ありま むさし

学生 / 20歳 / 忘れたくない思い出の記録帳

ありま むさし

学生 / 20歳 / 忘れたくない思い出の記録帳

マガジン

  • その日午後2時46分

    克明な証言や記録にはなりえませんが、7年経っても記憶は確かにあり、思う所もある。曲がりなりにも書き残そうと思いました。

最近の記事

軽率に好きだと言って

大学に入ってからというもの、色々な創作者と出会う機会が増えた。映像に演劇に詩に音楽にイラストに、きらきら光る作品を生み出す人を、自分のすぐ間近に見れるようになった。不思議な縁があって、僕もその一人になった。作品の面白さが、嬉しくて楽しいだけじゃない、苦しさの底から見出されたとてつもないものだと知った。 何かを観に行ったり読んだりしてそれを受け取った僕は、気付けば使命感を抱いて、創り上げたその人に向かうようになった。「この作品好きです、僕は!」と一言でも伝えるようになった。

    • 何もかもがダメではなかった(8月31日の夜に)

      飽きるほど長いはずだった夏休みが走り去り、明日から学校が始まる。まだ身体は家に居るのに、学校は始まっていないのに、「帰りたいな」と思ってしまう。そんな8月の終わりを何年も繰り返してきたように思う。 中学の頃、その憂鬱は一段大きくなっていた。僕も変にひねくれていたのだけど、何をやっても馴染めない、周りがつまらない、そんな環境にわざわざ戻らなければならないのが虚しかった。 でも、学校の全部が、何もかもがダメなわけじゃないと心のどこかで思っていた。落ち着ける図書館があった。気さ

      • その日午後2時46分・福島

        11日のうちに親戚から連絡が来て、福島市内に住む祖母は無事だと分かった。家では台所の食器が割れて床中に散らばり、壁にヒビが入ったという。しかし本人は普通に元気に過ごしていたらしい。ひとまず胸をなでおろした。 一方で震災のニュースは恐ろしさを増すばかりだった。津波に呑まれる町の惨状。避難する人々の表情。そして、原発。距離があるとはいえ、祖母が住み、母や自分が産まれた県が、あまりに強烈な力に押し流されていく。そして、ただテレビを見続けるだけの自分と家族。中学の学年集会では、ある

        • その日午後2時46分・東京

          まだ中学1年生の春だった。 三年生を送る会、略して三送会という集まりが、5時間目を使って体育館で行われていた。司会役の生徒がアナウンスして、冒頭に校長先生の挨拶。僕はいつもの朝礼通り、ほどよい姿勢を保ってほどよく聞き流していたはずだ。 ふっと体が傾いた気がした。その瞬間体育館中にざわつきが広がり、気のせいじゃないと分かった。地震だ。それも妙に大きい——と感じた時には、今まで感じたことの無い揺れに襲われていた。あまりの強さに、恐怖というよりは何が何だか分からないような、妙な

        マガジン

        • その日午後2時46分
          2本

        記事

          新しい眼鏡

          昨年の春に眼鏡を変えた。3代目になる。大学生になってブルーライトな毎日を送るようになり、一段と視力が下がった気がする。いや高3あたりからもうきつかった。だがいざ変えるとなると面倒で、ほうっておいたら2年が経った。帰宅途中の大通り、目の前を走るトラック。その大きな「宅急便」の文字すらぼやけて見えて、初めて自分にぞっとした。何かは知らないが、このままでは「終わる」と思った。 大学前の眼科で視力検査を受けた。右目の視力はやっと0.1、左目は0.3。背筋がひやりとした。お医者さんが

          映画館を知った時

          映画は好きだが、普段めったに映画館へは行かない。この歳になるまで、行った回数は片手で数えられてしまう。特別嫌な思い出があるわけではない。なのにどういう訳か足が向かない。遠出する必要やらお金の問題やらもあるが、何か自分の根っこのある部分が、行く事を避け続けているような気がしてならなかった。 去年の誕生日頃、母からそれにまつわる思い出を聞かされた。まだ私が幼稚園児の頃、一家で隣町のサティ(今やことごとくイオン)へ訪れた。その時私は、最上階にある映画館の「入口」を見ただけで大泣き

          映画館を知った時