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かつては「永遠に生きる」かのような感覚でいた

「老い」「衰え」についてはもう、
30代の頃から、
ポイントごとに感じ始めてはいたのだ。

しかしそれが
「生物としての終わり」には
イメージとして全く
結びついてはいなかった。

――多分、その頃まではまだ
「生命体として終わりを迎える」
なんて、
実感を伴って思ってはいなかったのである。



「人生は終わりなく続いていく」。
つまり、
「まるで永遠に生きるかのような」
感覚でいたのだと思う。


さすがに40代も後半になると、
自分という魂を
唯一乗っけてくれる乗り物である
この「肉体」が、
「物理的なもの」であることを、
痛感し始めるようになる。

――所々、
その箇所が実際音を立てるかのように、
ガタピシ言い始める。

それは、
手持ちの「機器類」が、
年月の経過とともに
故障や不具合が多くなり、
いずれはその動きを止めるのと、
まるで同じであるかようで。

「体力が落ちた」とか
「頭が回らなくなった」とかなら
比較的「無音」に近く、
まだ誤魔化しが効いたのであるが、
「視力の衰え」であるとか
「毛髪の本数」であるとか、
如実に数値化できそうな部分は
(とはいえ、ま、
髪の本数は数えてないけどな。笑)
誤魔化すこともままならない。

「直面」して、
「対峙」――いやいや、
「折合」せざるを得ない。
(「私の肉体」は、
手持ちの機器類とは違って
「替わりがきかない」からである。)

「形あるものは皆必ず
いずれその形を失う運命にある」
――自分の肉体だけは例外、
なんてことはあり得ないのだが、
その「現実感」はどうも
私の場合、今頃遅れてやってきたわけである。

あとは「親の老い」にもまた
直面することで、
感覚が変わってくるところは大きい。

――「これは自分の三、四十年後」と
目の当たりにして思わざるを得ないからだ。


いや、祖父母の老いと死も
見ていたはずではあるが、
遠く離れて暮らしていたことと、
私が生まれた時点で
既に皆「老人」だったこともあり、
(うち一人は既に鬼籍に入っていた)
やはり「親の老い」とは、
感じ方が相当違う。
(何なら、
「親も永遠にいるもの」と
思っているフシが私にはあったかも?)

人間は生物の中では、
平均寿命はやけに
長めに設定されてしまっているし、
あとは文明社会の中にいると
「弱肉強食、常に命の危機と隣り合わせ」
という感じでもない。
――若い頃はそれでいいのだと思うが、
それにしても、
「永遠に生きるつもりでいた」とは
我ながら
「認識がユル過ぎ」とは感じざるを得ない。


例えば、犬でも猫でも、
人間より
「平均寿命がよっぽど短い」生命体に
その生涯を通じて触れると、
「命には限りがある」という感覚も
少しは違ってくるのかもしれないなあ、
とも思う。

……なんて今更しみじみ振り返りながら、
秋も終わりに差し掛かった
この時期のこの世界にうっかり
「迷い込んだ」あるいは
「居残ってしまった」
ミツバチなんかを見かけたりすると、
妙に自分と重なって
見えてしまったりして。


「越冬できない生物」にとっては即ち
「春夏秋冬」の一周がそのまま
「一生」となるわけだ。

それになぞらえると
(人間も「越冬できない生物」として
当て嵌めれば)
そうか、
私も(人生80年程度とするなら)
もう秋も真ん中あたりなのかあ、
なんてしみじみ考えてしまったり。
(まだどこか勘違いして夏、
下手すると部分的には
頭の中が春だったりもするので、
我ながら「狂い咲き」も
大概にしたいところではある。笑)
(……が、まあ、
そういう「狂った花」が
あってもいいと思うし、
「開花しちゃったんだから仕方ない!
狂い咲きした向日葵です!
あるいは、
花壇に一本だけ残ったチューリップです!
せっかくだから愛でてね!」
というスタンスも、
爽籟吹きすさぶ中
自分でも薄ら寒くも感じながらも
まあまあ、そこすら笑えるなら
アリであるとも思う。)


11月下旬、
今日は朝から雨である。

「終わっていくものを
ただ凝視しているより、
全てはここから始まると思え」
と、
昨日の記事で
自分に言って聞かせたことと、
今朝は正反対のことを
書いているような気もしないでもないが、
いやいや、違う、
「生命体としての自分が終われば
この世に存在できる自分も終わる」
と、思うことではじめて、
「地に足は付いた」気がするのだ。

「生命体の持ち時間には
必ず限りがある。」
――この「当たり前」を
実感して動き出してこそ、
「時間」が正確に
時を刻み始める気もする。


そして、
仮に「終わりがない」なんてなったら、
(それが仮にどんな楽しいばかりのことだとしてもそれでも)
それ自体がある種の
「罰」みたいになる気も今ならする。

――でも、
(己についてはつい
「うっかり錯覚」していたが、)
「終わり」がないものは、
何一つこの世にはないのか?

と、いうそこに
「神みたいなもの」からの、
むしろ
「やさしさ」「はからい」を
初めて感じたりもして。

そんな「現実」を「実感」できる時、
初めて、
「現実世界に触れてこそ
存在している(できている)」
自分を感じることができた気がする。

「この雨を冷たく感じられるのは
私の中に『体温』があるから。
――私がまだ、生きているからだ。」
なんてことを思う。






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