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その日午後2時46分・福島

11日のうちに親戚から連絡が来て、福島市内に住む祖母は無事だと分かった。家では台所の食器が割れて床中に散らばり、壁にヒビが入ったという。しかし本人は普通に元気に過ごしていたらしい。ひとまず胸をなでおろした。

一方で震災のニュースは恐ろしさを増すばかりだった。津波に呑まれる町の惨状。避難する人々の表情。そして、原発。距離があるとはいえ、祖母が住み、母や自分が産まれた県が、あまりに強烈な力に押し流されていく。そして、ただテレビを見続けるだけの自分と家族。中学の学年集会では、ある先生が「自分も知り合いと連絡が取れなくて……」と涙ぐんで言った。

僕はそれらの中で、中途半端な立場に居る自分を感じていた。誕生したのは紛れもなく福島市の病院だが、育ちは完全に東京である。愛着があるのは今住んでいる町だし、福島はあくまで「おばあちゃんの居る田舎」という認識だった。だがもはや変わってしまった。常に心のどこかでそれについて考えざるをえない、そんな場所になった。

風評被害の報道に母親は怒って、しっかりとスーパーにあった福島産の野菜を買って、僕らに夕飯を作ってきた。美味しいに決まっていた。そうして僕は、今まで通りじゃなくなったからこそ、今まで通りに接するしかないのだ、と思い始めた。だから変わらずに帰省して、変わらずに祖母と話し、変わらずに街を見て回った。それがせめてもの出来ることだった。

先月末の帰省。あらためて2階の部屋を見渡し、衣装ダンスの上にあるものへ目を留める。木製の枠でできた、何の変哲も無い置き時計。しかし時針は動いていない。もう動かないのだ。金色の振り子は根元から外れている。後ろの白壁にさえも大きなヒビが入っている。

その日午後2時46分。揺れで落下して、そのままになされた姿。

止まった針の重みがずんとのしかかる。僕の考えてきたことが、些末だが果てないことだと実感させられる。事実、7年はあっという間に経ってしまった。僕や弟は進学し、両親も祖母も環境も、色んな変化があった。それでもその気持ちは変えるはずもないし、これからも同じように思っていくつもりだ。

ささやかだとしても、今まで通り——もとい、その日のその時まで通りに。

#エッセイ #記録 #3月11日 #2時46分 #東日本大震災

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