、映像で提供される情報は、実は言語化も網羅も非常に困難で、感想を言うにもかなりのエネルギーがいるからです。そして、Vtuber以外の界隈の人に受け入れられる人も、徐々に出てくるはずです。

そして、独学大全1周年に、何故このようなことを書いたと言えば…私自身が書物への信仰を一度崩してやり直さなければいけない場面に来ているからかもしれません。

東浩紀氏は「娯楽性」について次のように述べます。

娯楽性とはなんでしょうか。それはひとことで言えば、こちらにふまじめにしか接してこない人間を、掴み離さない能力のことです。(entertainという単語の語源をOEDで調べると、それがかつては「客を保持すること」の意味だったことがわかります)。娯楽性のないテクストは、あるいはもっと広く娯楽性のないコンテンツは、それを理解しようというまじめな、そして気概のある受け手にしか届かない。たとえば深夜、仕事で疲れてへとへとになった帰宅の電車で思想書を開こうとしても、多くのひとにとってはむずかしいわけです。しかしミステリならば読める。娯楽性の有無は端的にそのようなちがいとして現れます。東浩紀『ゆるく考える』河出文庫(p172-173)

そのうえで東氏は、思想や批評を先端的な読者がしかめ面をして読むものではなくて、もっとお気楽で敷居の低い、マジとネタの間に存在するような、娯楽性のある特殊な消費財にすることで、思想と批評の誤配可能性(つまり、誤解されることで新しい可能性を生み出す可能性)を残すことでしか、批評を続けることはできないのではないか、と述べます。あるレベルを超えた文脈性を持った批評や、それに関する議論は、日常を生きる人々にとっては「ゲーム=見せもの」にしか見えないとも、東氏は述べています(「批評とはなにか ゼロ年代の批評・再考」『テーマパーク化する地球』)そして、あらゆるゲームは、そのルールがおおまかに決定されるために多くの観客が必要でした。ルールは、時に改訂されることがあるように、可変性です。

将棋の世界には「観る将」、つまり将棋の細かいルールは知らないけれども熱中して何かをやっている人を見に来る人々がいて、その人たちに将棋の世界は支えられている。最近では棋士が何を食べたかに注目が集まっている

評論は、小説のような作品に比べて、理論が整然としているため話のネタになりやすい。むしろ小説そのものの方が、語りにくいとも述べられています。ここの東氏の議論をどうとらえるかは難しいのですが、私は娯楽性を批評に与えることで「対話の窓口を広く構える」ことだと考えました。自分のことを完璧にわかってくれる人はいない。特に実践の問題については、理論で完璧に合致する答えが見つかるわけではない。


この本では、ミハイル・バフチンの「対話主義」から、「相手の中に自分を見る」「自分の中に相手を見る」ことによって、関係性を常に刷新していくことで、理論と実践、お互いの考え方の枠組みを変化させ続けることを提案します。

中世の哲学者はよく書簡にてその思想を練り上げていったと聞きます。それはつまり、その思想は書かれる時にもその人一人で作られたものではなかったことを意味します。各個人が独学で培った知見は、確かに有効なものかもしれない。しかし、それが実践の現場に出る時、高い確率で他の人とのズレとしてしか出ざるを得ません。そして、現代で表現する人は、インターネットを前提とした場合、かなり無数のクラスターやコミュニティに見られることを意味します。(これがコミケならば、読む人もある程度は限定ができます)

私は、ある時期、書物を読み続ければ、あるいは勉強をしていれば、何かが変わるというある種の信仰を強く持ちすぎていました。実践の場である種の無知をさらしたり、勉強のし過ぎで披露した知恵が否定されて、そしてまた本を読み直したり…といった、かなり複雑な、面倒でもある作業が現実には必要なことがわかってきました。当然感情がゆらぎ、関係が変わることがある。逆にそれがあるからこその奇跡も存在する。

独学者の学びにおいてもある程度以上高度な知識を学ぶためには、自分を作り変えながらでないと読めないような書物と格闘するなど、「わからない」ことから逃げずに挑むしかない段階が必ずやってくる。こうした本当の意味での難問に挑めば、何度もそれまでの理解を手放し、作り直す必要が出てくる。つまり、「わかったつもり」を繰り返し壊さなくてはいけない。            「わかったつもり」を壊すと当然「わからない」状態にいったん戻る。            ここで感じる、<今私は危機に陥っており無事では済まないかもしれない>という不安と恐れは本物だ。この窮状から逃げずくぐり抜けた時、あなたは確かに元のあなたではなくなっているだろう。                                                                          読書猿『独学大全』「技法53 わからないルートマップ」(p641)

時に自分が好きだったものが嫌いになり、嫌いだったものが好きになる。だとすれば、映像や歌に魅了されている私の場合、書物に対する態度がどうなるかも、もうわからない。口語のように、移ろいやすく、間違いやすいものに対しての接し方は、書物や文章とは変わってしまうから。これが、『独学大全』を読んで、色々資料をまとめたり、文章を書いたりしてみて、自分がたどり着いた一つの「わからなさ」でした。


わたしは、最初はにじさんじを何気なく見ていた人間でした。そこから、知り合いの人にVtuberについて書かないかと誘われ、その時に書いたnoteがありがたいことに黛くんのファンの方からも評価され、調子に乗りまくってそこから独学大全の資料の集め方や、アイデア大全と問題解決大全を中心に、色々な本と一緒ににじさんじを色んな角度から見て見る文章を半年書き続けました。果てにはにじさんじを批判する文章まで書きましたが、これの可否や、具体的にどのようにライバーたちを評価したかについては、各記事を読まれてください。

究極的には、資料を集めることをしているだけだったのが、そこから自分の意見ができ、ツッコミも来る一方、かなり激賞してほめてくださる方も多く現れ、知り合いには「お前自身がにじさんじみたいなものだろ」とよくわからないお言葉を頂戴したこともありました。勉強とは、それほどラジカルに人を変えるものだと体感しました。

半年、にじさんじの動画をしっかり見直したところ、彼らが自分の言葉で好きなマンガや文学、映像作品、さらには医学や洋楽に向き合い、そしてそれをファンの人とドキドキしながら共有しないと出来ないことをやり続けていることに気が付きました。これは、人文書の世界だけを見ていては気づかない世界でした。


思えば、スケットダンスは、終わりが決まっていても、それまでの期間を死ぬ気で、走り抜ける物語だった。いや、走り抜けるとか書いてるけど、正直言えば、学園の中のはぐれものだったスケット団の三人は、毎日、合コンに巻き込まれたり、山野辺先生の謎のゲーム世界大会に行って、どこか知らない国の人とカオスな専門用語の海を渡りながら戦ったり、そして、時には自らが抱える、どうしても立ち向かわなければいけない(そして重すぎる故に他の人に話せなかったりする)問題に、それぞれの不完全な人が、それぞれの武器をなんとか携えて泥まみれで戦うマンガでした。

スケットダンスや夜桜四重奏、あるいはこち亀や戦隊もの、プリキュアの世界は、一見普通の日常をキャラたちが送っているが、一方でその日常の中にありとあらゆる伏線が埋まっている世界です。そして俯瞰的にみれば、終わりの決まった関係性を生きる不完全な人々(ラスボスを倒す、卒業する)が、こだわりをぶつけ、誤解もしょーもなさも、含みこんで傷つき合いながら前に進み、時には各個人の持っていた運命をも突き崩す。

にじさんじに限らず、Vtuberはどうしても「なれ合い」の場所としての目線を向けられやすい。それは正しいのかもしれません。しかし、私には、お互いへの謎の思い込みやら妄想を抱えながらも、なんとか前に進んできた、その歩みは、スケット団とか銀さんの万事屋、こち亀の派出所のように、ギルドと敵や事件、依頼のある舞台を言ったり来たりする、まるで19時のジャンプアニメのような世界を自分たちで生き直す試みに見えてきました。



わたしはある部分で書物への信仰が壊れた人間です。本を読むことを、自分の中であまりに大きな位置に置きすぎていた。いつの間にか私は「技法1 学びの動機付けマップ」「技法55 メタノート」を書いていたようです。

これから私が行うべきは、学びのアジャイル方式化です。にじさんじやリアル世界についてのアレコレなど、現実や創作をする現場はコミックや演劇のように複雑で、時にドラマチックでした。そして「独学」は本来、学習の最後の砦、セーフティーネットとして扱われていた物でした。故に次のレベルを見るならば、これまで

本を読む(7割)→実践する→本を読む→…

という形だった実践を

実践する→本を読む(2-3割)or 他の実践を組み合わせて、自分で外部足場を作る、人と話す…→実践する…

というループにまずは組み換え、複雑化していきます。(一般的な意味の)アウトプットを想定しているため、感性や人との対話といった不確実なものが混ざるため、こうも簡単な形にはならないでしょう。大事なのは、その練り直しです。『独学大全』やにじさんじに学び、もらったことを、ある人の人生の上で上演しなおすこと。それが、変化し続ける現実を前に、もらったものと一緒に進む方法だと思っています。

読書猿さん、相当変化球な形にはなりましたが、『独学大全』をきっかけに色々な新しい景色を見ることができました。私のような思い込みの激しい、エゴの強い存在は、誰かにネタにされて笑われるしかないのかもしれませんが―—それも受け入れます。

独学大全からは、もう「離れていく」かもしれません。とかいいながらあ戻ってくるかもしれません。とりあえず今は自分の冒険を続けていこうと思います。


伝達欲というものが人間にはあり、その欲の中にはいろんな要素が含まれます。こと文章においては「これを伝えることによってこう思われたい」という自己承認欲求に基づいたエゴやナルシシズムの過剰提供が生まれやすく、音楽もそうですが、表現や伝えたいという想いには不純物が付きまといます。それらと戦い、限りなく削ぎ落とすことは素人には難しく、プロ中のプロにしかできないことなんだと、いろんな本を読むようになった今、思うようになりました。                                       作家のキャリアに関係なく、文章力を自分の欲望の発散のために使うのではなく、エゴやナルシシズムをそぎ落とすために使っている人。それが、僕の思う「文章のうまい人」です。   星野源『いのちの車窓から』あとがき

星野源は、憧れだったマイケル・ジャクソンは常にさびしそうな人だったと述べている。そのマイケルに向けて捧げた曲がヒット曲「SUN」である。↑のインタビューで彼は、いわゆる広範なオタク知識はないものの、好きになったものに対しては来歴や影響まで深く探してしまう癖があったという。                                      だとすると彼は、マイケルの抱えていた闇の部分にも気づきながら、今もゴールデンタイムのテレビに出続けていることになる。そして彼はアイマス、Serial Experiments Lain、任天堂を上げながら、現代のアーティストは自覚はなくとも、誰かのタスキを受け取っていること、それを渡していくことの大事さをインタビューで強調していた。星野源は、自分の好きなものを共有できず、苦しんだ時期が長かったという。

彼にとっての「私を消す」ことは、すべてを人にわかってもらえないことを自覚しながら、自分が好きな物を伝え続ける触媒になることだった。それが、世間にとって、どういう風に映ろうとも。


ゴールデンに出てくる、にこやかな表情の星野さんへの私の目線は、それっきり変わってしまった。2009年にマイケル・ジャクソンは亡くなっている。星野源がアルバム『ばかのうた』でソロ歌手としてデビューしたのは、2010年だった。

岡田斗司夫氏は、「オタクは萌えという言葉の登場や、電車男の登場によって、その言葉の特権的な意味を終えた」と2006年に言っていた。ある世代の人にとって、強く後ろ指を指される存在だった美少女ゲームやアニメのファンであること、オタクであることを公言することは、自分の人生をかけるレベルの覚悟が必要なことだった。そのため、ある世代の人たちは貴族主義(俺たちはオタクだからこそこんな苦難を得るのだ)あるいはエリート主義(こんなのもわからないのか、わかるべきだ)を大事にしていた。

「オタク」という言葉は、『涼宮ハルヒの憂鬱』『電車男』『ケロロ軍曹』のヒットともにオタクが一般化し、特別な意味を失った。そして、そこから岡田氏は、自分が好きだ・どうしても大事なものがここにあるというものを、正しいと言ってくれる人もいないながらも、他者に祈りながらも伝えるしかない、と涙ながらに述べた。オタク以外にも、マイナーな趣味を持っている人もいる。星野源は、世代的にこの時代の空気感を知っている可能性が高い



私が化物語の言葉をよく引用するのは、この物語が「最初からみんなが阿良々木暦を好きだったからこそ起こる悲劇」を描き続けているからである。みんないい人だった。それでも悲劇は起こり得る。


最近気づいたのは、B'zの『DIVE』と言う曲は、アンチ「二ーバーの祈り」としても解釈できることです。「変えられること」「変えられないこと」の可変度を区別する「賢さ」を、二ーバーの祈りでは求めようとします。しかし、例えばライティングを行って、ありえない幸運(不幸)がやってきた時、その「変えられること」「変えられないこと」の可変度は突然変異する可能性があります。さらに、行き過ぎた信仰は、むしろ現状の目をくらませる可能性がある。その時は稲葉さんのように「こんなんじゃいやだもん!」と叫んで飛び込む必要もあるかもしれないな、とか考えます。わたしは、にじさんじや独学大全は「港町」のようなものになるのではないかと考えています。必ずしも常にそこにいるわけではない(居続けることもできる)けど、足りないものがあったら戻ってくることができる場所。


最後に ーー Bitter Sweet Symphony, that's life


なんのことはない、私達の人生は演劇そのものだということです。

鴻上尚史『演劇入門 生きることは演じること』「第一章 演劇とは何か?」


アニメーターは立派な役者なんだよ。

『映像研には手を出すな!』(水崎氏)


Raindropsの「はじめまして」は、色々な人に向けられている。エンターテイナーを目指すということは、垣根を超えて色んな人のもとにRaindropsの曲が届けられることを意味する


劇作家の鴻上尚史さんは、人は子どもと接する時、会社に行くとき、近所の人と話す時、様々な場所で人は演技をしており、「自分じゃない人になる」ことによって、相手の立場から物を考えることができるその知恵こそが、現代に生きる人に重要ではないかと述べている。その時の台本は「社会のルール」である。

――演劇の稽古のときには、「この芝居はこうだよな」という考えを皆さんお持ちですよね。それをぶつけ合って、だんだんできてくる?                                           鴻上: 真剣になればなるほど誰かの迷惑になるわけで、誰かの真剣は誰かの迷惑なんだけど、演劇の現場というのはそれをやんないとしょうがない。我慢して1回で済むのだったらいいんだけど、演劇の稽古はひと月とかふた月とかやって、なおかつ本番もたくさんあったりするわけです。我慢してる場合じゃなくなるので、「私の迷惑をどうやって相手に伝えるか」を考えると、演劇的な能力がコミュニケーション能力につながっていくということです。                                                                                                                                     NHK 読むらじる。「鴻上尚史著『演劇入門 生きることは演じること』演劇的手法を人生にいかす」より引用

そして、ANY COLOR社の理念、SNSの仕組み、黛灰くんの試みを総合して考えると、実はにじさんじの視聴者はすでに観客としてにじさんじという演劇の一部を構成してしまっているのではないかというのが、私の考えである。そして、にじさんじについて考えてきたが、それはSNSを前提にすると、他の著名人やYouTuberの方についても、界隈によって差はあるが、ある程度まではあてはまる。今は、推しを完全にスクリーンの向こう側の存在と考えるのが難しい時代にどんどんなっているのかもしれない。私達が持っているのは、タッチパネル(つまりコントローラーそのもの)だから。


黛灰くんの動画は、「自分が視聴者だとおもっている人々を撮る」という荒業を使うことで、観客を「巻き込む」ことになった。その時の自他が溶けだす様子については、こちらのnoteにまとめてある。

お笑い芸人の陣内さんは、ウマ娘のネタとしてネットで盛り上がった「陣内ターボ」を自らやってみせた


エヴァンゲリオンの庵野監督のドキュメンタリーを見ると、いかに映画や演劇のような大きな枠組みの必要な作品が、人と人の折衝で成り立っているか、時には監督の無茶ぶりで若手がいかに苦労しているかなどが話されている。他にも岡田斗司夫氏のYouTubeでは、ガイナックス初期のドタバタが述べられている。

他にも、マイケル・ジャクソンやQueen、Oasis、BUMP、アジカン、ミスチルや椎名林檎など、色々な人の伝記を読むと、彼らほどではなくても、「Vtuberの方を追う」ことは、ある程度Vtuberたちの苦労も一緒に味わうことを私は覚悟している。にじさんじの理念と、生配信の没入度を考えると、巻き込まれが発生せざるを得ない。しかも、推しがやろうとしていることが大規模(特に映像、ゲーム制作、大規模ライブ)になればなるほど、推しの配信形式は大きな変化を被るだろう。推しの周辺状況も変わり、環境が変われば考え方も変わっていく。


レトルト、最終兵器俺達、幕末志士といった、ニコニコ動画黄金期を築いたゲーム実況者のキャリアは11年を超えて来た。このレベルの時間性のある付き合いとなると、ファンを続けるためにはどこかで自分自身の人生の中で推しをどう位置付けるかを考えるフェーズが来る可能性が高い。中学・高校で見始めたとしたら、必ずどこかで転機(卒業・入学)がある上、会社員でも転職結婚などあるだろうからだ。しかも、その間も新規流入するファンもい続けるだろう。

星野源が「恋」で示したように、大事なものは「距離」の中にあり、「幻想」の中にある。ミスチルが「しるし」という曲で示したように、「好き」の気持ちは、一緒に色んな所をめぐっていく思い出を、何回も意味付けをし直す中に存在する。思い出は、常に同じ意味を持ち続けるわけではない。

演劇の一種と捉えられるTRPGでは一応配役が決まっているものの、ある人物の役割は、突然良い人から主人公たちを惑わす悪役に、あるいは狂気度が上がりすぎて主人公たちに攻撃をしかける存在に―—というように揺れ動いていく。

その時に違いを生み出すのは、知識ロール、精神ロール、SUN値と言ったキャラのスキルや、手渡されたミッション(使命)である。現実の世界では、人は役者であると共に、自分という役者一人だけに指名を与えられる限界のあるGMである

以前私は星野源と月ノ美兎が似ていると言いました。あれをもう少し違う人の話でやってみましょう。

グッチ裕三は、ハッチポッチステーションにおいて洋楽のパロディをひたすらやり続けていました。一見すると謎のおじさんが暴れて歌いまわっているだけにしか見えません。「わかったつもり」だけならその了解だけでいい

でも、お気づきのように、この曲、ボヘミアンラプソディーは本来「殺人」の歌で、歌詞や曲調を本気で考えだすと、オペラや哲学、レッドツェッペリンなどありとあらゆるジャンルのことも考慮する必要が出てきます。そう、これは英語を知らない子供たち向けの、違う世界へのいざないでもあったのです。伏線、謎かけという形の、おそらく一番やさしい形の「大人になったらわかるよ」です。直球で無理やり聞かせようとしたら押し付けになるから。

星野源や月ノ美兎——というか、にじさんじのアーティスト的活動をされている方は全般的に、作品に何等かの伏線を貼っています。あえて伏せますが、月ノさんの場合、ちょっとえげつない入れ方をしていたのが4-5個あったということです。

伏線に気づいた時、人の認知はがらっとかわってしまいます。ただの歌好きおじさんだったグッチ裕三は、本格的な歌手に、ニコニコ笑いながらゴールデンタイムのテレビに出ていた星野源は、自分の暗い部分とも向き合い続けるポップスターになる。

これから、バーチャルユーチューバーは一般化して、様々な「解釈」を受けると思います。その時に、元々いた人たちが警戒するのは、それは当然なのですが…コミケや京アニ、みのミュージックの例を考えると、どうだろう。

これが、私が辿りついた、文章で出来る一つの限界点です。

Red Hot Chili Peppersは、ニルヴァーナ、ビートルズといったあらゆるバンドを真似するPVを作り上げた。しかし、どれにも染まることのなかった彼らは、今のロック界を引っ張るレジェンドになった                                                                       

「ロストマン」「天体観測」といった曲で人々を導いたきたBUMP OF CHICKENには、先輩であるthe pillowsの「ハイブリッドレインボウ」に、まるで「みんなも一緒だよ」と応えるような歌詞がある。思えば、「ラフメイカー」で出てくる『泣いてる人を笑わせようとする人』も、Official髭男dismの歌詞に出てくる人レベルで、勘違いを起こしたヤバい人とも解釈できる。

コミケにある同人作品も、にじさんじも、多分誰一人として同じ見方や解釈をできる人はいない。さらに、にじさんじは、その構成要素自体が原作者のいる二次創作だった。

一方で、私はそれぞれのライバー単推しの方にこの記事を書くためにちょこちょこ話をお聞きしたが、やはり、あるライバーを推していると、ほかのライバーへの目線が変わったり、それぞれにじさんじ像自体がかなり違う(話に出た中で個人的に特にびっくりしたのは、しずりんさんの放送のマイペースさと変わらなさ)。みな心の中で自然に解釈をしている。

今回の文章は、一度にじさんじの批判の文章を書いたこともあり、負い目もあったのだが、多くのにじさんじファンの方に後押ししていただいたことで書き切ることができました。この場を借りて感謝します。

最近ロバートの秋山さんの活躍にもあるように、「アーティストを描くアーティスト」の作品をよく見るようになった。アーティストを取り巻く状況は、それそのものがドタバタをかなり含む。illustratorのさいとうなおき先生をはじめ、アーティストになると、「作り手」の目線から一つの映像作品にとんでもない意味を見出してしまうこともある。その価値観のぶつかり合いは、それそのものがドラマチックなものだった


The verveのBitter Sweet Symphonyは、UKロックの歴史の中でも最高傑作と言われる曲。社会の中の重圧で、いつの間にかお金の奴隷になり、型にはまってしまう自分自身を歌ったもの。しかし、この曲はローリングストーンズの曲にストリングスが酷似していたため、数年前まで著作権をはく奪される皮肉な経過を辿った。この曲のPVのように、人生は、人とぶつかりながらも、それすらも糧にしながら、進むものなのかもしれない。

バーチャルユーチューバーには、歴史を編纂するために日々情報を収集されている方々がいる。


独学大全は『鈍器本』とも呼ばれる。人の意志力を一貫した、強いものと考えず、むしろ自分の失敗や無知、失望にぶつかった時に自らの志を語りなおす(技法1、3、53、55)ことの大事さを説く。自己洞察にも使える一冊である。

こちらも、学び合うためのサーバーが存在している。


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