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【雑記集】※いたって個人の感想です。

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雑記・随筆も、書くのが楽しいですね。いや、雑記や随筆こそ、書くのが一番楽しいかもしれません。 そしてこの誰に宛てているわけでもない文章が、漂流して、まったく見知らぬ(かもしれない…
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2022年11月の記事一覧

「大人の過信」と「子供の過信」

「大人の過信」と「子供の過信」

大人に限らず子供に限らず、
「過信」は
誰もがするものである。

しかし、
「経験も乏しく」
「蓄積している知識も少なく」の、
単に比較的思慮が浅いだけの場合が多い
子供の「過信」より。

「経験はそこそこある」
「知識もそこそこ蓄えている」の、
そこに基づいて「しまっている」、
「大人の過信」のほうが、
危険度は高い気もする。

「根拠のない過信」
と、
「根拠がある(と思いこんでいる)過信」

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互いを小バカにし合っているこんな世の中じゃ…

互いを小バカにし合っているこんな世の中じゃ…

POISON!である。
(わからない人はわからない
タイトルと出だしでゴメンナサイ。)
(って、説明はせんのかい!笑)

いや、一昨日の
「サンドイッチ」の話。

「騙し」が
世の中のデフォルトになっているのが厭だ、
という話を書いたが、
騙しは騙しでも、
巧妙でもなんでもなく
「子供騙し」みたいな「浅い」やり方が
これまた更に嫌なのだと思う。

「人を小バカにする」を
互いに、当たり前のように、

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「当たり前」の功罪

「当たり前」の功罪

例えば、
十代の若者に対しては
わざわざ「若いですね」と
(褒める意味では)言わないのである。

つまり
「当たり前」になっている
「良きこと」は、
わざわざ
「素晴らしい!」とか
「恵まれている!」とか
感じないものなのである。

――で、まあ、
私が個人的に享受している
「豊かさ」なり、
「平和」なり「安全な生活」なり、
「自由に書けること」なり、
そして「健康」なり。
――そう、こういうのも

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人は面白がりたい生きものだ-現実こそ「自分で描く」-

人は面白がりたい生きものだ-現実こそ「自分で描く」-

基本的に、
「嫌なこと」というのは、
逃げたり除けたり避けたりして
いいものだと私は思っている。

寒い所から暖かい所へ、
暑い所から涼しい所へ、
自然と移動しようとするのと
それは同じである。

「いいえ、それでも私は、
このことについては、
逃げたくも除けたくも避けたくもないのだ」
と、
(誰かから言われたから、とか
周囲の目が気になるから、とか、
そういうことからではなく、
「自らの」その)

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「モノ」を粗末にすると?

「モノ」を粗末にすると?

「本人が大切にずっと使っていたもの」
とか
「本人の本当にお気に入りのもの」
とかだったら、
自分の場合、
遺品として残してしまっても、
そこまで迷惑に思われないかなあ。

なんて考え始めている。

――いや、いきなり何の話?
って感じかと思うんですけど。(笑)

自分、独り身なもので、
突然死でもしようものなら、
この部屋にあるもの、
全部そっくりそのままこのまんま
ここに残していくことになるわ

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「すべてが借り物」なら自分がこの世に残せるのは「形ないもの」しかないのか

「すべてが借り物」なら自分がこの世に残せるのは「形ないもの」しかないのか

「生命体としてこの世に居られる時間が有限」であるとするなら。

その次はやはり「あの世」なのだろうか。

――うーん。
但し、「この世」ではないはずだから、「今いるここ」みたいではないはずである。
つまり「触れられるもの」が何かしら存在するような「物理的世界」ではない気もするし。
いや、「物理的世界」以前に、そもそも「私という意識」言うなれば「私と言う存在」が、個体(個人)の「私」のまま、残ってい

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かつては「永遠に生きる」かのような感覚でいた

かつては「永遠に生きる」かのような感覚でいた

「老い」「衰え」についてはもう、
30代の頃から、
ポイントごとに感じ始めてはいたのだ。

しかしそれが
「生物としての終わり」には
イメージとして全く
結びついてはいなかった。

――多分、その頃まではまだ
「生命体として終わりを迎える」
なんて、
実感を伴って思ってはいなかったのである。

「人生は終わりなく続いていく」。
つまり、
「まるで永遠に生きるかのような」
感覚でいたのだと思う。

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「ここから全ては始まっていくのだ」と思えばいい

「ここから全ては始まっていくのだ」と思えばいい

「ここからが挑戦なのだ」
と、思うほうがいい。

「おしまい」のほうにばかり
目を向けていることもない。

目を向けていなくても、「すべてのこと」は、自ずと、必ずいつかは、終わっていくのだしね。

「終わっていくもの」は概ね
慣性でそのまま進んでいくことも多いし、
ならば
「そっち」ばっかり凝視していても
仕方ないような気もしてきたのである。

ここまでうまくいったことも、
うまくいかなかったこと

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「いじめ」「パワハラ」について考えること

「いじめ」「パワハラ」について考えること

この台詞は、私がかつてこちらの小説に書いた、ある登場人物の台詞なのであるが。

で、この台詞、すっかりそのまま、「私個人の意見」でもある。

いや、もう少し正直なところを書き足せば、私にだって人に対する「意地悪な気持ち」自体が、胸の内に芽生えることくらいはきっとこれまでにあった。
しかし、それを実際に「虐め」だの「ハラスメント行為」だのに、そのまんま移行させたりは絶対しない。
――「そういう気持ち

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「平行線の議論」はどこまでも「平行線」を辿るものだ

「平行線の議論」はどこまでも「平行線」を辿るものだ

「平行線の議論」というものは概ね
そのまま「平行線」を辿るものである。

「話が通じない人」というのは、
どこまで行っても、
「話が通じない」ものであるからだ。

――以上の「実感」は、
私の現実生活における
経験則も含んでいる。(笑)

ところで。

私はやったことはないけど、
SNS上で散見される「議論」は、
なおさら上記の傾向が強い気がする。

特にその人の
「信条」みたいなものが絡んでくる

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正解をつくるから不正解ができる

正解をつくるから不正解ができる

「全てが正解じゃなきゃ嫌」

「不正解がどうしても許せない」
というのなら、
いっそもう何も考えず、
「全部正解」にしてしまえ!と思う。

そもそも。

「正解」なんてなかったら、
「不正解」も存在しなくなるのだ。

「不正解の存在をどうしても許容できない」
という考え方は、やはり窮屈である。

――その窮屈さに耐えられる人だけが、
「正解」をどこまでも
追いかけ続けられるものなのかもしれない。

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私が「自虐ギャグ」を使ってしまう理由

私が「自虐ギャグ」を使ってしまう理由

「謙虚」ではいたいが、
「卑屈」にはなりたくない。

……などと言っている割に。

私は「自虐ギャグ」を
好んで使ってしまう。

――いや~、しかし、
これだけは
見逃してもらえないだろうか。(笑)

わかっているのである。

「言われても
どうリアクションしていいかわからん」
ハイ、わかってます、わかります。(笑)

「言う側」から
その正解を言わせてもらえば、
「テキトーに流して」
「困るなら

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「不快な感情」は自らの感覚を狂わす

「不快な感情」は自らの感覚を狂わす

まず、ごく一例として。

正反対であるはずの
『慢心』と『卑屈』は、
意外と同居しやすい。

心というのは
「バランス」をとりたがるものだと思う。

なので、
ある部分で「卑屈」になればなるほど、
まるでそれを埋め合わせるかのように、
違う部分でどうも
「慢心」になりたがる、
そんな習性もまたある気がしている。
(もちろんそうじゃない人もいる。
ひたすら卑屈、
あるいは、ひたすら慢心、
そういう人

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「うらやましいもの」が「本当に求めるもの」でもない気がする

「うらやましいもの」が「本当に求めるもの」でもない気がする

本日は
「私だけのメリット」
――つまりは、
「こんなことにメリットを感じるなんて
自分だけかも?」
という
「オリジナルメリット」
(と、勝手に名付けてみました。笑)
(はじめはこちらをタイトルにしたのだが、
内容がわかりにくいので変えました。)
の話である。

昨日の記事内容は、
言いかえれば、
「ブスッとした顔から始めると、
再び
ブスッとした顔で帰結することになるよ」
という
自分への警告

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