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「当たり前」の功罪

例えば、
十代の若者に対しては
わざわざ「若いですね」と
(褒める意味では)言わないのである。

つまり
「当たり前」になっている
「良きこと」は、
わざわざ
「素晴らしい!」とか
「恵まれている!」とか
感じないものなのである。

――で、まあ、
私が個人的に享受している
「豊かさ」なり、
「平和」なり「安全な生活」なり、
「自由に書けること」なり、
そして「健康」なり。
――そう、こういうのもまた
改めて感じようとしないと
私なんかは
「素敵!」「素晴らしい!」とも
「ありがたい!」とも
感じていなかったりして。



しかし。
――よくよく考えてみれば。

「当たり前」は、
「安心」の土台になっていたりもするから。

「かけがえないこと」が
「当たり前になっている」。

このことこそが、
最高に、
素晴らしいことなわけである。

(どこかでちゃんとそのことに
気づいておきたいものだともまた
常々思ってはいるけれど!)

で、
「人に(心身ともに)暴力を振るうな」
とか、
「差別するな」とか
「搾取するな」とか
そんな
「当たり前」になるべきものこそ、
いつか、本当に
「当たり前」になって欲しいとも思うし。




ふと思い出したことがある。

こんなツイートが
この間、話題になっていた。

「値段を考えればこんなもんだ」
とか、
「見た目を盛って
(言い換えると偽ってだが)
購買意欲を掻き立てるのは
日本の商売の仕方、文化だ」
とか
「嫌ならもう買わなきゃいい」
とか
そういう「反論」もあるようだが。
――いやいや、
そういうことじゃないんだよ!
と、
それらの「反論」については思う。
(いろんな意見があっていいのでしょうけどね。)


「この先長く続く信頼」を捨てても、
「刹那的に儲かればそれでいい」
などという
「小賢さ」「セコさ」、
もっと言えば
「了見の狭さ」
「商いというものに対する感覚の貧しさ」
が、
何だか人をガッカリさせたという、
そのことなんだよなあ。

せっかく日本人のことを
(わからないけど、きっと)
「真面目」で「誠実」で
「人を騙さない」と
思って(思いこんで)いただいていただろうに。
――でも、
こういう「小さな騙し合い」に
実は我々日本人は
(外国の文化は知らないが)
(これがもし世界的なものだったら、
もっとイヤだな、ってだけの話。笑)
もうとっくの昔から
慣れ合っていますよね?
――「そりゃあ、
世の中ってものは大概が、
そんなもんじゃないですか?
知ってます、わかってます、
だからもういいじゃない?」
っていう。

ま、もちろんその中で
「コメダ珈琲のサンドイッチは違う」
とか
いろいろあるだろうけど、(笑)
いやいや、そういうことではなく、
私が「悲しくはないですか?」と
問いたいのは、
(なのでこれは「怒り」でもない)
個別の商売の仕方の話というより、
「騙しがデフォルトになっている」
という、
そういうことのほうが当然で
最早驚かなくなっている
「社会の空気」、
――「世の中全体の風潮」のことなわけだ。


随分慣れ切ってしまっている
「長期の信用より
今すぐ儲けることが第一」
という
「気ぜわしい拝金主義」が、
実は「がめつい」
もっとハッキリ言えば、
「みっともない」ということ。
――何だかこれでは、
我々「誰もが気づいていない」に等しい。
(だって、この場合の
「慣れてしまっている」って、
そういうことだから。)

――うん、まあ、
繰り返しになるが、私自身、
そういった事例の一つ一つに
いちいち目くじらは立てる気は
さらさらないが、
「自分はこういうのやる側には
できればなりたくないかなあ」
っていうくらいの意識は、
どこかで、いや、どこまでも、
なくしたくはない。
――世の中の「当たり前」が
そうであろうとも。
(あり続けようとも。)

(軽微ではあろうとも、
デフォルトであろうとも、
これは「騙しちゃえ」という意図があるから
まあまあ「罪」以前、行為としての
「詐欺」ではあると思うしね。笑)


「当たり前になる」って、
それが「安心」に姿を変えたりすれば
素晴らしいことであると同時に。

「安心」の基礎になるのが
「当たり前」という感覚で、
だから「気分が良くないこと」も
割り切って、あるいは慣れ合って、
「当たり前」にしてしまおう。
――と、このように、
「当たり前になる」って、
気づくと少々
「痛い」ことになっている可能性も
あったりするのだよなあ。



「馴れ合い」を通過して
「何も気づかないままでずっといる」
というのは、
いずれにしても、
「つまらない」ことだと思うから。

「当たり前」になっているものは、
どんなことについても、
折に触れて
「省察」してみたほうがいいのだろうな。
(そのほうが面白そうだから、
私はそうしたい、
というだけのことである。)