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「すべてが借り物」なら自分がこの世に残せるのは「形ないもの」しかないのか

「生命体としてこの世に居られる時間が有限」であるとするなら。

その次はやはり「あの世」なのだろうか。

――うーん。
但し、「この世」ではないはずだから、「今いるここ」みたいではないはずである。
つまり「触れられるもの」が何かしら存在するような「物理的世界」ではない気もするし。
いや、「物理的世界」以前に、そもそも「私という意識」言うなれば「私と言う存在」が、個体(個人)の「私」のまま、残っている保証もまたない。


つい「この世」基準で、「あの世」というものを想像しがちだけど。

しかし、私は世界というものについて、「この世」しか知らないのだから、「この世」みたいにしか世界というものを想像できない。――ということは、もう、「あの世」(があると仮定するなら)そのことは、「あの世」に行ってから考えるしかないわけである。――本来、あの世のことは、「想像すら成り立たない」「現世人の想像など遥かに及ばない」可能性もあるはずなのだから。


それよりか、である。

今は、今いる「この世」のことを考えたい。

だって!
なんと、自分はあと(多分)〇十年しかいられないだなんて、――ええっ?にわかには信じられないけど、本当ですか?!(本当です!!)
(って、いや、お前「にわかに」って、昨日散々そのことを自分でここに書いていたではないか。笑)


いや~、そんなことを考えると、「この世」から自意識が、ズレ落ちていきそうになる。――かろうじて地面との接着点でのみ、この世と繋がっているような感覚と言えばいいのか。――自重と重力がなくなったら、そのまま自分が、この世からフワフワ離れていってしまいそうな、そんな感覚。

「生きている自分」とは、――ひええ~っ、なんて、心もとないのだ!


この世のこの世界は、(多分、)私がいなくなっても、そのまま続いていくというのに?
――そう考えると、「かろうじて現世にいさせてもらえている」そんな気すらしてくる。(雨上がりの晩秋の紅葉が目に沁みます。――老眼です。笑)

「あの世にモノやお金は持っていけない」なんてことがよく言われる。

――そうか~、ぜ~んぶ、残していくことになるのかあ。

私がこの世からいなくなった途端、私が所有していたものはすべて、「この世」にお返ししなければならなくなるわけだ。
――なるほど、そのように、自分の人生より長い「本来の時間軸」というもので考えると、私の持ち物は、全部「いっとき借りているだけのもの」とも言えるわけだよなあ。


この世にあるものは、すべて「借り物」なわけですな。
――「自分のもの」は、実は一つもない。

下手すると、自分の身体すら、借り物だと言うことができる。
――この身体の姿かたちはいずれなくなるし、「魂の乗り物」としての機能はなくなるわけだけど。
しかし、その「自分の身体の材料」となっている「原子」までは、「この世」から消えてなくなるわけではなく、「遺される」のである。――「原子」レベルではすべてをそっくりそのまま「この世」――まあ概ねその具体的返却先はこの「地球とその大気圏」になるでしょうけど、――ここにお返ししなければならないわけである。
(文字通り「土と、天に(水分、つまり水蒸気のほうは)還る」ということですね。)

うむ。

「これはオレのものだよ!」っつって、ドラえもんの「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」ジャイアンよろしく、その限られた一生涯かけて、片っ端から手に入れることばかりに執心している我々であるけれど。

――そうか、「ぜんぶ借り物」で、「最期は自動返却(強制)」なのか、と思うと、その「粗暴な生きざま」さえ、なんだか「儚い夢」の感じすらもまたしてきてしまう、我々人間である。


「形あるもの」は、この世の「物理的オキテ」で、「すべていずれは必ずその形を失う」のだと考えると。

「形ないもの」で、この世に、何か、「素敵なもの」を、なるべくなら残していけたらいいのになあ。

――なんてなことを、思い始めて、ますます秋深し、である。


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