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KH1992
2022年10月16日 15:47
起きがけの明瞭としない意識。乾燥した空気で喉が痛むために、少し小窓を開けようかとも思った。しかし、とある匂いがふと鼻をついたものだから、僕はそれをやめて、ふたたび布団のなかへと迷い込むことを決めたのだった。 ──この部屋いっぱいに金木犀が薫る初秋、深々とした山系の落葉樹は、紅葉に至るまでの準備を終わらせてしまったに違いない。昔からこの空気感が嫌いであった僕は、さらに部屋中を侵すであろう秋の気配
2022年10月13日 21:20
その日、久しぶりに雨が降った。山の手から遠く見える夕焼けは、そんなことなど素知らぬ態度で、ただ積乱雲の成れの果てを茜色に染めているのだった。馴染みのプールからの帰り、タイミング良くバスに乗り込んだ僕は、冷えた身体をどうする訳でもなく、ただ呆然と窓傍の席に座っていた。 バスが停車のために速度を落とす際、わずかに開いた窓から、大粒の雨が車内に入り込んできて僕の肩を濡らした。ただ、濡らしていた。
2021年12月9日 21:12
あれから五度目の夏を迎えようとしていた。沈みゆく陽の光が、朽ちた小屋の窓から差し込んでくる光景。狭い空間は次第に薄暗くなり、右手に持つ招待状の文字列は、果たして何を表しているのかが分からなくなる。 床のどす黒い滲みは、わずか数年の月日でここまで大きさを増したのだろうか。壁の端に捨てられたようにして積み上がる舞台衣装、歪んだ姿見からは、彼らの強靭とも言える意志が。 そして、唯一その姿を保ってい
2021年11月7日 20:09
つい先日、叔父が亡くなったことを聞いた。十年ほど前から彼とは疎遠であったし、こちらに電話を寄越した父も、自らの弟の死についてどこか他人事のようにも感じる、そんな簡易的な連絡だった。 念のために言う。我々は叔父のことを嫌っていたわけでも、疎ましく考えていたわけでも、そして実際に他人事で済まされるような関係性では決してなかった。ただ、彼が彼なりの人生を歩んだ道程に、我々が存在していなかった。それだ
2021年8月28日 03:29
「先生、僕は学校を辞める気はない。どれだけ貴方が嫌いでも、僕はこの世界で生きなければならないのですから」 思い上がりだ。自らの言葉に、そう思った。 皆が土を踏み付ける音は、我々の心を映す様にして僕の耳まで届くのである。大いに乱れた足音、地表を捨てた人類が飢えと疲労のためにいま一度下を向いてただ歩いてゆく。昔に聞いた教師の言葉が、稼働をやめた脳に直接響いてくるようである。「極楽は空に近く、地
2021年8月23日 23:49
「知っての通り、航空車が普及した今となっては、航空法の改正により様々な物が規制されています。例えば、打ち上げ花火......」 ──花火? 大人はいつだって、自らが知り得た物をさも創造主の様に語るのだ。僕等の世界は、どこまで行ったとしても彼等の延長であり、そんな生に取り憑かれている我々は、果たしてどこまで足を伸ばせるというのだろうか。 人類が地を離れて二十五年が経過した。配食の普及によ
2021年8月19日 23:44
遥かなる未来の想像というのは、我々が辿ってきた数千年の歴史を想うより、いくらかは楽なものである。葛西教授は、まるで課題に手をつけようとしない私に向かってそう言った。 ボードに描かれた様々な風景画、それは彼が創造した新世紀であった訳だが、当時十歳にも満たない少年には理解出来るはずもなかった。「陸を離れ、空を目指す人類において、困難なのは水、そして食糧の確保だ。我々は天にまで届く太いチューブを介
2021年8月18日 23:33
跳ばない僕は、ただの優等生だ。──シベリアより愛をこめて 凡人に天才の思考は理解出来ないと、昔から話ではよく聞くものの、実際に納得がいく形でそれを実感したのは、後にも先にもこれくらいだろうと思う。 大学で知り合った葛西君、暇さえあれば図書館で小難しい文献を漁り、カフェブースの端に座って、なかなか減らないコーヒーを相手に首を傾げたり頷いたり。奇妙な奴だとさえ思う。彼が何の講義を取っていたのか
2021年6月6日 14:39
よく顔を出すと言っても、駅前の喫茶店にて繰り広げられる平凡な日常の様ほど、代わり映えしないものはあるまい。肌を寄せあうように座る人々の内、幾らかは常連客かもしれない。幾らかは馴染みのない客かもしれない。彼らの半数は降り頻る小雨から逃れるため、残るは何かの目的をもって、湯気の立ち登る珈琲カップに口をつけるのだろうか。 僕が玄関のドアを閉めたあとの自室。秩序が保たれ、無言、無音の世界であるはずなの
2020年7月23日 21:47
少年よ。今の私の姿は、君から見てどのように映るのだろう。昔に想い描いていた理想の自分とは、かけ離れたこの哀れな姿を。精一杯やったと、胸を張れないかもしれない。他人に責任を擦り付けるものでもないだろう。しかし、色々とあったのだ。少し道を逸れたかと思い振り向けば、自らの足跡を掻き消すようにして強い風が吹く。次第に方向感覚を失った私は、人生における及第点、奈落や惰性の森などに対する適応力のみ磨か
2020年7月16日 20:54
我々が特に優れたアイデアもなく、また何につけても機転を利かせる事が出来るような、そんな器用な頭を持ち合わせていない事は、互いに口に出さずとも理解していた。街角の隅に至るまで足を棒にして歩けば、街灯に照らされた正面の疲れ果てた表情を見て、どちらともなく吹き出してしまう。そんな頃の私達の事務所に立て掛けられたホワイトボード、一つの線が緩やかに右上の角を狙っていた。街が寝静まった頃、今となっては何