『 家長むぎの錆び、グロテスク 』2021/08/17
むぎが何になりたいか、考えたことあると思う ?
多分、無い。
完成形を目指すのでなく、目標を定めるので無く、ただただ『変わり続ける事』に執着してライバー生活を送ってきたと思う。変わり続けて、興味を持たせ続ける。それが、家長むぎだと思う。
Vtuber は、人生の切り売りこそがコンテンツの提供だと思う。切って提供したら無くなる。売り切れたら、お仕舞い。その為、色々な事に挑戦してきた。映像、執筆、歌、ダンス。切って、売る。───売る。売るという言い方よりも良いたとえ方、考え方が有かもしれない。
自分が後天的に身に付けた技術に価値があり、その価値を身に付け続けることが、家長むぎが存在し続けられる方法なのではないかという考え。こんな自分の殴り書きがあった。
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なんでもできるねって言われて初めて存在意義を感じる。どういうことか分かる?何か、なんでも、『それを出来ている自分が想像できること』を実際にはできていない自分に腹が立つ。映像、歌、ダンス、執筆、完璧な仕草、振る舞い。
後天的な、会得した何かに対して、自分の価値を、存在意義を見出している。常に私は錆び続けて、価値を落とし続けているように感じられるので、新しい価値を身につけようと、必死に色々する。
分かるかこの気持ちが。存在していることは変わらないのに、不意に人から見られなくなることが怖くて、価値を見出すことに必死になった存在の末路だよ 面白いか
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錆び続けるのだ。───多分、事実としては、家長むぎは錆びていない。どんどんと出来る事が増え、多才になってゆく。ただ、物凄く早い『消費されるスピード』からすると、錆びているように感じるだけだろう。でも、錆びている。
酷くグロテスクで、歪んだ考えだ。少なくとも、これは自分の中でのみ振りかざして良い価値観だ。他人には絶対押し付けてはいけない。『何か出来ることに価値がある、そうじゃない私は無価値』だということ。私自身は空っぽだとさえ言えてしまいそうな勢い。むぎは、ほかの人、自分以外のどんな人にもこの価値観を押し付けた事は無い...筈だ。少なくとも、意識してこの考えが本当に正しかったり、マジョリティの考えなのだという発信はしていない。あくまでも『家長むぎの最善の価値観』だ。
むぎ、性格、歪んでいそうだ。恐らくこの考え方になったのは幼少期からの積み重ねだ。あくまで価値観の輪郭が確かになった時期がライバーを始めてから、というだけだろう。小さいとき、むぎがただ存在して、寝て、甘えて、のびのびすることが許されていない環境にいた。その環境は自分の思い込みもおおいに関係しているが、『親の育て方がそうだった』のである。───ただ存在する、子供らしくのんびり、生きる。ということが、親の多くの時間や金銭を消費している事実を常々言われていた、そんな気がする。じゃあむぎのこと産んだのが悪いんじゃないの?と突っかかった事があるけれど、虚しくて辞めた。『親に愛されるように、勉強ができて、お行儀が良い、いい子になろう』と必死だった。そうしたら、ずっと親が喜んで愛してくれて、優しく育ててくれると思った。そんな幼少期の積み重ねがあり、ライバーになってから様々なコンテンツ発信をするうちに、今現在の性格・価値観に辿り着いたということである。
アプリのテスターとして家長むぎはVtuberの家長むぎになった。しかし、4年間で需要は大きく変化して、愛され続ける為にはもっと色んな事が出来るようになる必要があった。歌が上手い人、ダンスが上手な人、お話が上手な人、ゲームが上手な人。───最初から何か特別な才能、技術、魅力を持った人が同じにじさんじからデビューするようになった。凄い、凄い事だ。ここにむぎが居ることが、たまに夢のように感じられる。歌が上手いわけでもなく、ダンスも、ゲームも....何もかも、普通なむぎが、と焦燥感ばかりを感じる日々だ。『むぎが採用されたのは、声が良いから』と言われた事がある。むぎを採用してくれた人が、褒めてくれたのだ。それで充分だったのだが、そうはいかなくなった。そうはいかなくなったのに、むぎは、ずっと普通だ。普通か、普通よりちょっと出来るくらい。
その『ちょっとが出来る』が一般社会においてどれくらい秀でてるのかは不明だ。むぎが考える『ちょっと出来る』という主観的な評価は「出来てはいるのだが、時間が経てば経つほど価値が下がっている」のだ。常に『むぎはあんまり秀でた存在ではないな』と頭の隅っこで感じている。
むぎがどういうVtuberになりたいか、考えたことあると思う?
分からない。
分かりやすい系統が有るわけでもなく、コンテンツの統一性が有るわけでもない....感じがする。3年以上やっていたら、そうか。当たり前の結果だろう。思春期・青春をこの活動に注いだし、社会との触れ合いにおいて、かなりの割合をここに捧げてきた。その時の常に等身大の家長むぎが、家長むぎの興味関心、技術の限界、価値の限界が、提供され続けているのは当たり前だ。完成した状態で物語が始まった訳ではない。
完成した状態で始まった家長むぎが、素敵だと思った事がある。最初から何でも出来たらいいのに。一定のクオリティを出し続け、キャラクターみたいになれたらいいのにと願った。───無理だった。家長むぎは余りにも、生きている。人間くさい。これが家長むぎの良さなのだと言ってくれる人がいて、本当に良かったなと思う。人生を肯定された気分だ。
家長むぎが、可愛いアイドルになったらいいなと思う。歌がうまくて、ダンスもちょっとぎこちないけれどできて。仕草のひとつまで可愛くて、言葉もかわいい。文章がかわいい。何でも出来る、ふわふわキラキラなVtuberだったら。多分、すごく素敵だ。
でも、手遅れだ。あまりにも、手遅れだ。ここに至るまでもう3年も経っている。3年間、むぎの泥と涙まみれの生活はありありとコンテンツとして提供されている。むぎ的にはコンテンツとして提供はしておらず、常に等身大を発信し続けた、Vとして生き続けているだけなのだが、結果と客観的事実としては『コンテンツ』なのである。『意図していないコンテンツ』だ。意図していないけれど、当時の最善であるし、選択し人生だ。
このもがき、こそが家長むぎなんだろう。きらきらした存在に憧れた、等身大の歪み。まだ届かない憧れと、等身大の差こそが、あまりにも生々しい、家長むぎの存在だ。その差を縮める過程が、家長むぎの未来だ。
多分、全部やり直したら、強くてニューゲームが出来るのならそこそこのスコアだと思う。でもそれを選ぶ事は出来ない。選びたくない。むぎの命はむぎだけのものではない。(むぎを生んだ存在だけでなく、後にむぎを形作る上でそれに参加し関わってくれた、多くのリスナーを含めている。)
『アイドル(一旦定めてみた目標)になりたい、が、まだ足りない』
『愛され続けたい、が、まだ足りない』
一生これを続けるのだろう。
錆びる事に怯えると同時に、どんどん更新される目標を追い続ける。あまりにもグロテスクだ。でも多分、グロテスクなのは、『地というか素』でそのグロテスクさすらコンテンツになったら、グロテスクは努力に形を変えるのだろう。『努力してアイドルを目指す家長むぎを観る、応援する。』っていうのは、凄くきらめいた字面だ。
でも、グロテスクでも良い?
グロテスクこそ、等身大だ。グロテスクを努力として発信するまでにはまだ時間がかかる。むぎのはまだ努力じゃない、そんな気がする。怠惰を許して欲しいという訳ではなく......。グロテスクにしかに魅力が有ると思う。
その魅力が何なのか、まだ言語化出来ないので今後もゆっくり考えていこうと思う。
