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体験談2

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#東日本大震災

3.11を忘れる

被災していない人なんて、いない。

映画のような、街を津波が飲み込む光景。壊れたラジオのように毎回流れる同じCM。

余震がある度緊迫したスタジオに切り替わる画面、アナウンサーと点滅した日本地図。

同じ揺れを体感していなくても、誰もが7年前のあの日の鬱屈した日々を忘れることはない。東北に限らず、日本国民全員が被災者になった日だったと思う。

7年前の今日、わたしは茨城の実家にいた。現役で志望大学

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マガジン更新しました
体験談2:東日本大震災
https://note.mu/notesaigaiinfo/m/mccedefb83a5f
被害状況や、当時用様子を詳細に書いた記事もありますので閲覧は各自の判断で。

2011年3月11日、あの日僕は東京で就活をしていた

2011年3月11日、あの日僕は東京で就活をしていた

「なんか面白いこと起きないかな」

そんなことを思いながら次の企業説明会が行われる最寄駅の近くのココイチでカレーを食べていた。

2011年3月11日12時過ぎ。

この時に食べていたカレーを最後に、24時間以上まともなご飯に有り付けないことをこの時の僕は知らない。

企業説明会の日程がびっしりと書かれた手帳を眺めながら、冒頭の言葉を店内の誰にも聞こえないようにボソッとため息混じりに口に出す。

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3.11の記憶

3.11の記憶

私個人は被災者ではないし福島出身でも無いが、東日本大震災で色々と変化があったのは覚えている。特に、震災以後に得た体験や知識によって行動基準が随分と変わった。
意味があるかどうかは微妙だが、覚えているうちに当時の事を書き留めておこうと思う。

震災当日は東京の職場で普通に働いていた。
ゆれが始まってからもノンキに仕事を続けていたり、こんな動画を撮っていたりと、全く危機感が無かった。一応、状況次第で避

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災害の記憶は風化するもの、という前提

災害の記憶は風化するもの、という前提

3月11日は、東日本大震災が起こった日。今は多くの人々があの日を思い起こし、また2011年3月11日当日のことをハッキリと覚えている人も多いでしょう。7年前の3月10日であれば記憶も曖昧になっているところ、あの地震と津波の衝撃は今でも思い出すと心が揺れ動きます。

そのときに感情を持つ人々の一次情報7年前の3月10日ではなく、73年前の1945年3月10日は何が起こった日か知っていますか?この日は

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その日午後2時46分・東京

その日午後2時46分・東京

まだ中学1年生の春だった。

三年生を送る会、略して三送会という集まりが、5時間目を使って体育館で行われていた。司会役の生徒がアナウンスして、冒頭に校長先生の挨拶。僕はいつもの朝礼通り、ほどよい姿勢を保ってほどよく聞き流していたはずだ。

ふっと体が傾いた気がした。その瞬間体育館中にざわつきが広がり、気のせいじゃないと分かった。地震だ。それも妙に大きい——と感じた時には、今まで感じたことの無い揺れ

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一度訪れただけでは何も知れなかったけれど、また行きたくなる場所だった、気仙沼旅行の話

一度訪れただけでは何も知れなかったけれど、また行きたくなる場所だった、気仙沼旅行の話

宮城県気仙沼市に、震災復興のボランティアに定期的に通っている友達がいる。その子が春休みを使って、気仙沼に長くいるというので、私も1泊2日で合流して、とっても充実していたし、お腹も満たされたという話。

私は仙台出身だけど、震災にかかわるボランティアや何かに関わったことは今までなくて、海沿いの「被災地」と呼ばれる地域に行くのは初めてだった。

震災当時は、私の住んでいる地域は、山沿いで被害は少なかっ

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福島が《FUKUSHIMA》になってから

福島が《FUKUSHIMA》になってから

私は、ある3月の日曜日に、神奈川県相模原市の大きな病院で生まれました。母の実家がそこにあったので。けれど、産声をあげてひと月も経たないうちに、私は「福島の子」になりました。

福島県福島市。福島県の真ん中の一番上にあって、人口は30万人にギリギリ満たない街です。県庁所在地なのにあの郡山市にはちょっと気後れしちゃう、かわいい街です。小学校の社会科の授業では、「福島市は猫の形をしているね」と教わります

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3.11から6年に思うこと

6年前、僕は大学3年生でした。21歳か。

東日本大震災が起こった時、僕は東京にいた。ただただ怖かった。

いろんな情報が錯綜して、放射能が東京まで来るという憶測が流れ、お世話になっている先輩が実家の大阪に帰る際に一緒に大阪に避難することにした。

群馬にいる親に伝えるとそんな必要はない、と怒られた。

テレビの情報だけじゃなくちゃんとネットでも情報を得てよ、と偉そうに説教垂れていた。

大阪に1

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今、かんじること。

今、かんじること。

東日本大震災から今日で6年。

あの日私は、実家のあるいわき市に居ました。

食器は床に散乱、家族で食べる物もない…。暗くなってくる時間帯に、とてつもない不安に襲われたことを覚えています。

夜になっても繰り返される余震に、親が「あとどれくらい続くの?」と聞いてきたこと。

大学で地球科学(地形学)を専攻していた私は、あと1ヵ月かもしれないし、1年続くかもしれない…。そんなことを考えていたこと。

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福島第一原発の視察の帰り道で

福島第一原発の視察の帰り道で

いわき駅、午後8時16分。
最終品川行きの特急がホームを駆け抜けるのを、息を切らしながら見送った。

家まで帰るための最終列車がみるみる小さくなるのを見ながら、
まだ8時台なのに十分酔っ払った僕の口角は、主人の意思とは無関係に上がって笑みを作っている。

さっきいたお店で席を立ちながら流し込んだ福島の地酒が、お腹の中でカッカと燃えていて、
終電の去ったホームで立ち尽くしながら僕は、『もののけ姫

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南相馬市・シロのはなし。

南相馬市・シロのはなし。

まずは自己紹介から、ですよね。

ボクの名前はシロといいます。6歳の男の子です。体重は、最近は測ってないけど、たぶん13~4キロくらいじゃないでしょうかね。福島県の南相馬というところで暮らしています。といっても、いまは本当のおウチではなく、カセツといって、小さなプレハブ作りの長屋の 4 畳半二間に、お母さんとユージ、おばあちゃんとボクの4人で住んでいます。 昼間お

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