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つぶやき(哲学)

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哲学をつぶやく
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約束について。
約束をすると人は実際それに縛られる。まあ外部からの強制力を自分に課するのである。だがしかしそれは相手を安心させるためのこと、つまり気休めなのである。だから約束とは間に合せのそれのために長期的に自分を制約する行為でしかない。まあもっとも、仕方のないことなのだが。

書くことと言うこと。
往々にして人間は思いを表出したい。その手段の一つに[書く]と[言う]という手段がある。そしてこれらは「思い」と「考え」という予め漠然と言語化された心象を用いる。そしてそれらの手段はその言語化されたそれの保管と明示のことで、それは確認ということなのである。

ダメ人間とは何か。
[自分はダメだ]と嘆いている彼に話を聞いたところ、それはおおよそ人の客観視への不満や主観視によって擬似的な客観的非難を自分に浴びせているようだが実際、本当のダメ人間とは、[変われぬ人間]のことでしかない。なぜなら、その理論ではみんながダメ人間だからである。

論破の方法。
常に受け身の姿勢で相手を動揺されること。これこそ唯一の方法。でも論破よりも円満解決を目指そう。まあ、円満解決ができる人こそ頭の良い人である。論破は簡単でそれは難しいから。

なぜ理解できないのか。
理解できないのは全くもって分かっていないからでしかない。つまりは、一つ一つを理解できていなかったり、関連付けを間違えているが故に人間は理解できない場合があって、つまりは人間の理解力には確かに明らかな限界があるのだが実際、我々人間の理解力は同程度なのである。

効率化について。
効率化を図ってミスをするということはよくある。しかし、だから良くないということではない。僕は、効率化が必要なのは明確な損害に対してだけで実のところそれ以外では必要ないからそれはただ危険なだけだ、と言いたい。殊更効率化を図って疲れるなんてことは阿呆でしかない。

悪とは何か。
世俗的には人間が悪になりうるのは自分の価値を内的にも外的にも高めて自負し誇示するからで、つまり自負心こそ悪であると認められている。そしてそれは他を虐げうるからである。では例えば、誇示しなかった場合どうだろうか。まあ、まず自負しているのかどうかすら分からないだろうが。

頭の良さについて。
頭の良さとは経験によって得られた知識をうまく関連付けて、そしてそこから普遍性、絶対性を見出し、そうして理論や法則を論理的に構築し、そしてそれを頑固に守りそれは当然のことであるとして感覚的に遂行し、そして無駄に気にしない、ということが頭の良さだと僕は思う。

純粋理性について。
個々の判断には実際何が含まれていて何が含まれていないか。また、絶対共通しているものは何か。(人間の現実的可能性の範囲内で)それは恐らく真理に対する誓い、すなわちそれに従って生きるという誓いなのではないだろうか。人間は純粋認識における正しさを常に追求している。

誓いについて。
僕は君を裏切らないと彼は誓った。がしかしそれは実のところ気休めでしかない。というのも、誓うことで人は相手をなだめるわけだがそれとは実際約束のことであってそして約束とはその場しのぎのそれに過ぎないからだ。なぜと言うに、人は約束によって少なからず自分に期待するからだ。

結婚について。
結婚とは一生の関係であることを誓うことに過ぎないのではないだろうか。もっとも、法的な何かしら及び価値観、特に倫理観や人生観の行き違いという障壁はあるのだろうが。しかし、人文を放っておいて自然人としての人間を取り上げるに、多分儀式とは単なる誓いなのではないだろうか。

成功について。
人間には絶対的幸福がある。しかし同時に人間には先天的欲望がありそれらを人は幸福のための手段であると解してしまう。しかしそれとは実際、人間が人間的価値に幸福を据えているからで、しかしそもそも価値というものに幸福はなく、本当の幸福とは生きるそれ自体のことなのである。

詩なるものとは。
音楽家たらしめているものが「音」ならば、詩人たらしてめているものは「文字」あるいは「感情」あるいは「理性」なのでないだろうか。そして加えて、それの言語化、それの上で先駆者に似通ったそれを詩なるものだと私は考える。まあ、これだけの説明では若干の手抜かりがあるが。

詩たらしめているもの。
詩を読んで人は感じて考えるようである。そしてそれは実際、詩なるものがそれを目的としているからでしかない。すなわち、本題のそれの正体とはその目的であり、そしてそのためには感性や知性を要するのである。もっとも、みんながみんな目的意識を持っているとは思えないが。