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【俳句観6】俳句に使う動詞を考えた件

アホの一つ覚えのように「言葉で言葉を飾らないようにしよう」と自戒してきた。その理由は、カッコつけに執心すると詩の部分への配慮が疎かになるためだ。言うなれば、純金のような作品に仕立てたいのか、それとも金箔でコーティングした石(字面さえ良ければそれ)で満足なのか、そんな美意識の違いに行きつく。それによって作品の完成度は大きく変わってしまう。

これは詩を書くよりも、圧倒的に字数が少ない俳句を創る時に強く感じる。カット割りで俳句を構成するタイプの自分は、17音の全ての言葉に対して「どうしてこの言葉を使ったのか?」の理由が言えないと完成には程遠いと思っている。なので、”何となく” な気分で選んだ言葉は全部アウトだ。比較的長い文章なら多少ミスっても他の場所で挽回できるけれど、俳句はそれを許してくれない。

それゆえに、俳句における言葉選び、特に動詞は作者のセンスを測る良い指標だと思う。俳句を始めた頃は、とにかく名詞を美化する動詞で字面をキレイにすることに必死になっていた。自分の感性の掘り下げや語彙力のトレーニングとしてならいい方法だけども、これ自体は詩の創作ではない。

例えば、「夢描く」とか「笑顔咲く」、「闇を裂く」、「桜舞う」とテレビで散々聞いたような体のいい言い回しがそうだ。これはモニターがあるからできる演出で、文字だけ起こして見れば、いかにそれらが美化のために用いられている動詞なのかが分かる。

法則としては、強い動詞を使うほど ”言うとそうでもない感” を与える。この虚飾感は、興味がないテレビショッピングの商品をプレゼンターがありとあらゆる褒め言葉でまくし立てている時に感じるそれと似ている。CMの場合は、動詞に限らず「シンプルでエレガントな〇〇」のような形容動詞が多用されていたりもする。褒めるにしても、やり過ぎると嘘臭さが漂うのだ。

おそらくではあるが、俳句は無理に背伸びしていないやさしい動詞を選んだ方が不思議と俳句っぽくなる(詩が立つ)のが自分の俳句観だ。自分の描きたいものに合いそうな動詞を列挙して、一番自然なものを選ぶと作品に余計な雑味がつかなくて済むことが多い。

俳句は実映像や写真の助けが借りられず、17音の短さで描き切る表現力が求められる。自分のような素人にはめっちゃくちゃに厳しい縛りだ。でもそれに耐えられなければ、見てくれの良い美化動詞をこねくり回して「見た目だけでも立派にしよう」とつい楽な方に逃げてしまう。その心理には詩作の意志が全くないから、出来上がりは俳句の形をしていても詩にはなっていない。だから動詞には特に気をつけよう、そんな風に自分は初心者の道を歩んでいる。

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これから俳句を始めようと言う方、初心者におすすめです。日常会話とは違った言葉の使い方や、何をどう意識すればいいのかを簡単にまとめています。

素人レベルが俳句に対する見方をまとめたエッセイです。個人の勝手な見方ですので、必ずしも正しいとは限りません。

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