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正解をつくるから不正解ができる

「全てが正解じゃなきゃ嫌」

「不正解がどうしても許せない」
というのなら、
いっそもう何も考えず、
「全部正解」にしてしまえ!と思う。


そもそも。

「正解」なんてなかったら、
「不正解」も存在しなくなるのだ。



「不正解の存在をどうしても許容できない」
という考え方は、やはり窮屈である。

――その窮屈さに耐えられる人だけが、
「正解」をどこまでも
追いかけ続けられるものなのかもしれない。


さて、
自分の場合は……どうだろうなあ?

(……自分の胸に手を当てた、
その考えをまとめてみた。)

私は「許容できない」という感情や
「窮屈さ」は、
とにかく苦手だ。

なので、
「不正解も許容できる」範囲だけ、
「正解」を設ける、
ということにしようかと思う。


それ以外は
「全問正解」、というか、
「正しいも間違いも、
もうしょうがないよ、
そこに存在している事実には
敵わないんだからさ」
みたいな精神でいこうかと思っている。

「思い悩む」ことそれだけで
結構消耗するので、
もうなるべくならそこをとにかく
避けて通りたいのである。
(もうそこまで体力とか時間とかが
有り余ってないから。笑)



「正解・不正解」
――それは時に
「善悪」に、あるいは
「損得」に置き換わったりもするものだけど。

いずれにしても、どうしても、
それは、
個人のものの考え方や
感覚に拠るところもあって、
と、なると、
「人の数だけ」存在してしまうことになり、
最終的には
「その人がそれと信じるもの」が
(もちろんそれは変更されることはあるけど、)
その人にとっての
「正解・不正解」にしか
なり得ないわけであるからして。


で、あるならば。

「自分の気分に都合よく」、
「正解・不正解」が
「変動」したっていいではないか。

――だって長い時間軸で捉えれば
元々、
「世間」という
大多数が共有している「正解・不正解」すら、
そういう
「移り変わっていく」性質のものなんだもの。

ならば、ましてや一個人のそれなんて、ね。


……てな割り切り方をおぼえてしまった、
「気楽になりたがり」で、
「気ままに生きたい盛り」の
中年男の、これは個人的メモ書きである。


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