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秋季創作コンテスト応募作品

 ──今となっては、ただの笑い話だけどね。

 騒がしい夏が過ぎ、相馬は少年のような表情を再び胸の奥に隠さなくてはならなかった。と言ったものの、何が明確に変わったわけでもなく、ただ人は自ずと成長してゆくのだ、などという極めて漠然とした思考のなかで、季節の移ろいに乗じた若者が心機一転にして生活を励む姿を周囲の環境にばら撒いているだけなのだ。
 先日から辞めようとしている仕事について、いまだ別れを言い出せない恋人について、返済のアテもない借金について、相馬が考えようとすればするほどに自室のテーブルは缶ビールで埋まってしまい、逆に財布の中に潜む皺だらけの紙幣は「社会に貢献するべし」という立派な自立心をもって独り立ちしてゆく。勿論、主人が彼等の思考を理解することはないだろう。

 ある土曜日、休日にもかかわらず二度、三度と相馬に連絡を寄越した上司の声は、機嫌の悪い恵里をより苛つかせるに違いなかった。ただでさえ「別れるタイミングが見つからない」と悩んでいたところ、毎週のように部屋に遊びにきてはヒステリックを起こす彼女の姿に、相馬は神経をすり減らしていった。
「折角の休みに来てみれば、金がないから遊びに出れないだの、私の趣味は否定して、その癖仕事の電話が鳴り止まないってどういう事よ」
「どうもこうも、仕方がない」
「この関係が終わるとしても、相馬君は仕方がないと言うんでしょうね」
「いや、そういう話じゃないよ」
「じゃあ、どんな話よ! ただでさえ──」
 恵里との言い合い、とはいえ一方的に思える争いを避けるようにしてベランダに駆け出した相馬は、タバコに火をつけながら上司に折り返しの電話をかけた。相手への無礼を感じてか静かに煙を吐くいつもの癖が、自分ではなく仕事を選んだのだ、という身勝手な考えを恵里に与え続けるらしかった。

 ふいに彼女は恋人の部屋を見渡す。他の女が残した痕跡を探しているかのように。ソファやベッドの下、テレビの裏側、ついにはキッチンに収納された鍋や包丁に至るまで、彼女は身を乗り出してその痕跡を辿ってゆく。
 ベランダで相馬が頭をペコペコと下げた。影が何度か目の謝罪を表したとき、恋人は玄関脇に置かれたゴミ袋の中にある物を見つけた。血の付いたタオルだった。嫉妬というのは、人の見境を失わせる。部屋に入った相馬を待ち受けていたのは、上司以上に弁解しなければならない相手の凄まじい怒りだった。
「どういうつもりよ! バレないとでも思ってコレを捨てたわけ?」
「違うよ、勘違いだ。俺が鼻血を拭いたときに使ったタオルを捨てただけだ」
「いい加減にして。結局は貴方、自分が可愛いだけなんじゃないの? ソファの下に落ちていたピアス、テレビの裏に落ちてたコレ。自分の罪を言い出すのが辛いから、敢えて人から言わせようって魂胆でしょう」
 汚いものを触るかのように恵里はゴム手袋をはめて、数々の証拠品を摘んだ。より相馬の顔を曇らせたのは、テレビの裏に隠した目隠しだった。いつかの夜、恵里の目を隠したこともあるそれは、情けなくテーブルの上に伸び切っていた。
「隠し方が下手なの。これがバレたら、私たち終わりなの分かってるわよね」
 一転、先程までの声を沈めて、恵里は相馬の手を握った。厳しくも柔らかい、大人の対応だと思ったわけではないが、そのまま彼女の視線を受け入れてしまう自分がどうにも嫌になり、硬直した身体をなんとか動かそうとしていた。
 恵里は帰り際、いつものように押し入れの中を確認した。前回来たときと変わらぬ光景だ。綺麗に片付けられた敷布団の群れ。人の呼吸や匂いを確かめるようにして、数回頷いた後に襖を閉じる。
「下手なマネをしたら、すぐバレるんだから」
 見送る相馬に対して、彼女はそう言い残す。そんな言葉をもって、早くケリを付けたいなどと願う男の気持ちは果たして身勝手だろうか。


 相馬の手は震えていた。慣れ親しんだ部屋の香りを嗅いで、携帯を握る右手は震えていた。「さぁ、ケリをつけよう」などと独り言を呟いて、土曜日の夕刻、掛けづらそうな電話を前にして悩む男は酷く滑稽に見えるのだろう。もう少し経てば、いつものように恵里がドアを叩くに違いない。上司は何と言うのだろう、そりゃあ大いに驚くことだろう。あれだけ仲の良かった同僚は何と言うのだろう、僕も解放して欲しいと言うのだ。違いない。決心した男は不器用な手付きで携帯を触り、静寂に支配された部屋の中で数回のコールが鳴いた。寂しい鳴き声。
「もしもし、110番ですが」
「人を監禁しています。人を監禁しています」


 叫んだ。押し入れの中より、残された力を振り絞って僕は叫んだ。
「ここだ、助けてくれ! 僕はここだァ!」
 届いているかは分からない。電話口の向こうまで届いているかは分からなかった。身体を縛られ、口に封をされ、それでも僕は身を捩らせ続けた。
「えぇ、金を借りた同僚を殴って、押し入れに閉じ込めています。死んではいません。だから早く来て下さい......」
 相馬は電話を切ると、押し入れを開けて僕の口に噛ませた縄を解いた。
「ごめんな、これしか無かったんだ。もっと早い内に警察を呼びたかった。共犯の彼女を救いたかった。課長も俺たちの金の貸し借りは知っていた。報告をしていたんだね......。君の無断欠勤についても、ずいぶんと疑われたが、ずっと知らぬ存ぜぬを通していた。でも、もう終わりだ。散々な夏を過ごさせてしまったね」

 相馬が謝罪を続ける中で、ようやくチャイムの音が部屋に響いた。口からの呼吸を許された僕ではあるものの、肺は簡単にはそれを受け入れなかった。数週間の監禁、男女の言い争い、何気ないやりとりの中で見える人の狂気というものが、自らの精神をすり減らしていた。
 廊下が軋む音、次いで誰かが唸る声、そしてドアを開けてこちらを覗き込む両目。部屋の隅には先程まで暗い顔をしていた相馬が、その表情をしたまま転がっている。腹に刺さった包丁より、どす黒い液体が床に流れ出している。
「貴方が殺したのよ。監禁された恨みを果たすためにね。で、相打ちになって物語はお終いとなるの」
 ──理不尽な痛みというのは酷く滑稽だな。僕は意識が失せようとしている今この瞬間においても、まるで他の人生が短編小説の如く進行してゆくのを眺めるかのように、身を文字列に浮かべて喜ぶ一読者のように、圧倒的な安心感を抱きながら飛ぶ生の狭間のようにして......。

〈完〉



 二人はそのまま遺体で発見され、当時の報道番組を賑わした。私は疑いの目をかけられる訳でもなく、今や創作コミュニティにおける人気投稿者としての地位を確かなものにしている。彼がまったく評価してくれなかった私の趣味は今や数多くの人々を楽しませている。
 ──理不尽な痛みというのは酷く滑稽だな。
 死ぬ前に人はこんな考えに至るのだろうか。分からない。だけども、たしかに彼を刺した感触はその滑稽さを表していたような気が......。取り敢えず投稿。スキが付く。コメントを数件貰う。大規模なコンテストにも応募してみる。ふむ、ランキングは今週も上位を保っており、飢えた私の指をさらに疼かせる。
 さぁ、次は誰だ。お前か?

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