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鎌倉少女

 あれから五度目の夏を迎えようとしていた。沈みゆく陽の光が、朽ちた小屋の窓から差し込んでくる光景。狭い空間は次第に薄暗くなり、右手に持つ招待状の文字列は、果たして何を表しているのかが分からなくなる。
 床のどす黒い滲みは、わずか数年の月日でここまで大きさを増したのだろうか。壁の端に捨てられたようにして積み上がる舞台衣装、歪んだ姿見からは、彼らの強靭とも言える意志が。
 そして、唯一その姿を保っているように思えた事務机。刻まれた小さな傷に反射する形で、悲痛の叫びを僕に浴びせたのだった。
 あれから五度目の夏を迎えようとしていた。今年の夏を招き入れたとき、僕の、そして彼らの若き時代は終わりを告げる。


 1. 山下

 夏の香りがただよう頃、蝉に先んじて声を枯らす山下からの連絡は、大学を卒業して二年経つというのにいまだその無邪気な好奇心を胸の内に潜ませているように思えた。 
 長い梅雨に閉じ込められた六月の暮れ、窓越しに聴こえる雨音に辟易していた僕だったが、いざ梅雨が明けると頭上より身を焦す猛暑のせいで、やはり外出する気にはなれなかった。 
 カレンダーをめくると、目に付くのは夏季の販促会議、取引先へのプレゼン、上司と共に予定している得意先との夕食は、暑気払いという名目の重厚なごますり攻勢である。
「陽介、お前は愚鈍そうに見えて、なかなか客に取り入るのが上手いなァ」
 上司は常々僕のことをそう評したが、どうも正しいとは思えない。たとえば客ととりとめのない話をする際、確かに相手は僕の締まりない表情を見て「愚鈍そうな奴」と考えるだろう。そして、こうも考えるはずなのだ。
「こいつなら簡単に利用できそうだな……」 
 実際に、そういった客は僕が営業担当となってからというもの、こちらの足元を見る要望が多くなった。関連性は不明だが、彼らは決まってそれ以上の出世が望めなさそうな立場の人間である。頻りに接待の話を持ちかける我が上司も、なかなかに人を見る目がない。
 しかしながら、僕はこういった社会の裾にある風景にもある種の様式美を感じるまでに侵されていたのだった。カレンダーをめくり溜息こそ吐くものの、破り捨てるまでに至らないのはそれが理由なのかもしれない。
 こんな現実を携えて電話に出たものだから、山下はこちらがふり絞ったやっとの声に、怪訝な反応をした。
「暑さにやられたか。声が死んでる」
 電話口の向こうからは、男たちの野太い叫び声が聴こえる。
「いや……。うん、暑いなぁ。こんな日にも稽古をしなくちゃならんとは、山下も大変だな」「夏公演が近いからね、皆も死に物狂いでやってるよ。──そうそう、ちょっと陽介に頼みたいことがあるんだ」
「頼みたいこと?」
 この猛暑の中で頼まれることとは何だ。今度はこちらが怪訝な声を出した。しかしながら、僕の細い声は、山下の背後に響く女の大声に掻き消されてしまった。
「うん? 聞き取れなかった。……つまりね、次の公演は劇団立ち上げから一周年の記念となるわけで、俺たちも出来ることなら大勢人を呼びたいと考えてる。しかし、ビラなどを撒いても名もない劇団に興味を持ってくれる人は少ないし、ただでさえ稽古で忙しい毎日だ」
「友達を呼べるか、と期待しているのかもしれないけど、そんなに広い人脈は持ってない」「良いよ、数人で良い。お前以外にも声は掛けているからね」
「あぁ、そう」
「一度、稽古を見に来いよ。もうすぐ由比ヶ浜での花火大会もある。それに合わせて、寄ってくれれば良いから──」
 山下の声は、そこで途切れてしまった。携帯を切らずに稽古へ戻ったのだろう、彼の怒号が控えめな反響をともないこちらに届いてきた。
 花火大会? 反射的にカレンダーを眺める。販促会議、プレゼン、接待、そんなものが織り成す暇なき真夏の様式美。首筋より垂れる汗を拭ったとき、彼は再び座長として檄を飛ばす。「違うと言ってるだろォ! こうだ、こう!」

 車両に揺られること五十分、湘南新宿ラインは予想を越える混雑で、遅延は数分では済まないことが容易に想像出来た。ドア側に押さえつけられたようにして立つ僕の頼りない身体は、ときに汗をかいた中年男性、ときに浴衣姿の女子大生と駅を過ぎる度に隣の相方を変え、一喜一憂の反応を見せていた。乗客の圧によって胸ポケットから携帯を取り出すことも出来ずに、さきほどから数分おきに振動するそれを想えば苛立ちからか余計に汗が噴き出してくる。
 ようやく横浜駅を発ったとき、手摺の脇に生まれたわずかなスペースを利用して着信の相手を確認するも、それは登録すらしていない番号だった。窓から流れてゆく雑木林を見るうち、ふいに山下の声が蘇ってくる。
「劇団の誰かにお前を迎えにいかせるから、到着の時間だけ教えてくれ」
 そうだ、僕が新宿駅のホームで連絡した時刻から既に十分が回っている。ともなれば、この見知らぬ番号は山下が向かわせてくれた劇団員に違いない。そこまで考えてしまうと、不思議と湧き出た苛立ちというものは消え失せ、相変わらずの押し問答の中に、まだ学生時代だった我々の姿が映し出されたのだった。
 大学時代、一浪という似た境遇で上京してきた山下との関係は、必ずしも心地良いものではなかった。彼の言葉より滲み出る冷笑的な癖、僕に欠如していた積極性を彼が生まれながらにして持ち合わせていたこと、また頭脳明晰とまでは言わずとも、意識を向けたその一方に対する優秀な思考と緻密な計画性。深夜までの稽古とバイトの日々で、ろくに講義にも顔を出さない山下の姿に、僕は若者のあるべき姿を見た気がしたのだ。
「俺、退学することになるけど、陽介はしっかり卒業して目一杯仕事を頑張れ。こんな下らん大学でも企業はこぞって取りたがるからなァ」
 食堂の隅で昼食をかき込んでいるとき、山下は決して小馬鹿にしているわけではない表情で愚鈍たる学生だった僕を見つめた。
「せっかく一浪して入ったのに、こんな時期に辞めるとは勿体ない」
「歴史ある演劇部があるというから上京してみたものの、あれではダメだ。肥やしにならん」
「外の劇団で稽古は充分なんだろ? 別にやめなくても良いじゃない」
 僕がそう言って蕎麦を啜ると、彼は数度頷いた後に咳払いをした。何かしらの迷いがあるとき、彼はいつも普段見せない神経質な仕草をするのである。
「その劇団も、解散することが決まった。年寄りは皆芝居を辞めると言っているが、若い連中はやはり心残りでね。……同意してくれた数名で新劇団を立ち上げることにしたよ」
「山下もそれに加わるというわけだ」
「そう、座長でね」
 呟くようにして言う山下の言葉に、僕は激しく咳き込んでしまった。食べかけの蕎麦が器官へと滑り込んだのだった。「座長?」と問う僕に、彼は再びつまらなそうに頷く。
 演劇の裾すらも知らぬ僕が驚くというのも、失礼な話だ。しかしながら、幾ら日々忙しなく動き回る友人の姿を見ていようとも、目の前に座る彼が皆に向かって檄を飛ばす光景は、当時僕の脳裏には浮かんでこなかった。
 それからというもの、適当に就職活動を始めた僕の横目には、いつも精悍な顔立ちにて座長の役をこなす山下の姿があった。彼からは聞いたこともない厳しい言葉を吐き、ときにそれは周囲の反感を買ったが、やはり根から役者を目指す者たちの集まりにおいては、最終的に団結を生むことになったらしい。名の知れた企業に僕が就職を決めた頃、彼はいまだ名も知られぬ新興劇団を立ち上げた。鎌倉の海沿いに小さな稽古小屋を構えた劇団は、若き座長より「野武士集団」という名が与えられた。

 約束の時間を二十分ほど遅れて、列車は鎌倉駅に止まった。人並みをかき分けて走った僕は改札を出てから大きく深呼吸をしたものの、この混雑では気休めにもなりはしなかった。駅前のコンビニで冷えた麦茶でも買おう、くたびれた表情でそう考えたとき、視界の隅で誰かが手を挙げたのが分かった。
「陽介君……。陽介君でしょう?」
 そう言いながらこちらに歩いてくる女、歳はそれほど違わないだろうが、なにせ見慣れない顔だった。頭上の太陽を手で隠しながら苦い表情で頷くこちらに対し、彼女はまったく平気な様子でリュックから冷えた缶ビールを取り出し僕の手に握らせた。改札の近く、乗客の往来は激しさを増して、我々は迫る人を数秒おきに避けつつ会話をしなければならなかった。
「電車、結構遅れてたのねぇ。花火大会の時期は毎年こうなの。心配になって、何回も何回も電話しちゃった」
 冷たい感触が指先から腕を伝い、胸にまで至る。余韻に浸る間もなしに、彼女は僕が握りしめた缶のプルトップを器用に引き上げた。音を立てて湧き上がる泡、泡、泡──。
「混んでて、電話に出れなかったんだ。それにしても、山下が迎えに出すと言うものだから、知ってる子なのかと思った」
「私はね、劇団の二回生なの。二回生と言っても半年毎に募集を掛けるみたいだから、今年の夏に入ってくる子は三回生、冬は四回生……。なんか変わってる。山下君の考えることって」
 僕は何も言わず、缶ビールに口をつけた。
 初夏にもかかわらず、アスファルトも溶け出すようなこの地では、昼間でも淡いアルコールの誘いを受けるのが通例なのかもしれない。
「江ノ電は凄い混んでるだろうし、散歩がてら歩いて行こう。長谷駅の近くだから、二十分くらいで着いちゃうの」
 笑みを浮かべる彼女は、肩に寝かせた髪を背中に回した。周囲に漂う汗の匂い、灼ける匂いと煎餅の匂い。そんなものに混じるわずかな甘い香りを認めた僕は、ようやく彼女の端正な顔立ちに気が付いたのだった。ビールの泡で濡れた右手は、既に乾き切っていた。たとえ数分の散歩でも気が滅入ってしまいそうな、そんな誰が見ても明瞭とした夏の日だった。

「私のことはエミって呼んで。山下君とは同い年だから、陽介君ともそうだよね」
 随分と大きな歩幅で進む彼女の背後で、苦い表情を浮かべながら歩く僕。三口で飲み干した缶ビールから、水滴が跳ねる音がしている。
 こちらが「ふうん」とか「へぇ」と愛想のない返事をする中で、エミの身体は軽やかなステップを踏み、夏の生温い風を切っている。
 彼女は事あるごとに立ち止まり「ここを真っ直ぐ抜けたら浜に出れるよ」などと教えてはくれるのだが、どうにも強烈な日差しが僕に興味を持たせてくれない。目眩がしながらも辛うじて歩く様は「美しい女に付いて回る犬」という印象を人に与えるだろう。
「あと最近の彼、結構ピリピリしてるから、稽古中はあまり近寄らない方が良いかも」
「山下がピリピリしてる? いつもじゃない」
 右足、左足。──進め、進むのだ。
「そうかなぁ。でも、山下君って結構可愛いところもあるんだよ」
「どんな?」
「機嫌がすぐに顔に出るところとかね」
 僕は、ムッとした奴の表情を思い浮かべた。
「あぁ、男は皆不器用だからなぁ」
「──そうかな」
 正面を歩くエミが、立ち止まった気がした。焦茶色の髪が風になびくのをやめたので、そう見えたのだった。しかし、彼女はしっかりと足を動かしていて、湿気た潮風を切り、その歩幅は相変わらず大きかった。
 江ノ電の混雑を避けるために徒歩を選んだはずだったが、鎌倉駅から長谷駅への道中も凄まじい状態だった。花火大会のために交通整理がされているのだろう。狭い車道は、人が隙を見て渡れないほどの車両で埋まり、あちこちから敵意あるクラクションの糾弾が起こっていた。たまらなくなった者はカフェの行列に並ぶか、通りを横に逸れて日陰で携帯を触るか、いっそ観念してコンビニのアイスを舐めながらも必死に歩くしかなかった。
「よくこんな環境で稽古が出来るなと思うよ」
「そう? 慣れれば普通だよ。日常だよ」
 頼み込んで寄らせて貰ったコンビニにて、懐かしのアイスクリンを買った。一人してアイスを舐めていると、彼女について回る犬という偶像がより顕著な形でつきまとう結果となった。
 稽古小屋に到着したのは、午後二時を回った頃である。海沿いに建てられた小さな小屋より聞き慣れた声が漏れ出していた。決して穏やかではない怒号。しかし、悶えながらも前進する決意、強固な意思、十代より変わらぬ粘り気のない汗の匂い。そんなものが、由比ヶ浜の波音と混じって、僕に心地よい生の実感を与えていたのだった。
「よぉ! 揉みくちゃにされたか」
 ドアが開いた音で、山下はこちらに駆け寄ってきた。僕は微笑みながらも、密かに缶ビールを外に投げ捨てた。神聖な稽古場に、ほろ酔い気分で訪れたとは思われたくなかったのだ。
 室内には、彼を含めて九人の劇団員がいた。僕を迎えに出たエミを含め十名になる。その中には雑用などのスタッフも混じっているだろうから、やはり大掛かりな公演は難しいらしい。
 座長から学生時の人懐っこい表情に顔付きを変えた山下は、皆に僕を紹介してくれた。
「知らない奴もいるだろうが、旧友の陽介だ。集客要員であるから、失礼のないように」
 満遍の笑みでそう言うと、稽古場から大きな喝采が起きた。横に隠れるようにして立つエミも、ニヤリとほくそ笑んでいた。この僕でさえ無垢な心で笑った。そんななかで、隅の壁にもたれる女の子は真剣な面持ちでこちらを──。いや、山下のおどけた表情を見て、あきらかに睨んでいた。強く睨んでいたのだった。

 2. エミ

 彼等の稽古を眺めている内に、ようやく名前と顔が一致する様になってきた。まず一番台詞数の多い副座長、彼も山下や僕と同い年のはずで名を吉本という。学生時代によく山下と連れて歩く姿を見た。そして一つ歳下の有馬。確か彼は我々と同じ大学だったはずだ。父親が官僚の厳格な家庭に育ったはずだが、いまでは唾を飛ばし、目を見開きながら稽古に励んでいる。他の連中についてもおぼろげではあるが、記憶の中に住み着いた印象がある。しかしさきほど山下を睨んだ女については、どれほど思い出しても無駄だった。
 小屋の中を見渡せば、小綺麗な服が隙間なく吊るされた衣装棚、磨き上げられた姿見が目に入る。その中でも僕が惹かれたのは、真新しい劇団員の集合写真だった。山下が中心に腰を下ろし、皆がその周りで笑顔を見せている。いま稽古に出てない者の姿も数人あったが、写真の中で浮かべる複雑な表情を思えば、既に去ってしまった者なのだと分かる。やはり、彼の稽古は並大抵のものではないのだ。
 しばらく写真を眺めていると、出番の終えたエミがこちらに寄ってきた。彼女は髪を短く括り、衣装は寸足らず。まるで少年のような格好をしていた。
「懐かしいな。と言っても、まだ一年も経ってないけどね。いまは辞めちゃった人も映ってるからそう感じるのかも」
 彼女から漂う甘い香りが、ツンと鼻をつく。
「これは、初回公演の写真だね」
「そう! あのときは、山下君が脚本を書いたんだっけ。小さなハコだったけど、全然客席が埋まらなくて散々だったよ」
「でも、皆この笑顔」
「そうねぇ。これが出発点だったから、皆舞い上がってたのね」
 写真の中のエミは、まるで普段着とも思える格好でプラカードを持っていた。そこに書かれた文字を見て、僕はやっと彼等の初回公演の題目を思い出した。
「──鎌倉少女」
「陽介君は、仕事で来れなかったじゃない」
「でも、山下が見せてくれた脚本は覚えてる。そうか、エミちゃんが鎌倉少女だったんだ」
 僕がこう言うと、彼女の表情はわずかに固まった気がした。しかし、写真から目を離して互いに向き合ってみると、やはり相手の顔は笑みを浮かべている。
「私は、まだ入って間もなかったからさ……。鎌倉少女はね、あの娘よ」
 エミは稽古場の隅を指刺した。そこに、山下を睨んだ女の子が腕を組みながら立っていた。いや、何かを考えていたのかもしれない。
「あれが、鎌倉少女……」
 その次の言葉が出なかった。まるで世の異物を目の当たりにしたような眼差しで、僕は彼女を眺めていたに違いない。
 見れば見るほどに不思議な感覚だった。エミの話によると彼女は十九歳であり、劇団立ち上げの頃から野武士集団に参加しているという。高校を卒業してからすぐに劇団に参加したという事だが、彼女には普通の十代が持つ未熟さ、ある種の組織に対する従順さというものが微塵も感じられなかった。痩せぎすな身体、釣り目がちな瞳、睨みつけている印象を周囲に与えるのは彼女が三白眼だからかもしれない。しかし年上ばかりの集団に混じってもなお、漂わせる鎌倉少女の尖った印象は、素人からしてみてもたしかに目を引く存在だった。

 稽古場の喧騒に浸っていると、時の流れは濁流のように過ぎ去っていく事が分かる。窓より差し込んでいた陽の光は、気付くと既に我々の目線と同じ高さにまで沈んでいて、電気を付けようともしない彼らの持つ台本は、次第にただの無意味な文字列に姿を変えようとしていた。
「今日はここで終い!」
 事務机に座った山下がそう叫ぶと、皆は姿勢を正した後に「ありがとうございました!」と寸分のズレなく頭を下げた。よく指導が行き届いているものである。しかし、僕が本当に感心したのは、この厳しい稽古が終わってからだ。
「おい、山下ァ。混み合う花火大会なんざ放っておいて、皆で酒でも飲み干そうぜ」
「あぁ、良いですね。片っ端の屋台から冷えたビールを徴収して来ましょう!」
 厳格な稽古が終わりを告げた瞬間、吉本と有馬が高らかに声を上げた。さきほどまで役者同士の激しい戦場であったはずの小屋が、一気に学生寮の雑多な雰囲気へと変わってしまった。山下も、彼らのはしゃぐ姿を見るなり、
「よし! 景気付けに一杯やるか」
 などと賛同の声を上げる。他の劇団員も床を磨きながら、衣装棚の整理をしながら、次々と山下に提案を持ちかける。
「座長! ピザでも頼みましょう。花火大会の日にピザとは洒落てるでしょう」
「おい、山下。家からワインを持ってこよう。彼女と飲むはずだった、とっておきのを……」
「あぁ! 先週、フラれた彼女と飲むはずだった赤ワインだ!」
 つい数分前まで険しい表情をしていた彼らが大いに笑い、座長である山下に対して我先にと喋りかけている。微笑みながら相槌を打つ彼もまた、調子に乗り過ぎる者を諌め、自ら進んで壁についた汗の滲みを懸命に拭き取っている。
 そうだ、奴は学生の頃に付随していた冷笑的な態度など既に放ってしまい、今は名が無くとも新進気鋭の劇団、それも座長として君臨する立場なのだった。僕がいくら懸命に働き、その様式美に酔おうとも、皆が稽古終わりに飲む缶ビールに勝ることはないだろう。そして、これほどまでに馴染み易い劇団員に与える、稽古中の緊張感とは──。
 皆は小屋の掃除を終えると、一目散に飛び出して行った。各々が酒や肴を取りに走って行ったのだ。気がつけば、小屋に残ったのは僕と山下、そしてエミと鎌倉少女の四人だけだった。
「おい、高坂。今日も良かったよ。途中で少し声が上擦っていたけど……」
 部屋の隅でタオルを絞る鎌倉少女に、山下は励ましの言葉をかけた。彼女は恥ずかしそうな表情を浮かべながらも、
「ありがとうございます」
 と、行儀良く礼をした。役に入り込んでいた彼女とはまったく違う声色だと感じた。どこかに怯えを孕んだ、良くも悪くも十代の華奢な細い声。そんな印象とは異なる弱い反応は、何故だか僕に申し訳なさを生み、我が心を強く打擲したのだった。

 酔いが回った僕は、有馬と肩を組み、大学ラグビー部の応援歌を口ずさんでいた。窓の外を眺めれば、陽は今にも由比ヶ浜向こうの水平線に沈もうとしている。稽古小屋を照らす電球は脆く、時折弱々しい音を立てては再び我々を照らすために必死となり、どこか頼りなさげな印象を拭えずにいたのだった。吉本が自慢の歌声を披露しようと立ち上がった瞬間、山下は両手を叩いて皆の注目を集めた。
「さて、そろそろ俺は帰ることにするよ。皆、明日も稽古なわけだから、あまり派手に遊びすぎるなよ。そして、陽介は野武士集団のスポンサーとして、精一杯客を呼び込んでくれ!」
 再び我々の間に笑いが起こった。酔いの狭間にいる男に、鎌倉少女の顔を見る余裕はない。
 山下が姿を消して少しした後、背後の破裂音に驚いた僕は、情けない声を漏らしながらイスより飛び上がった。
「あぁ、やっぱり花火は人混みの中で見るのが一番か。窮屈さがない花火大会に、醍醐味などないのである!」
 台詞口調の有馬がそう言い放った。僕が静かに振り返ったとき、小屋の窓から打ち上げ花火の端が広がっていた。
「まだ遅くない。誰か、花火を見に行こうよ」
 僕がそう声を上げても、乗る者は誰もいないように思えた。いや、感じの良いエミはどうだろうか。そう考えて視線を左右に動かすものの狭い稽古場の中にエミの姿はなかった。
「エミちゃんは帰ったんだっけ」
「あれぇ、陽介さん。エミさんなら座長が引き連れて、いつもの特等席へ向かいましたよ。今頃なにをしているか」
 有馬が嬉しそうに言うと、吉本や周囲の連中も、ワッと声を上げた。どうも、彼が言う特等席とは山下の自宅らしかった。夏の花火大会にて若い男女が部屋に篭ってすることとは……。
「そうか! しかし、エミちゃんのような綺麗な娘と山下では釣り合いが取れんだろう。どうだろう同志諸君」
「いや、陽介さん。座長もヤリ手でして……」
 酔って饒舌となった有馬は、どこまでも気の良い後輩だった。吉本は声を噛み締めて笑い、周囲も苦笑いではあるものの、僕の戯言に気を許している様子だった。本来、山下の顔立ちはよく整っており、学生の頃も想いを寄せる女は少なくなかったはずである。彼が野武士集団を立ち上げる前、外部の劇団にて充てられるのが二枚目の役ばかりだったことに対し、不満を溢す声も聞いた記憶がある。だからこそ皆は笑いを浮かべるのだ。不義理であると思いながらも声を噛み締めて笑うのだ。これが本当に醜男ならば、洒落では済まない結末となっている。
「陽介さん。浜の方へ出てみましょう」
 誰かが澄んだ声を出した。その瞬間、時が止まった気がした。声の主は、鎌倉少女……いや素面の高坂だった。
「えっ?」
「花火を一緒に観に行きましょう」
 皆が、彼女の声を聞こうと黙った。しかし、それが花火への誘いだと分かると、一斉に歓喜の叫びを上げた。
「へぇ! ここにもう一人、ヤリ手がいるや」
 我慢ならなくなったのだろう、高坂は不満気な表情を浮かべながら、僕の手を引いて小屋の外までを歩いた。稽古場では、再び酔いの乱痴気騒ぎとなって、打ち上がる花火に負けないほどの笑い声が外まで漏れ出していた。彼女は狭い横道を過ぎ、暑苦しい人混みにまみれ、ようやく夜空を見渡せる位置に着いても、ずっと僕の手を離そうとしなかった。しかし、そこに至るまでの間に、僕は声を出すすべを失ってしまったのだ。
 左手に彼女の感触を認めたまま、僕は背後の海岸沿いに並ぶアパートや建屋の数々を見た。そのほとんどは灯りを消し、この浜辺まで花火を見に来ているだろうと思ったが、それ以外の連中はどうだろう。山下とエミは、今頃──。
「座長は、今何をしているのでしょうね」
 高坂は、僕の手を握りながらそう言う。止むことなく広がる破裂音に掻き消されてしまいそうな、細い声。しかし、彼女の指先から感じる強い意志は、自らが近寄るべきではない仄かな危険信号を僕の心へと訴えかけてきたのだ。

 3. 高坂

 花火大会の喧騒が過ぎて、静かなる海街が帰ってくる。真剣味を取り戻した劇団の稽古を覗いているうちに、彼らが目指す夏公演の全体像というものがようやく理解出来てきた。題目からして「鎌倉創立記」などという、劇団一周年を暗示させるもので、山下はこの海街を拠点とする限り、終始鎌倉にこだわるつもりらしい。幕府黎明期から樹立の数年間をかいつまんで劇にしたものらしく、彼らが慌ただしく躍動する横で、脚本担当らしき劇団員が忙しなくノートパソコンをカタカタと叩いている。
 配役については、事務机の端に重ねられた台本を見れば一目瞭然だった。ペンの跡、汗の汚れなどで消えかけた文字を拾ってみれば……。主役格の頼朝、これは副団長の吉本が。次いで義経は、エミが男役。なるほど、以前に見た薄汚れの格好はその為である。他にも源平合戦の主だった人物が役に落としこまれている中、座長の山下が演じるのは、梶原景時の嫡男である景季だった。稽古を眺めていても決して出番が多い役ではないことが分かるが、ちょうど義経が平家を滅ぼした折、華やかな京にその心が寄っていく最中に、山下はようやく姿を現す。それまで気の張った表情をしていた皆が、どこか安堵を感じているようにも見える瞬間である。
「朝敵義仲と共に入京されし行家。我々へ参向の意を持たずして、和泉、河内の二国を平定、しかしそれだけでは飽き足らず、後に鎌倉の災いとなるに必死である。その心はどこにあると言うのだ……。鎌倉殿は、貴殿にすぐさま京を発つよう仰せだ。行家を討ち、壇ノ浦での勲功を鎌倉殿に疑わせるな!」
 山下演じる景季は、義経が持つ幕府への不信を見透かすがごとく、ときに冷静、ときに憤慨の態度で台詞を読み上げる。史実通り、義経はさも病弱しきった体をわざとらしく見せ、ついさきほどまで床で伏せていた雰囲気を浮かべている。汗を垂らしながら頭を垂れ、ボサボサとなった髪、切れ切れの衣装が表す身体の線というものが、何故エミが彼を演じなくてはならなかったのかという理由を明瞭にさせた。男性諸君に対するサービスカットである。事実、目の前に弱々しく座るエミは、美青年の面影を残しながらも、妖艶に映る小麦色の肌があらわとなっている。
 ──よく考えられているものだ。そう一人納得したところで、劇中の事態は急変する。
「黙っていれば、よくも勝手なことを! 東国にて腰を下ろす坂東武者共、お前たちがふんぞり返れるのは、誰のおかげだと思っておる! 長き連戦の疲れで、義経様はこの通りである。もう一度、鎌倉殿によく説明せよ」
 エミの横から割って入るのは、これまた貧相な衣装を見にまとう高坂である。台本に目を落とせば──静御前役、とある。かつてこれほどまでに好戦的な静御前がいただろうか。長旅も虚しく逃げ帰った景季は、再び鎌倉にて叱咤を受けることとなる。
「父上、お許し下さい。義経が住まう京六条には、気の強い女が多ございますゆえ……」
 勿論、このような言い訳が通用する梶原景時ではない。見るも無残に怒鳴られて、哀れ景季は京へと飛んで行くこととなる。しかし、待ち受けるのは病弱な義経、そして何より恐ろしい静御前の姿。道中の山下は上手く運ばない自らの仕事を嘆き、客席から見るにそれは馴染みやすい三枚目の味を醸し出しているのだった。
「父上も、鎌倉殿の前では良い顔をしようと必死だ。あの恐ろしい女、平家と渡り合った義経でなければ、飼い慣らすことは出来まい」
「ちくしょう! なぜ俺がこんな目にあう!」
 史実と異なり、数回鎌倉と京を往復する羽目になる景季は、ときには現代語も交えつつ軽快な言葉を出す。普段厳しい表情である山下も、このときばかりは面白おかしく踊る、気の毒な道化の表情を見せていた。
 ──なるほど、あいつは大学時代に二枚目が嫌だと嘆いてはいたが、このように三枚目への才能があったんだな。そう感じ入る僕がいた。
 そして、まだ二十にもならない高坂は、嫌われそうな姑にも見える静御前を、見事に演じきっていた。おおらかなエミを義経、鋭い演技の高坂を静御前に、という一見不思議な配役は、この瞬間、客を沸かすためだけにあったのだ。喋りすらしない脚本担当は、キーボードを激しく叩きながら、腕を組んで立つ僕の方を見た。満足気とはいかないその顔を覗かせながら。

「まぁ、座長は高坂の表現力というのか、目力というのか、そういうものを評価していてね。自分は初め彼女たちの配役を逆にして提案していたんだけど……。だって、静御前といえば誰がどう見たってエミちゃんだよ」
 海を眺めながら煙草を吸う彼は、仕事柄座り続けなのだろう。大きく伸びをしながら、そう愚痴をこぼした。
「あの二人は納得しているんでしょう? それならば問題はないと思うけどね。エミちゃんの義経、高坂の静御前も」
「さぁ、どうだろう」
 脚本を担当する彼は、その後口を閉ざしてしまった。素人に言われる筋合いはないと、そう思ったのかもしれない。正論だった。彼の言う通り、稽古中の山下は異常なほど高坂の演技に指導を入れており、反対に台詞数が多いはずのエミには話しかけることすらしなかった。自らの彼女に厳しい言葉を投げたくはない、山下が持つ座長としての誇りはそんな下らないものではないはずだし、素人目から見ても、高坂の才能を引き上げようとする行為であることには違いないのだ。
 ──座長は、今何をしているのでしょうね。
 静かにうねる波を眺めながら、花火大会にて彼女が放った言葉が僕の小さな胸を打った。
 彼らの公演は、三週間後に迫っている。

「リハーサル当日は、お前も覗きに来てくれ」
 山下より連絡が入ったのは、平日の業務中、八月の照りつける太陽が以前にも増して、その輝きを出した頃だった。営業車に乗りラジオを流していた僕は、危うく彼の電話を取りそびれてしまうところだった。
「営業マンの癖に、すぐ電話には出ないとは」
「都内には駐車場も少ないからね。それに、どうせまた劇団の話だろう」
 都立霊園の側に車を停めた僕は、鳴り響くエンジン音やガソリンの匂い、そんなものに嫌気がさしていた。じりじりと焼かれたアスファルトの上を歩きながら、山下の話に耳を傾ける。
「来週……つまり本番の一週間前、大船芸術館でリハーサルをするんだ。お前も友人を誘って見に来てくれよ。普通は関係者以外の立ち入りを禁止しているけど、陽介ならウチのスポンサーみたいなものだから大丈夫だ」
「スポンサーとは言うが、資金提供する金などはないよ」
「──冗談だよ。俺は、ただ友人であるお前に見て欲しいだけ」
「そして、大いに宣伝をするべし」
「そう。宣伝するべし、だ。頼むよ」
 なし崩し的に彼らのチケットを友人に配ることとはなっていたが、まさか会社の同僚、後輩に売りつける訳にもいかず、先日山下から預かったチケットの束はそのままの形を保ったまま僕の鞄に眠っていた。我々の仲なのだ。別に客の一人や二人、呼べなくとも嫌な顔をされることはあるまい。しかし、あの鋭い眼光を飛ばす鎌倉少女はどうだ。花火大会にて、こちらの手を離そうともしなかった彼女はどう思う?
 ──黙っていれば、よくも勝手なことを! 
 霊園に並べられた墓石の間をぼんやりと歩いているとき、ふいに高坂演じる静御前の迫力ある台詞が脳裏に響き渡った。いや、それだけではない。彼女が山下の考案した役柄に沿って、まるで水を得た魚のように躍動している。歓喜している。その身体は、より高みを目指そうといま膝を折りたたんでいて──。まとわり付く彼女の幻影、それはどこか他を寄せ付けない孤独な意志をもって、この心に住み着いている。
 シャツのボタンを開けて、鎖骨の脇を流れる汗を拭く。車の冷房が効くまでの間、僕は駐車場の傍にて、周囲の蝉が発する狂気にも近い喧騒の中で立ち尽くしていたのだった。

 芸術館に到着すると、見慣れた面々が出迎えてくれた。珍しくも車で来た僕に対し、皆は驚きの声を上げた。
「あれなら遠征も簡単に出来るなァ」
 武者姿の有馬は、刀の収まり具合を手で確認しながら擦り寄ってきた。舞台裏では、着物を羽織った吉本が陣頭指揮を取っており、眼鏡で台本を覗きながらあちこちに指示を飛ばすその姿は、いかにも知恵者という風貌である。脚本担当の男は客席に立ち、何かを念入りににチェックしながら、小道具を持ち右往左往する劇団員たちを眺めていた。
 舞台裏の隅、別室のドア前で暑苦しい格好の有馬が僕に手招きをしている。彼の笑顔に誘われてドアの取手に手をかけると──。
「あっ!」
 声を出したのは肌着姿の高坂だった。薄い布地を隠すようにして腕を組み、外から中を覗く有馬と僕をキッと睨んだ。
「あっ、もう着替え終わったところかァ。残念でしたね」
 有馬はとぼけた様子でそう言うと、急いで舞台の方に走って行った。数秒後、彼の大声が部屋中に響き渡った。
「ヤァ! 我こそは……」
 ──座長とエミちゃんは、まだ来てないね。
 気まずさのあまり、僕は何かを喋らなければと思った。しかし、目前の高坂はその言葉でさらに目を細め「知りません!」と、叫んだ。苦笑いをしながらドアを閉めようとする際、何故だか腹を押さえながら身を構えた彼女の姿を捉えたのだった。
 山下がエミを連れて美術館に到着したのは、リハーサルの始まる一時間前のことだった。
「遅くなって悪いな、皆ちゃんと用意は出来ているか」
 彼は吉本と少しの間話し込み、こちらに客席を指差した。
「ほら、孤独なスポンサー様の席はあちらだ。今日は本番さながらの通し稽古だから、見応えは保証するよ」
 微笑んだ僕の横を、困難な表情をしたエミが通り過ぎて行った。いつも柔らかさが、その顔からは感じられなかった。
 リハーサルが始まってもなお、隣に座る脚本担当はぶつぶつと独り言を垂れ流していた。演出監督も兼ねているのだろうか、事あるごとにに「ううむ」「いやァ」などといった反応を見せる。単純に芝居を見に来た僕からすれば鬱陶しい事この上ない。集中出来ない状況で劇が進行していくものの、やはり彼らの演技は稽古で見るそれよりも活気があり動きもより大きく、そして何より客席に向けたその瞳が輝いている。躍動する若き劇団の姿を見て、僕は初めて若者よりほとばしる汗というものが羨ましく感じたのだ。
「まったく、俺という男は情けない奴だ。たかが義経の付き女ごときに、あそこまで神経を使わねばならんとは!」
 山下演じる景季の哀れな愚痴が舞台に広がった。ここまでは、何の文句もない出来である。しかしながら、横の同志は座長の台詞にも少し意見があるらしく、いまだ「書き直すかなァ」などと呟いている。
 終盤、鎌倉より派遣された軍勢を見て九州に落ち延びようと足掻く義経は、嵐で荒れ狂う海のために静御前とはぐれてしまう。行く先もなく彷徨う彼女は、坂東武者の有馬に捕まり、鎌倉に送られることとなった。
「私の腹には、義経様より与えられし命がある。自らの運命は気にならずとも、この子だけでも鎌倉に置いてはくれないか」
 気丈な態度を取り続けた静御前は、目に涙を溜めながら頼朝にそう訴えかける。義経の横にいたときのようなボロ着ではなく、立派に繕った着物を羽織りつつも精神的な弱さを醸し出すのは、まさに高坂の持つ才能ではなかっただろうか。ひっきりなしに呟いていた隣人は、舞台にて這う彼女の姿を見てからというもの急に無口となった。静御前役に高坂を選んだ山下の判断は、やはり正しかったのだろう。
「我も鬼ではない。子が女であれば、許そう。しかし男であれば、その身を海に捨ててしまわねばならぬ」
 頼朝役の吉本がそう強く言い放ったとき、顔を上げた高坂は、台詞を忘れたようにしてただ呆然と彼の顔を見つめていた。台本からいけば頼朝と対面する静御前は、腹を押さえながら大きく泣き叫ばなければならない。数秒経っても反応のない高坂の姿に周囲も、そして隣の男も慌ただしくなってきた。
「高坂、台詞はない。泣け! 泣くだけ!」
 舞台裏より、有馬の声が聞こえる。吉本は一度咳払いをして、高坂に向き直った。
「我も鬼ではない。子が女であれば、許そう。しかし男であれば、その身を……」
 彼が再び頼朝の台詞を読んだとき、心ここに在らずの高坂が突如として口元を押さえ立ち上がった。動きにくそうな足取りで客席に降りてくると、劇場の隅に身体を崩し、大きな音を立ててえずき始めた。舞台裏より飛び出る山下、続いて重装備の有馬や着物姿の吉本が、彼女を取り囲むようにして駆け寄ってきた。
「おい、気分でも悪いのか。すぐ病院に連れていこう!」
 誰かが声を上げた。しかし、高坂は相変わらず腹をさすりながら動かず、壁に当てた手を支えにしながらも辛そうな表情をしている。我々が舞台裏より吐き気止めなどの薬を抱えて来たとき、うずくまる高坂を見ていたエミが、何かの拍子に「──嘘でしょう?」と呟いた。
「高坂ちゃん、あなた妊娠してるの?」
 僕の足が止まった。いや、僕だけではない。皆も唖然とした表情で顔を見合わせている。
「妊娠しているのを、ずっと隠していたんだ」
 エミは自身のカツラを剥ぎ、高坂を睨み続けていた。当の高坂は顔面蒼白となって、舞台の照明をぼんやりと眺めているように見えた。身体が硬直してしまった我々の横で、彼女たちに近寄ったのは座長である山下だった。
「高坂……。子供が出来たのか」
 彼もまた、その顔から血の気が引いている。山下の言葉を聞いた瞬間、エミはとっさに振り返り、彼の頬を強く叩いた。劇場に乾いた音がこだまする。そして、訪れる沈黙と耳鳴り。辛抱ならずに口を開いたのは、吉本である。
「山下の子供なのか」
 困惑する山下、いまだ席に張り付いたまま動けない脚本担当、立ち尽くす外野の我々と頭を抱えて座り込むエミ。腹を押さえながら立ち上がった高坂の姿を見たとき、花火大会にて聞いた彼女の言葉が、再び蘇ってきた。
 ──座長は、今何をしているのでしょうね。
「お前……」
 思わず声が出た僕に対し、高坂はこちらを責めた口調で叫んだ。
「うるさい!  関係ない、関係ないでしょ? エミさんでは満足出来なかったから、座長は私を選んだの。それだけよ」
 彼女は憔悴した格好で、ゆっくりと劇場の扉を引いて我々の視界から姿を消した。涙を流していた。静御前としてではなく、高坂として子を案じた涙だった。母としての毅然とした涙だった。十代の軽快なステップは既になく、押し潰されてしまいそうな現実を抱えたまま高坂は消えていった。束の間の静寂、そしてやっと事態が飲み込めた劇団員たちは、皆走って彼女を追いかけてゆく。山下はこちらに一瞥もくれず、ただ高坂がそうしたように劇場の照明の方を向き、目を細めながら茫然としていた。
 僕は耳を澄ませた。しかし、野武士集団より与えられた青臭い記憶から、彼らの声はもう聞こえてはこなかった。

 4. 僕

 カレンダーをめくる。八月に思い当たる予定は、既に書き込んでしまっており、とくに確認する事項もなかった。代わりに僕は十四日の枠に記載された文字をペンで塗りつぶした。
 ──野武士集団、公演本番。
「ねぇ、陽介くん。何しているの?」
 背後のエミが静かに言った。僕は答えることなく、彼女の手を引いて自宅を出た。近所の河原には残暑の日差しが照ってはいたものの、強い風が身体をほど良く冷ますのだった。
「ねぇ、ごめん。急に連絡なんてしちゃって。公演にも来てくれないし、少し気になってさ」
 エミは髪をなびかせながら、相変わらず大きい歩幅で歩く。
「なんだか色々と考えてしまって、結局山下ともあれっきり連絡を取ってないんだ。それでも公演には顔を出すべきだったかな」
「それはもういいの。あたしも本番のあと劇団を辞めちゃったし。いまは新たな住処を探してる途中なんだ」
「住処?」
「身を置く場所。つまり新しい劇団ね」
 エミの声は前にも増して柔らかく、そして透き通っていた。なによりも山下、高坂との間に起きた出来事を思い出しても、彼女がここまで明るい表情で歩けるのを僕は不思議で仕方なかった。
「あたしね、山下くんと高坂ちゃんが隠れて会っているのを知ってたんだ。正直、どこまで関係を持ったかも気付いてた。でもまさか、大事な時期にあそこまでやるなんて……。少し十代の行動力を舐めていたかもね」
「……あれから、劇はどうなったの?」
「静御前のシーンは切り捨てることも考えたんだけど、結局あたしが代役をやったの。義経の方が面白い役だったけど仕方がないね。公演自体はすごく良い出来だったよ。東京の雑誌にも記事が載るくらい……。でも、あたしの居場所はなくなっちゃった」
「あの状況で、本番をやり通しただけでも凄いと思うよ。僕にはムリだ。恐らく、山下にも」
 軽く頷いたエミはこちらの手を取り、力強く握った。風に吹かれる黒髪がこちらの胸に当たるたびに、僕は高坂の姿を想った。
「あたしたち、二十代も折り返し地点だね」
「……高坂さんはもう稽古場にも顔を出していないんだろうね」
「山下くんは、連絡を取ってるみたいだけど、行方は分からないままみたい。……あたし、多分芝居に熱が入り過ぎてたのね。彼の誘いもよく断っていたし、リハーサルの日だってそのことで喧嘩しちゃってたんだ」
「喧嘩?」
「うん。そんな浮ついた心で良い芝居は出来ないぞって、言ってやったの。高坂ちゃんとの浮気を責める心はなかった。ただ、劇団が壊れてしまいそうで怖かったの。怖かったんだ」
 手を繋いだままの僕らは、それからしばらく黙ったまま歩いていた。ただただ川上を目指して歩き続けていた。川から魚が跳ねる音が聴こえた。それを合図のようにしてエミはその歩みを止めた。振り返った僕は、涙を流しながら唇を噛む彼女の姿を見た。
「今日だけでも良いから、慰めてくれない?」
 それは稽古場で見たエミのどのような演技よりも弱々しく、何かを激しく求めている声に感じた。静かに手を解いた僕は、真剣に彼女の目を覗き込んだ。
「僕には、誰かの代役なんて出来ない」
 河原から歩道へ出るとき、彼女はもう横を歩いてはいなかった。泣き声も、怒号も、聞こえはしなかった。僕は歩きながら、ポケットに入った写真を取り出した。中央には座長が座り、横で笑顔を浮かべながらプラカードを持つ女。列の端には不機嫌そうな少女が立っている。
 皮肉なものだ、と思った。柔らかな雰囲気を纏うエミは、人一倍劇団と芝居に入れ込んでおり、色恋ざたもあくまで経験作りの範疇を越えなかったのかもしれない。リハーサルで高坂に向けたあの軽蔑の眼差しは、一人の女に向けたものではなく、才を持つ若き女優に当てられたものだった。反対に高坂はその余りある才を持ちながらも、執着したのは自らの恋心だった。積極的に歩み寄ろうとしないエミの代役として努めたのだろう。
 いくら愚鈍な僕だとはいえ、誰かの代役などごめんだ。自らの人生、自らの役割、そして頼りなくも地に着いた自らの足で歩んでいかねばならないのだ。かつての友人が興した、かつての劇団のように──。



 あれから五度目の夏を迎えようとしていた。いつの間にか若さを失いつつある僕は、愚鈍という殻を捨て、新たな何かを掴もうと必死にもがいている。
 野武士集団はあの後で都内へと拠点を移し、最近ではテレビなどでも山下の顔を見るようになった。しかし、吉本や有馬といった連中は既に劇団を去ってしまったようで、僕の知る若き汗を飛ばした野武士集団はもうない。
 毎年、夏になると公演の招待状が届く。それを鞄に入れて、かつて彼らが声を枯らした鎌倉まで車を走らせるのが、夏に対する出迎え方となっていた。いまだ稽古小屋のゴミ箱には数年分の招待状が残されている。そして、僕は静かに日が暮れるのを待つのだ。

 沈みゆく陽の光が、朽ちた小屋の窓から差し込んでくる光景。狭い空間は次第に薄暗くなり、右手に持つ招待状の文字列は、果たして何を表しているのかが分からなくなる。
 床のどす黒い滲みは、わずか数年の月日でここまで大きさを増したのだろうか。壁の端に捨てられたようにして積み上がる舞台衣装、歪んでしまった姿見からは、彼らの強靭とも言える意志が。そして、唯一その姿形を保っているように思えた事務机。刻まれた小さな傷に反射する形で、悲痛の叫びを僕に浴びせたのだった。
 小屋の外に出て大きく伸びをした僕は、由比ヶ浜を歩く親子の影を見た。父の姿は傍になくとも、心から楽しそうに笑う母と子。後ろに出来た足跡は、静かに浜を撫でた波によって消えてしまった。
 ──鎌倉少女、君はいまだ強い眼光を放って後悔なく前に進んでいるのだろうか。
 あれから五度目の夏を迎えようとしていた。今年の夏を招き入れたとき、僕の二十代は終わりを告げる。

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