見出し画像

君がくれた勇気は億千万 ーーにじさんじと「共に創る」思い出と喪の作業/孤独な二次創作と、ライバーの差し出すまっさらなキャンバス

※この記事には、暗い(けれども語り継ぐことの大事な)事件の話が含まれます。読まれる際はよく注意されてください。また、私も視聴体験には限界があるため、ここで言及できるライバーや作品は、どうしても実際見た範囲に限定されます。ご了承ください。また、ネタバレ多し、解釈の余地を残すための空白多めです。そして、この文章の主人公はおそらく、童田明治さんとにじさんじSeeds1期生の皆さんです。気になった動画はクリックするのをおススメします。




おい、ロイド。                                                 きみのなけなしのゆうきを                                 つかうときがきたようだぞ                                            ―—MOTHER


去ってしまった者たちから                                           受け継いだものは                                                 さらに『先』に                                       進めなくてはならない                                     ―—ジョルノ・ジョバーナ  


届木 僕の届木ウカなどの表現活動は一種の"終活"なので、もしかしたらテセウスの船みたいに途中でかたちが変わってウカの原形はなくなってしまうかもしれないけど、作ることは死ぬまでやっていこうと思っている。委員長は?月ノ美兎はなくなる?                                        月ノ なくなると思いますね。                                         届木 なくなるかあ……。                                                       届木ウカ×月ノ美兎「委員長は美少年の夢を見るか?」ユリイカ2018年7月 特集『バーチャルユーチューバー』





任天堂とポケモン ーー共に遊ぶ喜びと「たましい」の話




テレビで えいがを やっている!

おとこのこが 4にん

せんろのうえを あるいてる......

...... ぼくも もう いかなきゃ!

―———ポケモン初代赤・緑の主人公のテレビより




ポケットモンスターというゲームは、たとえ友達のいない子でも、本来は「交換可能な」関係だったはずのポケモンが、独自の名前をもらい「交換不可能な思い出」になっていくプロセスだった。ポケットモンスターの発案者の一人である、ゲームフリーク取締役社長の田尻智(さとし)さんは次のように述べている。

田尻 (前略)子どもの関心というか、子どもがほんとうに欲しがっているものというのは、時代によって変化したりしないものなんじゃないか、とぼくは思うんです。今はたまたま生活の環境が違うから、子どもたちはやらないんだけど、欲しがっているものは同じで、例えばデコボコと穴さえありさえすれば、そこにダンジョンがあると想像して、入っていこうとする衝動に駆られるのではないでしょうか。かつてはあったのに、今はなくなってしまったもの、というのを意識的に作り出してあげさえすれば、子どもは喜んで遊ぶでしょう。ぼくたちにはたまたまそういう衝動を実現できる環境があった。今の子どもたちにもそういう衝動があります。ただ環境のせいでおもてに出てくることができないんだと思います。                                        中沢新一「プロローグ」『ポケモンの神話学 新版 ポケットの中の野生』

ポケモンの世界では、まだ何が起こるか分からない広大な地図が与えられ、そこから不思議なモンスターが次々繰り出されてくる。その姿は、陸、水、空、山、草原など、住んでいる環境によってゆるやかに棲み分けがされている。

はじめて出会うポケモンは、未知とのモンスターとの遭遇であり、それは田尻さんが虫取りの最中、何とか知らない虫の特徴を観察して捕獲した、生々しい感覚から作られていた。

『ポケットモンスター』の良さは、ゲームの外にドラマが生まれるというところにあるんです。たとえば、ポケモンに自分の名前をつけて、好きな子にあげるとか、強いポケモンが欲しいという友達に、貸してあげる代わりにラーメンをおごってもらうだとか、そういったゲームの枠を超えたドラマが生まれる可能性を秘めています。
「ドラマが生まれる」とは、なにかが動く、ということである。通信ケーブルの中を、データが動く。それはただの数字だ。しかしそのときゲームをしている人間には、自分が大切にしているものが移動していったり、自分がどうしても欲しかった貴重なものが相手の好意で贈られてきたり、という交換の現象がおこっているのだという解読がおこなわれる。そしてそのとき、ものといっしょに「人格」と呼ばれるなにか、ひょっとしたら「たましい」などと呼んでもいいかもしれないなにかが、ケーブルを通して行ったり来たりしているように、ゲームのテキストに積極的に参加している人には感じられる。                                             「人格」とは、とても不思議な概念だ。それがなんであるか、正確に言い当てることは不可能に近いけれど、私たちには、友情や愛情で結ばれた人間どうしの間に、相手の「人格」が自分の「人格」にたしかに触れているという実感を持つことのできる瞬間が、人生には何度かおこるものである。そのとき、個体と個体をへだてる溝をこえて、なにかが「動く」のだ。                     それを「ドラマ」と言ってもいい。ドキドキしているような、なにかの動きが、この世界に発生するからである。そして、そのなにかしら動くものによってえ、個体と個体の溝がわずかといえども越えられたと感じたとき、人間は利害や損得の計算を超えた奇妙な幸福感を感じるのだ。          中沢新一「第6章 ゲームの世界の贈与論」『ポケモンの神話学 新版 ポケットの中の野生』                   



ポケットモンスターが生まれる元になったのは、任天堂。

任天堂を長い間第一線で支え続けた岩田聡社長は、2015年に亡くなった。岩田さんは、体調がすぐれないときにも「直接」任天堂のファンに商品をお届けするのをやめなかった。「直接」届けるその姿は、先日のNintendo Directにも、今も引き継がれている。


去っていった人たちと喪の作業


私がにじさんじを見始めてから、多くのライバーさんが卒業されていた。残念ながら私は特ににじさんじSeeds一期生の初期をリアルタイムでは体験できていない。ここに並べるのは、ある思い出の一部である。











教員の異動(転勤)は致し方ないことです。つまり、生きている限り、対象喪失やこころの傷は受けてしまうものですが、その時の状況により、傷の程度はずいぶん変わってくるのです。別れは誰にとっても辛い体験ですが、しっかりとさようならをすること、別れにまつわる気持ち(情緒)を体験することが大切です。それらの体験を通して、こころは徐々に対象を失ったことを受け入れる準備ができ始めるからです。一人で体験することよりも、そこに誰かが寄り添ってくれると、体験を共有してもらえるため、受け入れることを助けます。 
また、寄せ書きをしたり、写真を撮ったり、アルバムを作ったりする作業も喪の仕事の一つです。失った人を思い出したり、その「とき」を思い出したりして、やはり失ったことを受け入れていくのです。逃げたり回避したりせずに、しっかりと子どもたちと対峙することが大切なのです。(上記リンクより)

にじさんじのはじまり ーー共に創ること、そして「にじそうさく」

エンターテイメントに変化が起きている。
消費者と創作者が共にコンテンツを創る「共創」の時代が到来した。
人々の個性や多様性がより重要視されるようになった。                              (社名由来のメッセージより)


にじさんじは、その始まりから個人の独創性をばねにすることを構想されていた。そのことはあらゆるにじFes(コンセプトは「文化祭」)を始め、ありとあらゆるイベントに滲み出ている。

その一方で、にじさんじの初期を振り返ると、とてもとても長続きするような会社に見えなかった。そのため、にじさんじのライバーたちは「バーチャルユーチューバー」と呼ばれる文化ですらないブームの中、まるで毎日をいつくしむように走り続けていたという。

その中で、ある人たちは去っていった。笹木はいなくなったと思ったら復活した。メリッサさんは人生を託すかのようにじさんじオーディションを受けて、今はにじさんじを代表する歌姫になった。

にじさんじのファンの中には「今しかないもの」「いつかなくなってしまうもの」として、必死に生放送を寝食を抜いて追っていった人もいるだろう。それに対してライバーたちは、死ぬ気で遊ぶことによって応答していた。

なにものでもない適当に集められた、趣味も見た目もちがう、チグハグなやつらによる、コメ欄とライバーの本気のごっこ遊び。絵師の方も、SSも、コメントも、恥ずかしいこと、楽しかったことを書きあっていた。

おそらくそれが「にじさんじ」の歴史の、ある一ページだった。


だから、三年続いたことはありえないことだった。ライバーたちはそれぞれ、自分の夢の方に向けて歩き出した。ある人は好きなゲームを続け、ある人は歌の世界にのめり込み、ある人は演劇の道へ。ある人は毎日人の悩みを聞き続け、ある人は自分の物語に終止符を打った。

時は過ぎ、ライバーたちはそれぞれの道を歩き出した。それは思い出が「思い出」であり、幻想でしかなかったことを意味する。夢を叶えていっているはずなのに、時に悩み、忙しさに打ちひしがれることもあった。

それでもライバーたちは、ファンに手を差し伸べ続けた。


でもなんか一応、わたくしこういうコラ大会みたいなので意識しているのが、絵を描ける人だけが…なんだろうな、活躍する場じゃないようにしたいっていうのが一応ね、コンセプトとしてあって。なるべく、なるべくよ、意識しているところね。というのも、絵に対するセンスと発想のセンスってまた別じゃないですか。だから、発想のセンスはあるけど絵のセンスはないって人が、発表されないのはもったいないとわたくしは思っていましてね…そう。なのでこれも、そういう意図でサムネイルに選ばせてもらったという所も、あります。                                   月ノ美兎「話します」より
どんなに弱くてもクズでも卯月軍団はおまえらを受け入れる
おれもSeedsの中で技術ない方でさ…活動する前に消費者コンプレックスみたいなのがあって…生産側に回らずに作品を見続けることが…途中で辛くなっちゃうみたいな。生産せずに、アニメとか見まくって、途中でヘラっちゃって「あーおれ、観てるだけの人間だわ」みたいな。素直に好きな作品にすら向き合えないっていうね。これね、結構消費オタコンプレックスっていうのがね、起こりうるんだよ。                                                しかも俺らみたいな界隈って二次創作とかさ、一旦漁っていると、めちゃくちゃうまい人がもう見渡す限り無限にいるから。ただ、放送している側の人から見ると二次創作とか、SSとか書いてくれる人見ると、それだけの労力をかけてくれるんだなっていうのはあるんだけど、放送している最中のモチベーションは圧倒的にコメントだから…。あのね、放送でコメントを盛り上げるっていうのもね…。それだけでもね、ものすごい貢献だから…。結局コメントないと放送できないからさ。伸びてく数字だけ見ても意味ないじゃん。だってさ、ぶっちゃけた話さ、YouTube登録者数何人とかいうけど、登録者数ってそんな減らないんだよ。大げさな話十年、二十年続けていったら、そのうち何万人かになるんだよ。多分。でも、コメントってその現状の盛り上がりだから。今盛り上がっているかどうかってのはコメントの部分で現れるから。コメントで貢献するのが、一番現状の人気につながるって思うな。モチベーションにつながるから。                                         卯月コウ「卯月コウ陰キャグランプリ」より


京都アニメーションと「共同制作」の思想

批評家の黒嵜想氏は、京都アニメーションの痛ましい放火事件に際し、京アニが求め続けた理想である「共同制作」について、述べている。

慎重に、この文章に現れている「共に作る喜び」について解きほぐして書いてみよう。京都アニメーションは2000年代を代表するアニメを次々に世に送ってきた会社だ。00年代、インターネットは名前のない人たちが、まるで融け合うように楽しげに集まって、交流する世界だった。その代表例はニコニコ動画だった。

しかし10年代に入ると、YouTuberの台頭、そして「好きなことで生きていく」という言葉に代表されるように、個人の力の差や数字といった生々しい話が流入してくる。弱肉強食の世界が広がっていく。SNSの台頭とともに、顕名の人と人とのぶつかり合いが可視化され、炎上に人々は怯えるようになった。

そんな中でも京都アニメーションは愚直なまでに「日常」を、「共に作る喜び」を、楽曲やキャラ、聖地巡礼の形で作り続けた。




もしかしたら、ギターを弾けない自分だって、絵を描けない自分だって、何らかの形でその世界に携わることができるかもしれない。それぞれの創作の「孤独」と「孤独」をつなぎ合い、時には激しくぶつかりながらも、また新しい孤独を作ることができるかもしれない。創作の「創」の字は元々「傷をつける」ことを語源に持っている。


それぞれの「孤独」や、変えられない「傷」を、ありえないはずの「関係」をどうにかして埋め合わそうとする運動を、人は「二次創作」と呼んだ。



そして黒嵜氏は、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」という作品の中で、「武器」と称された愛を知らない少女ヴァイオレットが、様々な依頼者の声を「自動的に」「愚直に」文字に起こそうとした姿に、二次創作をする人たちの姿を重ねる。


ヴァイオレットが綴ったギルベルトへの手紙。
それはもう報告書ではありません。

ほとんどのエピソードにおいて、ヴァイオレットが積極的に書面に介入的な操作を加えているようなシーンは見られない。タイプライターのキーの上を機械的に踊る義手の指は、「自動的」である彼女の姿を強調する。ヴァイオレットの声が書面を読み上げることは、ほぼないと言ってよい。彼女がおこなった代筆は、いっけん文字起こし以上のものではないように思える。しかしその書面には、依頼者がヴァイトレットとの時間を経て得た、たしかな変容が織り込まれている。依頼者の言葉に導かれる彼女は「行間」を読めないが、彼女に導かれて依頼者が「行間」を文字に起こしている。そしてヴァイオレットは、できあがった書面に、少佐から受け取った「愛してる」という言葉に類似する感情を見つけ、次の依頼へと赴く。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が描くのは、類似(キャラクター)を作るための営みが変容(時間)を作ってしまうという、「二次創作」ひいてはアニメを観ること自体に潜在する創造性なのではないだろうか。                                 黒嵜想「2019年8月19日」

キャラクターは、その人の孤独を完全に埋め合わせることはできない。絵を描くこと、歌を歌うこと、実況配信をすること、そのすべては孤独なものだった。

しかし、書くこと、読むこと、見ることが自動的に、思わずさせてしまう寂しげな創作は、その孤独を新しいものへ/景色へ/キャラクターへと生まれ変わらせるかもしれない。心を持たない「武器」と呼ばれた、ヴァイトレットは、様々な人の愛の形を知り、「愛している」らしい感情を見つけていった。

悲惨な事件の後に、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を通じて黒嵜さんは「傷」の意味を考えなおした。


小林さんちのメイドラゴンの第一期監督、武本康弘さんは、京都アニメーションの事件で亡くなった一人。彼の意志を継ぎ、石原立也監督のもと第二期が今年の夏放送される。



この放送で、星野源はLainやアイマスファンだということでバズることになった。しかしよく聞くと、星野さんは「氷菓」の主題歌を紹介し、ひとこと「氷菓の監督とも対談させてもらったことがあって…」と中村悠一さんに告げている。

星野源は、事件の際、京都アニメーションの曲縛りでラジオを流している。


出町柳駅につき、さっそく『たまこまーけっと』の舞台として描かれた「出町桝形商店街」を訪れた。彼の最愛の作品であるという。現地に来たのは初めてらしく、興奮してスマホで写真を撮っている。8年前、花園会館に案内した人たちのことを思い出した。彼ら彼女らも、今回の事件を孤独に受け止め、悲しみに暮れた時間を過ごしているのだろうか。
彼の足が止まった。目前には、商店街の屋根から吊られた巨大なメッセージボードがあった。事件により被害を受けた人々へ、哀悼の意を記したものだった。「私たちは皆さまが描いてきたとおりの人情と絆とで変わらずここにいます」とあった。その後ろには、作中でも印象に残った、巨大なサバのオブジェが変わらず吊られていた。                                        黒嵜想「2019年8月19日」




創作は「ないところ」から始まる


絶望先生のあるキャラクターによれば、「供養」というものは、生きている人のためにあるという。(『絶望先生』三十巻)

最初は無理やり集められた生徒たちが、偽物ながら、出身も年齢も縁もゆかりもない共同生活。「ありえない」はずの関係を作り続ける毎日。

その終わりを、「さよなら絶望先生」の作者は「卒業」と名付けた。




子供の頃 やった事あるよ
色褪せた記憶だ 紅白帽 頭に
ウルトラマン ウルトラマン セブン

子供の頃 懐かしい記憶
カレーとかの時に 銀のスプーン目にあて
ウルトラマン ウルトラマン セブン

でも今じゃそんな事も忘れて
何かに追われるように 毎日生きてる


振り返っても(忘れていたアルバムの中に)
あの頃には(馬鹿やってる自分)戻れない(友達と笑って)
ウルトラマン ウルトラマン セブン

今あいつら どこに居るの? 何をしているの?
答えはぼやけたままで
ウルトラマン ウルトラマン セブン

でも今じゃそんな事も忘れて
何かに追われるように 毎日生きてる

君がくれた勇気は 億千万 億千万
過ぎ去りし季節は ドラマティック




そしてもう一度、それぞれのにじさんじへ ーー文化祭のあとに


 共に作ることがもたらす、それぞれの孤独。関係を幻視することで、新たに作られてしてまう孤独。その孤独さを寂しく歩むことの、喜び。

 私たちはそもそもばらばらである。キャラクターは孤独を取り除くものではない。しかし、キャラクターは私たちの孤独のあいだに見出される類似である。取り出した類似の変容に導かれて、私たちは孤独な時間を、向きを新たにして歩むことができる。                       黒嵜想「2019年8月19日」                      


3年間の初めましてとさようならへ

社築さんは、トコトンミスする部員村田をしばきながら、過去の出会いを思いながら、次の世界に歩き出している



僕は昔から、自分のことを好きになれない人間でした。でも、仲間が欲しくてライバーを始めて、活動しているうちに、リスナーのみんなが『緑仙のこんなところが好き』『ここがすごく良い』『歌が好き』とか3年間、根気強くメッセージを残してくれたおかげで、最初のころよりずいぶん自分に自信が持てたし、ちょっとは自分のことが好きになれて、成長できたと実感してます」(上記インタビューより)

緑仙はアーティストらしい活動を続けながらも、リスナーとのつながりを断たないために、Podcastを始めた


マイクラのサーバー管理人をやめたドーラさんは、ド葛本社の一人として、家族を率いている


クレアさんはまいにち動画とライバー活動を続けながらも、教員免許を取得した


鈴木勝くんは、来る3D放送にむけて、ずっとピアノを練習している


轟京子さんは、なかなか生放送できないながらも(マネージャーを犠牲にして)面白動画を投稿している


あの頃と姿の変わった安土桃さんは、ストリートファイター部とのひとりとして活躍し始めた


チャイちゃんと卯月コウくんは、昔と変わらずやしきずと共にやっべえダイスを振っていた




にじさんじライバーは、ファンとの、過去との、そして未来への「共同制作」を魂から信じている


 そこに確かめた生命は、特定の誰かに帰属させることのできない「変容し続ける類似」そのものだ。であるからこそ、彼・彼女に次に訪れるであろう変容を孤独に信じることでしか、それは生き続けることができない。「二次創作」に私たちが確認するのは、それぞれが信じた変容の違いであり、しかしそれぞれを確かに横断している類似である。そうしてキャラクターが生きる時間は実感される。                                       関係を幻視する力。それが、「二次創作」なる言葉が指す営みを、解像度を上げて注視することで見えてくるものだ。                                       黒嵜想「2019年8月19日」 

                                                                 



じんさんの心の支えになっていたのは、緑仙も好んで聞くThe Back Hornの『ヘッドフォンチルドレン』という曲/アルバムだと言われている。その曲の魂はカゲプロの『ヘッドフォンアクター』という名前で引き継がれていった。そして、Raindropsは『オントロジー』という曲を、じんさんから授かった


黒嵜想さんは、2018年時点でユリイカの文面でかなり強く否定的にVtuberを捉えていた。それは、彼にとってVtuberは「個人の力」を示す場所であり、露骨に中の人が見えて、全てが数字で語られる存在に見えたからである。これは多くの批評家が指摘している。

現在の彼の立場は不明であるし、なによりそこを問い詰める意図はない。重要なのは、月ノ美兎さんも、樋口楓さんも、舞元さんも、にじさんじSeedsも―—明らかに皆、長くは続かないと思っていたVtuberの文化や、やめる気満々だったにじさんじの活動がこれほど長く続いている謎である。ぶっちゃけて言えばお金——というのもあるのかもしれない。

いくつかの記事を書く最中に――これを書くのは申し訳がないのだが―—彼ら/彼女らに起きた暗い出来事の記事をいくつも見て来た。金魚坂さんの事件に対しては、私はどう心の収集をつけていいか今もわからない。

それでも、にじさんじが続いてきたのは―—ひとえに彼ら/彼女たちがファンの人が、それぞれのキャラクターに対して、コメントや二次創作で書き込むことのできる余白を残し、他人を信じ続けたからだと私は感じている。そしてそれは、彼女たち自身が愛した作品たちから受け継がれたものに、違いないのだ。にじさんじのライバーたちも自分たちが間違いなく誰かの、何かの「二次創作」であることをよく知っていた。誰かの真似のごっこ遊びでしかない(のかもしれない)ことを、それをわがものとするずるさも含めてよく知っていたからだ。知っていたうえで、それと全力で向き合っていたからだ。



「おぃ大泉〜!2週間スケジュール押さえたぞ〜」(コメント欄より)



だから、もし「共創」という理念を持ち続けるなら、運営側の問題はこうである。卯月コウ君の言ったように、必ずしも誰もが技術的に特化したものを持てるわけではない。そして、黒嵜さんが述べるように、それはきちんと整理しなければ、ライバーと一緒に遊ぶことのできる「夢」は、消費者コンプレックスという「呪い」となり、不満や嫉妬、相互不信の元になってしまうだろう。

任天堂ならば「うごメモ」や「Mii」のように、京都アニメーションならば「聖地巡礼」や「ダンス」の形にしたように、二次創作として入ることのできる余白を確保し続けておくこと。そのシステムを作ること。それは、距離が離れたとしても、文化祭を続けるための、先駆者たちの知恵であり、祈りだった。



クソ雑魚英会話伝言ゲームは、あるMAD動画がきっかけで公式になった

実は、これだけ私が二次創作にこだわるのは―—あまり大きい声では言えないが―—私自身が、意図せずライバーの方に声を拾っていただき、いろんなものに反映していただいたことが一度だけでなく、何回もあるからだ(ライバーの方に殺到されてもこまるので、どなたかはあえて伏せる)。

こうした現象は、すでに論文になっている。ヘンリー・ジェンキンズ氏は1990年代に、「ポケモン」や「遊戯王」のファンカルチャーを研究していた。ファンが作者との関わりで文化を作り上げていく世界を、特に日本はコミックマーケットの時代から持っていた。特にSNSの時代に突入すると、もはやファンの声は作者にとって無視できない、回避不能なものになってしまった。特に上記の記事では、同著の翻訳者たちより、「良い作り手、良いファン」の条件について次のように語られている。

ーー先ほど『スター・ウォーズ』新3部作の話もありましたが、作り手とファンの幸福な関係とはどんなものだと思われますか? いい作品に結実するのが理想だと思うのですが。
北村:作り手が優秀じゃないとファンも優秀にならないと思います。例えば、スパイク・リーは他人の言うことは聞かないみたいなふりしてるんですけど、ちゃんと批評を読んで作品に反映しているんですよ。あれくらい強い作家性のある作り手だと、批判への応じ方もどんどん上手になっていく。切磋琢磨の状態がいちばん理想だと思いますね。

ーーいいファン、いい消費者とは何なのでしょう。暗黒面に落ちないでいるためには。                                                    阿部:作り手側とファン側のコミュニケーションを円滑にするためにも、ファン同士のコミュニケーションがいいものでないといけない。そのための条件としては、ジェンキンズも書いていることですが、ファン自身が他のファンに対して「お前そんなことも知らないのか」などと言って知識でマウントをとろうとするのではなく、新しいファンが入ってきた時に古参ファンがメンターとして迎えるような形でコミュニケーションできることが重要だと思います。それがファンダムを活性化させるし、ファンと作り手側のコミュニケーションも円滑にする一つの要件になるんじゃないかと。         渡部:自分の欲望を知ることが、いい消費者であり、いいファンになるための条件の一つなのかなと思います。ファン的な活動をする対象は、どんなものであってもいい。その活動の中でマウンティングに走ってしまうのは、自分の欲望がわからないからだと思うんですよ。何か突き動かされるものがあって、その対象に欲望を投影しているのであれば、そこで深めるべきは自分の欲望なんです。たぶん消費者に関しても同じで、自分の欲しいものがわかってないと、広告に踊らされてしまう。      

AKB総選挙のような形式は、確かにビジネスとしては良い。ただその仕組み「だけ」を受け入れてしまうと「消費主義」(コンテンツを受け入れて終わり)になる。もしも自分が「なぜこの人に惹かれているのか?」が分かれば、他者から受け取ったものを例えば二次創作として、あるいは生きる糧として昇華することもできる。

何千回でも擦り続ける剣持くんの言葉

加賀美社長からメタルの世界を覗くこともできる


Dark Necessities are part of my design ーー悪は私の不可欠な一部


ぼくは未来の人間像として、無意識を失って、脱個人化して、誰でも同じようになってしまうというディストピアを、かなりリアルなものとして想定しています。でもこれは、ある種宗教的な幻想でもあって、「天国に行く」ということです。きっと天国に行けば記憶もなくなり、誰もが個人ではなくなる。それが幸せだというけれど、本当に幸せですか? という話です。だってこれ、『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」ですよね。                          人間がほかの人間と違うこと、人間が分かたれていること、つながれないことによって話が通じないと苦しむこと──。これは「悪」ですよね。つまり、悪があるからこそ、人間は個人でいられるわけです。これはいまこそ主張しないといけないと思います。個人でいられるということと、悪の存在を積極的に肯定することは同じことなんです。                                          つまり複数性とは「悪」なんです。人間が悪いことをしないように管理することは、正しいことです。しかし、正しいことだけをやっているとヤバい。もっとみんな正しさに警戒をしないといけない。自分の生活のなかの「善き正しくないこと」を発見し、大事にする必要がある。「善き正しくないこと」の根拠は、個々人の身体にある。自分が身体的に感じる欲望で抵抗するという方法があると思います。                                                  千葉雅也「いまあえて主張しないといけない。複数性とは「悪」である:これからの〈らしさ〉のゆくえ」

Ado『うっせぇわ』は、40年前のチェッカーズ『ギザギザハートの子守唄』が元ネタと言われている。

哲学者の千葉雅也は、現代では「一回だけしかなかった出来事の一回性」が失われているという。にじさんじであれば、切り抜きを無限に見返せば、実は、ギバラさんも霞さんも「あの時と同じ鮮度で」現れてしまう。

レコードやカセットテープが一方向的に音楽を再生するあの時間。それを今僕は懐かしく思い出すのだが、これは単なる中高年のノスタルジーにすぎないのか。こんなことをネットで言えば、懐古趣味だという批判は避けられないだろう。だが僕は、世代的使命でもあると思うのだが、このノスタルジーに沈潜する必要を感じている。すべてがデータになり、データベースに登録され、整理、再構成の対象となった時代には、時間の秩序が空間的な並置と変わらないものになり、あらゆる時点を好きに行ったり来たりし、歴史がランダムに反復されることになる。デジタルデータで音楽を聴くようになって以後、我々の時間感覚はそのようなランダムアクセス的なものに変わった。それは大変便利なのだが(かつて、瞬間的に曲の「頭出し」をすることにどれほど憧れたことか)、その状態に慣れるにしたがい、あらゆる事物が似たり寄ったりになり、ひとつのものに特別な興奮性を感じる経験が弱くなったように思う。それは僕が歳をとったからだろうか。今でも若者が何かに夢中になるのは昔と変わらないのだろうか。

『めだかボックス』の球磨川禊は、下ネタしか言わねーし、人の努力をいつも台無しにする無責任で陰湿でマイナスなどうしようもねえキャラだった。しかし、彼の存在に救われている人はいっぱいいる

自分が他人とはつながることができないという傷を持った人は間違いなく存在している。いくら相手がひどい人に見えようと、その「悪」には相手の苦しみがにじむことがある。

自分のチャンネルの動画を消し去ることは、特にVtuberの歴史にとって「悪」になりえてしまうかもしれない。しかし、そこには彼女が彼女らしくあるための踏ん切りがあったかもしれない。

誰にも共有できない一瞬の出来事だったからこそ、気持ちや思い出は存在する。


「まっさら」のキャンパスはあなたに差し出されている

                                     

BUMP OF CHICKENについて友達が言っていたことがある。                             藤原さんは、元々強烈な中二病の青年で、イタイことしか言っていなかったかもしれない。正直人前に出せないようなことも初期のライブMCでは言っていたし、ものすごい怖い人だった。

そんな彼が歩み続けてこられたのは、アイルランドの音楽やわけの分からない洋楽の音楽も、藤原さんの無茶ぶりでギターを脱退させられる事件も、謎の哲学的熱弁も、まるでポケモンルビー・サファイアの秘密基地に集まったガキん子のようにすべてぶつかり合いながら話せる仲間がいたからだった。何度ほどけたりつないだり、また別の所とつないだりを繰り返したからだった。



ドラえもんがいたような空き地の土管は今、危険だからといって撤去されてほとんど存在しない。                        秘密基地にあつまることのできる世界じゃない。中高生たちは文化祭を経験していない。                                    「クソゲークソゲー」言いながら、台パンしてあの伝説のゲーマーたちが腕を磨いていたスラムのようなゲームセンターはもうほとんどない。              寝るのが大好きな少年のび太くんも現代じゃ一流FPSプレイヤーだ。

ないものは、つくるしかない。


にじPEXに際してはお騒がせいたしました。今回の私の論は相当「エンタメ」よりであるため、APEX他、各ゲームを知る人にとっては違う感想になると思います。

にじさんじゲーマーズ、特に叶くんと葛葉くん、そして(ゲマズではないですが)勇気ちひろさんの活動を捉えなおすためには、今一度彼らの歩みを「完全にFPSの歴史の方から」語りなおす必要があると感じています。なぜなら、APEXというゲームにとってVirtual YouTuberは必要不可欠だった歴史の可能性が高いからです。もしも、彼ら彼女らの活動に新しい見方を「創る」となると、ゲームの歴史を掘るのが良い。

ただ、そのためにはAPEXやその他FPSの知識に加え、彼らの放送の全容を知っとく必要があって…いや厳しいな…と感じてます…何か方法はないかな…無理かな…


3年前、人気があったのはPUBGだった。その時から、ゲマズはゲームに一直線に向かっていた。それはEXゲーマーズになった今も続いている。

まとめて、任天堂や京都アニメーション、そしてこれらにじさんじの歩みから考えるべきことはこうである。(この部分は、中島岳志他『「利他」とは何か』集英社新書の、伊藤亜紗さんの章を参考にしています。)

現実には、ダブルスタ丼氏のnoteや卯月コウ君の言葉にあったように、全ての人が同じ技量を持って作品を作るのは難しい。それはそのままだと、不安や不満、嫉妬の形をとることしかできない。

しかし、任天堂も、京アニも、これまでずっとささやかな形で「遊び方」と「作り方」を教えてきた。それは、リゼ様と対談した糸井重里さんの言い方を借りれば「受け手がいなければそのお芝居は存在しない」「文化祭が楽しいのは送り手やつくり手の側に立ってそっちからの景色が見たいから」という言葉になるだろう。

そしてにじさんじは、ずっと、七転八倒しながらもずっとそうした声に、コメントに答え続けてきた。それはライバー自身が、「受け手」として、音楽やゲームに向き合い続けてきたからだ。

時は過ぎ、3年。RainDropsは「開花宣言」というライブを開催し、オリコンでもトップを取った。ライバーの方もなかなか忙しくなり、真夜中に突発コラボのような強烈なことは出来なくなったかもしれない。


ライバーの目には「どんな相手とのコラボでもOKだよ」「楽しみだよ」という意見だけが見えているから、それに従ってコラボをするでしょう。
ですが、いざコラボをしてみたら言わないだけで”内々でストレスを溜めて裏では検索避けローマ字小文字で愚痴るファン”というのを大勢見かけるのです。
彼らが耐えきれずに爆発した結果がファンの対立だと思います。
(中略)
ファンはライバーを信用して別の情報を与えても良いのではないのか。
ライバーに多様性があるなら、ファンの声にも多様性があるべきではないのか。

それもこのNoteを書いた動機です。
ダブルスタ丼「最近のにじさんじをつまらないと感じる理由。箱推しが無理になった話。

月ノさんはこの配信で「意外とVtuberはひとりでもつぶすことができる」と述べた。逆を言えば、一人のリスナーの声に救われることも、「このゲームのように」延命させられることもありえる。このゲームのコントローラーは実はもうすでにファンが握っている

ここで必要なのは…月ノ美兎さんらしいことを言えば「想像力/創造力」である。「他人のためになにかをしよう」という行動は、確かに人を縛ってしまう支配欲に陥る可能性はある。しかし、京都アニメーションの出町桝形商店街の描写が、実際の街の人の風景の一部になったように、にじさんじライバーの部屋がどんどんリスナーの家具で埋め尽くされるように、彼女たちや実はある町の現実も、最初はリスナーや観客の声と妄想で出来ている。それは本人たちに対する思い出で出来た二次創作であり、ぎこちないものかもしれないが、まぎれもない彼女たちの活動の一部だ。

星野源は『ドラえもん』で「何者でもなくても世界を救おう」と歌っていた。それは間違いなく、彼も大好きな作品たちから学んだものだった。過去は、未来を作るために振り返るものだ

2018年に笹木咲さんが引退後に戻ってきたのも、恐らくはいちから社員の方が、任天堂に本気で取り合ったからだろう。




絵が描けないとか技量の問題ではなく、卯月コウくんのように、嫉妬や憎しみなどのネガティヴに苦しみながら堂々巡りを繰り返しながらも、泥臭く見方を変えてしまうのもいい。

同じゲームをやってみた報告を書いてみるのもいい。

誰かがいなくなった余白に、もう戻れなくなったあの頃に新しい言葉を与えられるのは、新しい見方を与えられるのは、自分自身を救えるのは、未来を生み出せるのは、その孤独に新しい意味を与えられるのは、失った余白を持っているあなたしかいない。

ライバーの方のメッセージには…おそらく「夢を見る私を応援して」だけじゃなくて、「みんなだってできるよ」というのが含まれていた。日々とともに抜け落ちていったアルバムの余白に、新しい色を書き込むことができるのは、どんな形であれ、にじをそうさくできるのは、新しい面白さを発見できるのはライバー自身だけじゃない。にじさんじはライバーだけじゃない。

まっさらな白いキャンバスは、あなたにも差し出されている。



画像1






岩田聡社長、Angel Beats!の音楽を手掛けた蒲池愛さん、
京都アニメーションの放火事件で亡くなった36人のクリエイターの方々、東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

どうかクリエイターの皆様が進む道に、幸多からんことを。


P.S.

周囲から浮き上がるのを恐れずに、とっぴな行動ができる人間がいないこと。それが今の時代の最大の危機だ              J.S.ミル

布団で寝っ転がった少年が退屈を感じていたとする。その少年が野球を始めることは、あるルールの中に入ることを意味する。しかし、彼が楽しいと感じていたなら、それは「自由」だ。

実は、自由を「感じる」ためには、違う刺激や束縛が必要になる。そこに人間の難しさと豊かさがある。また、J.S.ミルは『自由論』で、一番最悪の状態は論戦が起こっている状態ではなく、お互いがお互いのやることを相互監視しあい、意見を一つの方向に固めてしまうことにあると述べていた。それは分かりやすく言えば、その場の新陳代謝がなくなってしまうからである。

このように、自由なはずの世界の中で人がなぜ自ら不自由を選んでしまうのか、意見が一方向に向きやすいのかは特にモラルエコノミー論などに詳しい。重要なのは自分の行動や言動にスキや余白を与えること、解釈の多義性を残すことと伊藤亜紗さんは述べている。

6/20追記

凄いタイミングにものすごいコラボが帰ってきた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?