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KH1992
2022年12月13日 02:36
視線の脇に流るゝ番頭サンを見たとき、さァそれこそ我々の間で噂されていた美女の横面、あの色白、細い鼻筋、気品溢れた揺るゝ黒髪、つい下駄箱の鍵を渡し忘れてしまいそうになる私に向かって「そっちゃ、女風呂!」などと喝を入れるゝその活気、あァ君は間違いなく我々の間で噂されていた美女であるようだが、何故だ、何故、番台に座るゝその姿勢からは、この閉鎖寸前とも思える銭湯『湯吉』への一直線に向けられたる愛が、君に
2022年10月16日 15:47
起きがけの明瞭としない意識。乾燥した空気で喉が痛むために、少し小窓を開けようかとも思った。しかし、とある匂いがふと鼻をついたものだから、僕はそれをやめて、ふたたび布団のなかへと迷い込むことを決めたのだった。 ──この部屋いっぱいに金木犀が薫る初秋、深々とした山系の落葉樹は、紅葉に至るまでの準備を終わらせてしまったに違いない。昔からこの空気感が嫌いであった僕は、さらに部屋中を侵すであろう秋の気配
2021年11月13日 18:10
自らの衰退した血統を呪うときがある。小柄な我々を小さな部屋に押し詰めて、課せられた労働は残酷なものだ。しかし、だからといってたかが蚕に同情してくれる組合などあるまい。 人がそうであるように、蚕も一人孤独となり成虫となるための心構え、準備が必要となる。繭に入りこんだ同志はなにを考えていたのか、なにを期待していたのか、大概の場合は分からずじまいのまま釜茹でにされ、我々の儚い生命を喰い物にした連中が
2021年11月7日 20:09
つい先日、叔父が亡くなったことを聞いた。十年ほど前から彼とは疎遠であったし、こちらに電話を寄越した父も、自らの弟の死についてどこか他人事のようにも感じる、そんな簡易的な連絡だった。 念のために言う。我々は叔父のことを嫌っていたわけでも、疎ましく考えていたわけでも、そして実際に他人事で済まされるような関係性では決してなかった。ただ、彼が彼なりの人生を歩んだ道程に、我々が存在していなかった。それだ
2021年9月12日 01:40
──今となっては、ただの笑い話だけどね。 騒がしい夏が過ぎ、相馬は少年のような表情を再び胸の奥に隠さなくてはならなかった。と言ったものの、何が明確に変わったわけでもなく、ただ人は自ずと成長してゆくのだ、などという極めて漠然とした思考のなかで、季節の移ろいに乗じた若者が心機一転にして生活を励む姿を周囲の環境にばら撒いているだけなのだ。 先日から辞めようとしている仕事について、いまだ別れを言い
2021年8月28日 03:29
「先生、僕は学校を辞める気はない。どれだけ貴方が嫌いでも、僕はこの世界で生きなければならないのですから」 思い上がりだ。自らの言葉に、そう思った。 皆が土を踏み付ける音は、我々の心を映す様にして僕の耳まで届くのである。大いに乱れた足音、地表を捨てた人類が飢えと疲労のためにいま一度下を向いてただ歩いてゆく。昔に聞いた教師の言葉が、稼働をやめた脳に直接響いてくるようである。「極楽は空に近く、地
2021年8月19日 06:43
ハロー! 私、青雲学院の夢見る女子校生、高野ゆかり。いつも退屈な授業ばかりでやんなっちゃう。でも、そんな日々にも心躍る瞬間というのはたしかにあって......。ああっ、噂をすればなんとやら。目当ての彼が、横断歩道を今過ぎようとしているわ。一人の男に翻弄される人生は、果たして惨めかしら? 滑稽かしら?でも、私だって輝かしい青春を、口に出したい年頃なの! 周りが何と言おうと、それだけは押し通させても
2021年1月3日 23:12
我々の消費してきた時間について考えることは、恐らく何の意味も、教訓も、そして意義もないのだろうと思う。例えば貴方たちが成し遂げてきた偉業の数々を振り返ったとき、そこに存在するのは時間ではない。行為である。努力である。独りで抱えた悔しさである。時計の針はただ意識外にて行儀良く廻る、焦りと忘却の根源である......。ただ、人はその残酷な流れに囚われてしまう時が往々にしてある。旧華族の男、取り
2020年9月29日 18:18
薄暗い部屋のなか、耳を澄ませば聴こえる、時計の針が規則正しく回る音。その動きを脳内に浮かべてみれば、短針を嘲笑うかのように踊り狂う長針の、意地悪い性格を遠くに思った。昼間に見る風景、夕方に見る風景、この円盤にかき乱される軟派な環境は、良くも悪くも退屈な日々に彩りを与えるようでもあるな......。 あぁ、この時の流れというものに、いくら助けられてきたのだろう。乗り越えるべき災難や困難というのは