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「大人の過信」と「子供の過信」

大人に限らず子供に限らず、
「過信」は
誰もがするものである。

しかし、
「経験も乏しく」
「蓄積している知識も少なく」の、
単に比較的思慮が浅いだけの場合が多い
子供の「過信」より。

「経験はそこそこある」
「知識もそこそこ蓄えている」の、
そこに基づいて「しまっている」、
「大人の過信」のほうが、
危険度は高い気もする。

「根拠のない過信」
と、
「根拠がある(と思いこんでいる)過信」
の、
その違いと言えばいいのか。

――うむ、やはり、
後者のほうが怖い気が、
私はするなあ。


そこに加えて、
「過信している大人」を、
信じ切ってついていってしまう、
そういう人もまた現れるので、
――「過信」の「伝播」とはこれ、
なかなか厄介なのである。
(口伝えに人から人へと伝わることって、
何故か途中途中で
立ち止まって検証されないことが
多いのだよなあ。
――基本的に人はその習性として
「疑う」より「信じる」のほうに
傾きやすいものなのだろうか。
あるいは単に
「パッと決めつけ飛びつきたがり」の
「めんどくさがり」が多い、
ということかもしれぬが……。)

物事について、
わからないものについては
「まだわからない」と
言い表せる人、捉えられる人こそが、
「本当の大人」という気もする。

――そう、案外
「保留」「どっちつかず」というのは、
心が定まらなくて、
落ち着かないから、
そういう「グレーゾーン」を
人はつい避けてしまうものなのだが。

しかし、
「グレー」は「グレー」なのだから、
「根気有る観察力と判断力」で
本来そこに留まらなければいけないのだ。

そう考えると。

「決めつけてかかる人」と
「それを信じてついてく人」と、
そういう人々こそが、
(意地悪な見方をあえてすれば、)
「疑いの余地あり」な人に
私には見えるのである。

とはいえ。

「過信して突っ込む」
そんな「思い切り」も、
必要なことは
この先あるかもしれないから、
(なるべく少なくしたいけど、)
そういう時はやむを得ないので、
「私はまだまだ未熟な子供なのだ」
と、度々自分をも
「疑うべき存在」と認識しながら、
突っ込んでいくようにしたいと思う。

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