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その日午後2時46分・東京

まだ中学1年生の春だった。

三年生を送る会、略して三送会という集まりが、5時間目を使って体育館で行われていた。司会役の生徒がアナウンスして、冒頭に校長先生の挨拶。僕はいつもの朝礼通り、ほどよい姿勢を保ってほどよく聞き流していたはずだ。

ふっと体が傾いた気がした。その瞬間体育館中にざわつきが広がり、気のせいじゃないと分かった。地震だ。それも妙に大きい——と感じた時には、今まで感じたことの無い揺れに襲われていた。あまりの強さに、恐怖というよりは何が何だか分からないような、妙な感情へ辿り着いたのを覚えている。圧倒だった。抱かれるはずのすべての心情が踏み倒されていった。

半ば怯え、半ば呆気にとられたまま、全校生徒と外へ避難する。グラウンドに出てからは、余震が容赦なく続いた。ひときわ大きなものが来た時、隣にあった私立の中高一貫校の建物が目に入った。今でも鮮烈に覚えている。僕らの中学とは比べ物にならない、20階はあったはずの校舎。それが上層の方から激しく、プリンのように揺れていた。今思えばあれは一種の免震設計だったのだろうか。けれどその時は強烈に、ただぞっとした。周りの生徒も悲鳴を上げた。最初の地震では感じ切れなかった恐怖が、ここで初めて見えてきた。

「震源がだんだん関東に近づいています」

主任教諭が生徒に向かって言い、一段と校庭はざわめいた。とにもかくにも、教室においてあった荷物を、学年ごとに順番で取りに行くこととなった。1年生の教室は3階なので、誰もが必死に声を上げて走った。また揺れが来るかもしれない。でも行くしかないとみんな分かっていた。中学というのは人間関係もカーストもなんだか分からない。そんな自分たちの学年が、あんなに一つの方向へ駆けて行ったのは、後にも先にも無かったように思える。

帰れる人から帰ろう、という話になった。家の近い人同士は固まって行ったが、僕は一人になった。恐ろしさと孤独と無常さでざらざらした気持ちだった。家に着くと母親がNHKニュースを見ていた。津波です、津波ですと必死で呼びかけている。

「あ、これ、大変なことなんだ」と言うのが、当時の僕の精一杯だった。そうして後はただ、福島市内に住む祖母のことを思い始めた。

#エッセイ #記録 #3月11日 #2時46分 #東日本大震災


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