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人は面白がりたい生きものだ-現実こそ「自分で描く」-

基本的に、
「嫌なこと」というのは、
逃げたり除けたり避けたりして
いいものだと私は思っている。

寒い所から暖かい所へ、
暑い所から涼しい所へ、
自然と移動しようとするのと
それは同じである。

「いいえ、それでも私は、
このことについては、
逃げたくも除けたくも避けたくもないのだ」
と、
(誰かから言われたから、とか
周囲の目が気になるから、とか、
そういうことからではなく、
「自らの」その)本心から、
思えることについてなら、
その時はそうすればいいだけであって。


で。

その
「逃げたくない除けたくない避けたくない」
と、
自分から決めて向き合うことについての話。

――しかしまあ、そのことも結局、
酷く寒かったり暑かったり
することに変わりはないわけである。


でも、この国には元々
「猛暑」と「酷寒」というものがあり、
今どきだと割とどこに暮らしていても
気候的にこれには直面しているわけです。
(アレ、急に何だか
ただのお天気コーナーみたいになってきた。笑)


私達って、ジーっと、
夏をただ「暑さを耐え」だけで、
冬もまた「寒さを耐え」だけでは
過ごしていないわけです。

真夏とか真冬のような
しんどい季節は、
「その季節なり」の「面白み」を、
意地でも、でもそれは自然と、
そこに調味料のように添加しながら、
過ごしている気がするんですよね。
それは言うなれば人間というものの
「面白がらずにはいられない性質」
というか。

例えば、
冬より真夏のかき氷だし、
夏より真冬の鍋物、
じゃないですか?やっぱり。
(って、例えが食い物ばっかりだな。笑)
いや、でも、
この国の気候が「春・秋」だけだったら、
わざわざキンキンのかき氷とか
熱々の鍋物とか、
こんなに楽しい感じには
盛り上がってないんじゃないですかね?
(もちろん食べ物以外にも、
いろいろありますけどね。笑)


――で、あるなら。

例えとして出したのは
「暑さ」「寒さ」の厳しさだったが、
でもそれだけではなく、
他の「現実の厳しさ」も、
ただ「厳しいなあ」と感じるだけではなくて、
そこだからこその何か
「面白がれるポイント」なんかを
付け加えながら。
――と言っても、そう、これは、
「自分で意識的に探しに行く」
しかないのだが。
だって、
勝手に向こうから「面白く」は、
なかなかなってはくれないので。

でも逆に言うとそれは、
こちらの「気の持ちよう次第」
ということにもなるから、
案外、ありがたいというか
都合がいい。
「こっちの気持ちや着眼点」を変えれば、
向こうの「現実」側も変わってくれる、
と、こういうわけなのだから。

いくつか前の記事で
現在放送中のドラマ
「エルピス」のことを書きましたが。
(ますます面白くなってきました!)

脚本の渡辺あやさん曰く、
やはり
〈「楽しめる」ポイントがないと、
「厳しい話」というものは
人の間に浸透していきにくい〉
とのことで、
それは念頭に置いて
脚本執筆をされているそうなのだが。

――言い換えるとこれは
「厳しい内容こそ
面白く書く」
とも言えるということになるのか。

(とても丁寧に書かれている作品だから、
こうして単純に言い表すのも
どうかと思いつつも、)
重苦しい展開の中にも
やはり「痛快」に感じられる部分が
入っているのがいいし。

「人間社会の現実」こそ
「風刺」することで、
目をそらすことなく興味を持って
観察していける、
ということもある。

そして、
人間というもののその悲哀すら、
「物語」「作品」という俯瞰で見ると
どこか面白がれるのがいい。

あるいは、
どんなに真剣で堅物で、
そんな人にも、
見る角度によって、必ず
とらえどころのない
「飄々」とした面が見えるように。

――と、
ドラマで「面白おかしく」
描けるものなら。

それならば、現実も案外
「気の持ちよう」と「着眼点」で
「面白く」「描ける」んじゃないかな?と。
(「現実」すらも「描く」という
意識の転換、というか、
シンプルに言えば
「気の持ちよう」
ということである。)

私個人は、気分的に
「ただの嫌々やってます」の
「落ち込むだけ」になると、
パフォーマンスがグッと下がって、
その分、何事についても
良い方にもっていきにくくなるので。


どこか、
「面白がって」、
で、
できれば「痛快に」。

「現実」を「自ら描く」ように
してみようかと思っている。



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