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叔父、ノアの方舟を買う

 つい先日、叔父が亡くなったことを聞いた。十年ほど前から彼とは疎遠であったし、こちらに電話を寄越した父も、自らの弟の死についてどこか他人事のようにも感じる、そんな簡易的な連絡だった。
 念のために言う。我々は叔父のことを嫌っていたわけでも、疎ましく考えていたわけでも、そして実際に他人事で済まされるような関係性では決してなかった。ただ、彼が彼なりの人生を歩んだ道程に、我々が存在していなかった。それだけなのだ。

 叔父は、物が劣化していく姿を異常に嫌っていた。使い古され、傷付き、物が汚れていく様をとにかく嫌った。古本屋で小説や漫画を買う少年期の私に対して、彼はおぞましいものでも見るかのような表情を浮かべた。
「どうせいつかは汚れるんやから、別に他人が使った物でも安ければ、それでええわ」
 そんな私に、彼は溜息を一つ吐いた。違う、そうではない、とは敢えて口にしなかった。
 ──しかし、違う。そうではないのだ。
 彼が嫌うのは、物に残された他人の痕跡ではなく、物が擦り減っていく様そのものである。

 私が中学に入学した頃、叔父より車を買ったとの連絡が入った。その年の夏休み、遠方へのドライブなどを期待して彼の家に向かった私ではあるが、車庫から眩いほどの光沢を放つそれに触れようとしたとき、彼の右手が小さな身体をつき飛ばした。
「触ったらあかん。見るだけや、見るだけ」
 力強い口振りに多少の戸惑いがあった私は、取り敢えず車に触れることを止め、夏期休暇の間に訪れたい数々の観光地の名前をあげた。
「海遊館とか万博に、僕行ってみたいなァ」
「あかんよ、あかん。乗ったら壊れてまう」
「叔父さん。そんなこと言ってたら、いつまで経っても乗れへんままやで」
「ここぞ、というときに乗れたら良いんや」
 彼の言う「ここぞ」という場面が、その後にあったのかは定かではない。おそらく、あったのだろう。そう考えたい。
 数年後、この会話をふいに思い出した私は、彼が自らの新車をノアの方舟とでも勘違いしているのではないかと感じた。世界規模の異変が起こった際に、果たして車ごときで地球の種を守れるのかどうかは分からないが、それでも彼が言う「ここぞ」とは、厄災を示していたのではないかと思うことはある。いまでも、ある。

 以降も、叔父は新たな何かを購入して、ただ使わずに家に保管するという苦行をつづけた。
 本革に包まれた重厚な手帳。結局、一度も筆との触れ合いを知らぬまま棚にて眠っている。
 見るからに高そうな革靴。地面との触れ合いを知らぬまま靴箱にて眠っている。
 有名ブランドのコート。冷気との触れ合いを知らぬままクローゼットにて眠っている。

 私が就職した頃、叔父は何を考えたのか家に引き篭もるようになってしまい、周囲との連絡を完全に絶った。数年後、とある会員制の施設にて、廃人と化した叔父の姿が発見された。
 施設のサービスはどれも高齢者向けである。身体中に生体モニターの線を生やし、定期的に脳波の確認を行い、食事は徹底的に管理された健康食しか得ることを許されない。昼には庭の広場での運動を推奨されているが、叔父は一度足りとも外へ出ようとしなかったという。また非常に高額な会員費は、叔父の貯金を瞬く間に溶かしてしまう。親戚の誰かが彼を見つけた時口座に数千円ほどしか残金がなく、次月の費用をも払えない状態だった。
 そこから先は、私にも分からない。死んだと言うのだから、どこかの病院にでも連れられて満足な最期を迎えたのかもしれない。

 叔父は、自らの人生を使い古すことにすら、嫌悪を抱いたのだろうか。病気もなく、怪我もなく、ただ施設の隅でジッと座っているだけ。そんな彼なりの信念をもった儚き人生に、私がとやかく言えるわけがない。
 ──叔父の自宅、車庫を見る。埃を被った、だが紛れもない新車が悲しそうに立っている。埃を被った手帳が、革靴が、コートが、悲痛の面持ちで自分の居場所に収まっている。洗面台の鏡ですら、人間を映す禁忌を犯したことがないように思えてくる。そんな、恐怖を感じる。

 鏡の向こうに立つ私は、擦り減ることのない人生について考えている。使い古されることのない人生についてを考えている。そして、物に異常な執着を見せた叔父の、執着なき金遣いの荒さに、私は少しばかりの感心を覚えている。

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