必要なのは足し算じゃなくて、引き算

これまで真面目さを武器に、過ごしてきた私は誠実さ、堅実さ、謙虚であることなどを掲げて生きてきました。

数分の遅刻にもカリカリと焦っては必要以上に謝り、少しのミスで自分のことを一日中責めて帰宅後はひとり反省会を行い、数日落ち込んでいるような自分への厳しさを人一倍持っていました。

完璧主義と呼ばれるものでもあったので、
思い通りにことが運ばないとイライラしたり人を待たせてこなかった分、人を待つのも嫌いで人に対しても同等の厳しさを持っていたと思います。

「人のために尽くすこと」が本当に美しいと信じてきた私は、多少の自己犠牲も厭わず進んで周りの人を助けようと動いては、
それによって相手から「ありがとう」と言ってもらえることに喜びを感じ人から認められることで自分の価値を測るようになっていたので、人の役に立たない自分にはなりたくないという思いも比例して強まっていたんだと思います。

だから、働けなくなった時、本当に自分の存在意義がなくなってしまったような感覚に囚われてしまい、こんな自分は生きている価値がないんじゃないかという考えにまで至ってしまっていました。

「人の役に立つ」「人を助ける」「誰かに喜んでもらう」
一見美しい言葉でこういったことを掲げていてもたいてい否定されませんが、これは見る角度を変えれば
「人から認められないと幸せを感じられない」「誰かに〇〇という言葉を貰えないと満たされない」「困っている人がいないと、喜べない」ということになるのだと、身をもって体感しました。
また、価値を他人に添わせて決めることになるので、自分の人生を放棄していたことと同じだったと気付き、実はいちばん自分の人生に対して無責任な生き方をしていたなということが見えました。


なぜ、良い企業で勤め良い成績を出しても自分が満たされなかったのか?

多くの人の役に立っていても、虚しさが拭えなかったのか?

どうして自分の健康が損なわれていってしまったのか?

今ならとても良くわかります。

そのことが分かり、私はつなぎとして所属していたアルバイトを辞めて
その日に食べたいと思った好きなものを食べ、心ゆくまで昼寝をして毎日好きなことだけをする生活を始めました。

仕事をしていないということが、自分の中ではとても社会から外れたダメ人間という感覚があったのですが、辞めたところで周りの友だちや新しく出会う人にバカにされたりすることはなく、
なんだこんなことだったのかと拍子抜けしたことを覚えています。

好きな動画を見て笑って歌を歌ったり近所の川沿いを散歩しているだけでしあわせを感じられるようになり、はっきりと分かったことがあります。

自分が幸せになるのに、肩書きも社会のステータスも多くの貯金も何も必要なかったというです。


だから今、とても生きやすいです。

今日好きなものが食べられれば幸せ
話したい人に会いにいくのが幸せ
好きな歌をなるべく大声で歌って、面白いマンガをよんでよく笑う、そして夜ぐっすり寝て明日朝に起きられることが幸せです

余計なものをたくさんたくさん勝手に背負い込んでいただけで、自分の道を歩いていくのにはぜんぶ要らない荷物だった。
何か満たされない感覚に悩んでいる時、実は何かが足りないんじゃなくて、持ちすぎている
そういったことがよくある気がします。

余分なものが多いだけだから
それを捨てれば、身軽に楽に生きていける

私は足し算じゃなくて、引き算が苦手だったのです。

🔽私が引き算を始めて体調と精神が劇的に変わったエピソードについても、是非ご覧ください。



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