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静かなる隣人、大いなる可能性を語る

 よく顔を出すと言っても、駅前の喫茶店にて繰り広げられる平凡な日常の様ほど、代わり映えしないものはあるまい。肌を寄せあうように座る人々の内、幾らかは常連客かもしれない。幾らかは馴染みのない客かもしれない。彼らの半数は降り頻る小雨から逃れるため、残るは何かの目的をもって、湯気の立ち登る珈琲カップに口をつけるのだろうか。
 僕が玄関のドアを閉めたあとの自室。秩序が保たれ、無言、無音の世界であるはずなのに、どうにもその確証がない。もしかすると、普段は姿の見えない同居人が、僕の代わりに今月分の光熱費を振り込んでいるかもしれぬ。洗濯物を取り込んでいるかもしれぬ。溜まった仕事を片付けて、まだ温もりの残ったベッドに寝転がっているかもしれぬ......。しかしながら、僕が再び玄関のドアを閉めるとき、光熱費の催促状は机の上にしっかりと置かれていて、雨で湿った洗濯物は知らぬ顔で風になびいている。溜まった仕事は僕に明らかな圧力をかけ、硬くなったベッドは冷めきっている。冷めきっている。意思なき者が、冷めきっている──。

 世間の「かもしれない」を一箇所に集めて、その可能性の0から100に至るまで、欠伸も出さずにコツコツと試し続けた男がいる。周囲は彼を嘲笑した。男は皆に笑い返した。可能性はいつまで経っても広がりはせず、ときにそれは死滅した宇宙の端を彼に思わせた。やがて試みが行き詰まると、彼は崩れかけた自宅の壁を激しく数回叩いた。
「やかましい! この、世捨て人め!」
 怒鳴るのは、隣室の老婆である。その罵声をもって、世捨て人はいまだ自らが世界に取り残された唯一の人間でないことに安堵を覚える。彼の思い描いた宇宙──そんな数多くの可能性が死滅していなかったという事実は、つい最近になって判明したばかりである。世の常識は大いに変化し、男の業績は輝かしいものとして、我々の脳裏に焼き付いている。

 静まりかえった僕の部屋。誰もいるはずのない僕の部屋。もしかすると、今この瞬間、隣室からの激しい衝撃に晒されているかもしれない狭く息苦しい世界。喫茶店でちぢこまる僕には聴こえるはずもない新たな常識、可能性に、いまだ見ぬ隠れた同居人が怒鳴り返しているかもしれない。しかしながら、僕が再び玄関のドアを閉めるとき、やはり光熱費の催促状は机の上にしっかりと置かれていて、雨で湿った洗濯物は、知らぬ顔で風になびいている。溜まった仕事は僕に明らかな圧力をかけ、硬くなったベッドは冷めきっている。冷めきっている。意思なき者が、冷めきっている──。

「やかましい! この、世捨て人め......」
 息苦しい世界で僕が代わりに罵声をあげた。隣室が空き部屋である事実に気がついたのは、その数時間後のことだった。

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