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いるだけでいい


久しぶりに本を読んだ。

ほとんど小学生ぶりに「小説」というものに向き合う。

とある人のススメでいきなり阿部公房を読み、そのあと親友がプレゼントしてくれた村上春樹を何作か。

ドストエフスキーは流石に難しすぎて上巻で挫折したけど、その後も芥川賞・直木賞の受賞者を何人か読んだ。


そして僕は毎日投稿をするようになり、読みかけの浅井リョウを放置したまま2か月が過ぎた。




だから、本を読むのは久しぶりだった。

「居るのはつらいよ」


睡眠を挟んで一気読みした。

でぇれ面白かった。マジで。


余韻が残っている。
だから僕はこうして朝からパソコンを叩いている。



「居るのはつらいよ」読書感想文、その②



まず凄いのは物語が9割のこの本が学術書だということだ。

7の段までスラスラ言える高学歴の僕はそういうインテリの言葉に弱い。インテリであるがゆえに。

「ガクジュツショ」ってなんだよ。
読んだこともねぇ。
マルセルモースの贈与論、
レヴィストロースの野生の思考、あれはガクジュツショか?
だったら読めたもんじゃねぇ。


でも、この本は読めた。
しかも、勉強になることばかり。
さらに言うとこれは「ガクジュツショ」である。
偏差値が日本一の高校に通ってた俺様が(嘘は言ってない)初めて「ガクジュツショ」を読破したのだ。
非常に気分が良い。


このガクジュツショは物語で話が進む。
精神障害を持ち、社会を生きるのが困難な人達が集まるデイケアの日常を描いた物語だ。

あらすじをみた段階では、率直に言うと
「つまんなそう」と思った。全くもって惹かれない。


でも読み進めていくうちに、ところどころで入る臨床心理学や哲学、精神分析が僕のこころに突き刺さってゆく。(自分が躁うつで障害手帳をもってる当事者であることも大きいが)

本当に難しそうな学術書を引用して、それを細かく砕いてわかりやすく解説してくれる。
そして、それに付随する物語がある。

そのうちに、日常をひたすら描く物語に愛着が湧いてくる。そう思ったらまさかのラストだ。

読み手が止まらないハズだ。



前半部分には、ノートをちぎってメモした紙をたくさん挟み込んだ。
我が家には付箋がない。



「いる」と「する」


最初のメモはこちら。

子どもを例に出すとこの手の話はわかりやすくなる。


赤ちゃんは僕らに何もしてくれない。
おぎゃぁと泣いて、ただそこにいるだけ。

こんな弱い生き物、何の生産性もない。
僕ら大人の足を引っ張り、時間を奪うだけだ。


だが、それでいい。🥰


赤ん坊からすると、自分の無力さを嘆いて涙を流しているわけではないのだろうが(どうなんだろう、そうだったりして)
そんな弱さを大人達が優しく受け止めてくれる経験を経て「自分、ここに居てもいいんでしょうか・・?」という安心が積み重なってゆく。


保護猫なんかもそうだ。
最初は見知らぬ部屋につれていかれて、牢屋に閉じ込められる。
真っ白な動物の毛皮にくるまれた大きな人間の雌が何やら笑いながらこっちを見ている。

不安だ。怖い。殺されるかも。

それでも何日か経つと、気付いてゆく。

・・・?エサはくれるな・・
・・・?危害は加えないな・・
・・・?動物の毛皮にジェラートピケって書いてあるな・・
・・・?なんか、気持ち良いところを撫でてくれるな・・


「いるだけで良い」という安心感がある。
生きてるだけで良いと。
僕をの「生きる」を守ってくれることで

「あなたは生きてるだけで素晴らしいのだ」
と非言語で伝えてくれる。






初めて保育園に行った日が古い記憶にある。
同じような背丈の、知らない人間達がうじゃうじゃいて、そこに放り投げだされた。
いつも乗っている母の車が遠ざかってゆく。
僕は号泣してママー!!と叫びながらずっとそこにいて、窓を叩いていた。
「終わった、捨てられた」と思ったことを強烈に覚えている。

保育士をやっていたときもそうだ。
誰かが入園してくる日はめちゃくちゃしんどい。
誰しも登園初日はパニックになって、皆がお昼寝中に大騒ぎして全員起こすからだ。

そして夕方になってママが帰ってくるとドラマのワンシーンみたいに感動的な再会を果たす。


必ず戻ってくる。
それが保育園であれば。



いつまでも帰ってこない別れもある。


それをこの頃に経験してしまうと、心がぶっ壊れる。
その危機を子どもはいち早く察知して、子どもながらに試行錯誤する。

「いる」だけではいられない、そんな事情のある家庭だ。
わかりやすい育児放棄はまだしも、ずっと泣いていてもスマホに夢中になったり、SOSを出したときに適切に助けてくれなかった、という経験が積み重なると、子どもは不安になる。

大人に身を預けられない、となるとそれは死に直結する。だから「不安」は怖い。
そうやって僕らの体に強烈にインストールされている。


子どもがお母さんの機嫌を取ろうと「する」
お母さんを喜ばせようと「する」
お母さんをお世話しようと「する」

まるで大人だ。
でも体は子どもだ。


そんな、大人になってしまった子どものことを「アダルトチルドレン」と言う。


僕らが今苦しいのは、「こんな僕ですが何か?」と堂々と言えないからだ。
「だって、僕は生きてるだけで素晴らしいのだから」
と、思えないから苦しいのだ。
なぜか?

僕らは「する」をしすぎて、何かをしないと生きる価値がないと思い込んでいる。

「いる」と「する」、んん。良い言葉だ。


身を委ねる、頼る、甘える、依存。
これらは子どもの頃に飽きるほど十分にしなければいけなかったことだった。

「依存」という言葉は恐いの意味で使われがちだな。
アルコール依存、薬物依存、・・

依存するものって、「母親」の代替だったりして。
そんなことはないか。


続きのメモは、いずれ書くかも、書かないかも。
疲れたので、終い。

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