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哀しみの湖水・むべの実と紅葉の道

 
「果物のなかでは、何が、一番好き?」  
 誰かに、そう聞かれたら、たぶん、わたしは、即座に、

「一番は、グレープフルーツ、かな。」

と、答えるだろう。

 何故なら、「グレープフルーツ」は、そんなに、甘くなくて、食べたあと、口のなかに、若干の「苦み」が残るから。。
 
 甘いばかりの果物は、わたしには、なんだか、「つまらない」のだ。
 
 食後に残る、あの「苦味」が、もしかしたら、わたしが、「グレープフルーツ」に惹かれる理由、なのかも、しれない。

 わたしが、幼い子どものころには、「グレープフルーツ」なんて、まだ、名前さえも、聞いたことがなかった。

 アメリカからの輸入が解禁された一九七〇年代に、ようやく、近所の身近な商店などでも買える、庶民的な果物になったからだ。

 そんなだから、わたしが初めて食べたのも、かなり遅くて、もう、高校生になってからだったと思う。

 ーーレモンほど酸っぱくなくて、こんなにも、食べてスッキリする、美味しい果物が、あったなんて。。

と、素直に、感動した。

 何かをはじめて食べるとき、ひとは、少し、緊張するし、少し、不安にだって、なっている。

 それでも、食べてみて、美味しかったら、「とてもしあわせな気持ち」に、なるものだ。

 そうして、思わず、笑みが、こぼれる。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「琵琶湖」の湖水を感じるための、ちょっぴり「霊的な旅」に出かけた日から、もう少しで、一ヶ月が、経とうとしている。

 「旅の記憶」は、この一ヶ月ほどのあいだに、わたしの中で、さらに「霊的なもの」に、変化して来た。

 何故なら、「旅」から受け取った「印象」は、わたしのなかの「たましいの記憶」と呼応して、しだいに、「純化」されてゆく、からだ。

 印象的だった「景色」や「ひと」や「事物」と、受け取った「感情」だけが、「記憶」としてこころに残り、わたしのなかで、「巡り廻るたましいの旅」として、少しずつ、組み立てられてゆく。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「むべなるかな。」

 紅葉した落ち葉を、踏みしめながら、ゆっくりと、「三井寺」の入口から、参道に入ろうとしたときに、いきなり、そんな言葉が、どこからか、聞こえたような気がして、わたしは、思わず、いちど、空を仰ぎ見て、それから、まわりを見廻した。

 ーー天智天皇。。

 「むべなるかな。」

とは、とある「逸話」のなかで、天智天皇が発したとされている「お言葉」だ。

 琵琶湖の湖畔に、「大津京」が栄えていたころ、天智天皇は、何度か、「蒲生野」に狩りに出向いたという記録が、残っている。

 その道すがら、「奥島庄」というところを訪ねた折に、その地で、八人もの男子を産み育て、それでも、なお、無病息災な老夫婦に、出会ったという。

 老夫婦が、あまりにも元気そうなので、

 「いったい、お前たちは、何を食しているのだ。」

と、お尋ねになった。

 すると、老夫婦は、

「この地に伝わる果物を、毎年、秋に、食しているのです。」

と言って、アケビに似た果物を、天智天皇に、差し出したそうだ。

 天智天皇は、その場で、その果物をお食べになり、そうして、

 「むべなるかな。」

という「お言葉」を発したという。

 「むべなるかな。」とは、「もっともだな。」というほどの意味である。

 その果物が、大変に、気に入られた天智天皇は、その老夫婦に、

 「この果物を収穫したら、毎年、朝廷に献上するように。」

と、命ぜられた。

 それから、この果物は、そのときの天智天皇のお言葉によって、「むべ」と呼ばれるようになった、とされている。

 これは、古代から伝わる「逸話」で、「むべ」は、千年以上も、その地から、「特産物」として、朝廷に、献上され続けていたのだった。

 やがて、作る農家が無くなり、一度は途絶えたのだけれど、近年になって、有志が、生産を再開させ、また、皇室への御用達が、復活しているのだそうだ。

 「むべなるかな。」

 その言葉が、どこからか、わたしに、投げかけられたとき、

 ーー天智天皇のたましいは、まだ、「大津京」に、いらっしゃる。。

 参道を歩きながら、わたしは、そんなことを、「メッセージ」として、受け取ったように、思えたのだった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 天智天皇は、天皇に即位する以前は、葛城皇子(かつらぎのおうじ)とか、
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、呼ばれていた。

 中大兄皇子。。

 「オオクニヌシノミコトさま」の次に、子どものころから、わたしが、ずうっと気にかけているひと、だ。

 神さまではなく、実在する皇子なのだけれど、それでも、その「実像」は、ほとんどわかっていない。

 古代史を、紐解けば紐解くほど、どんどん、混乱して、ますます、「実像」がわからなくなるひと、なのである。

 何故なら、文献の解釈が、学者や研究者によって、全く違う、からだ。

 「正史」とされている「日本書紀」そのものが、すでに、事実が書かれている保証がないうえに、難解な文章なので、「読み下しかた」からして、研究者によって、異なってしまうのだ。

 だから、実際のところ、ほんとうは、誰の子どもで、生年はいつか、というところからして、もう、解釈が、さまざまだったり、する。

 朝鮮半島に、まだ、高句麗、百済、新羅という、三国があって、ほんとうは、それら全てを征服したい唐が、何度となく、いくさを仕掛けてくる、そんな時代に、統一されつつあったヤマト政権の中心に在って、精一杯に生きたひとだ、ということくらいにしか、事実としては括れない、のである。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 わたしが、最初に、「中大兄皇子」という名前を知ったのは、小学校五年生の社会科で、だった。

 教科書で見た瞬間に、何故か、その「名前」に、惹かれてしまったのだ。

 だから、どんなひとか、知りたくて、あの時代には、まだ、「大化の改新」と呼ばれていた「乙巳の変」について、一生懸命に、調べた。

 それを喜んだ担任の先生が、学級内で、研究発表をする機会まで作ってくれたくらいに、わたしは、ハマってしまったのだった。

 小学生には、教科書的な史実しか調べようが無いから、その当時、わたしが抱いた「中大兄皇子像」は、勇敢で、頭が良くて、ヤマトの独立を東アジアの諸国から守るために、数々の国政改革を断行した、カッコいいひと、だった。

 大人になってから、さまざまな文献を紐解くうちに、権力を手に入れるためには、騙し討ちをしたり、策略を廻らせたり、残虐に人殺しをする、手段を選ばない、冷酷で残酷なひとなのかな、なんて思うようにもなったけれど、それでも、それさえも、権力の中枢にとどまる、保身のための、「捏造された伝説」のようにも思えて、ほんとうは、どんなひとだったのか、やっぱり、ちっとも、わからないのだった。

 古代のモラルは、そもそも、現代とは、全く異なっている。。

 ひとこと間違っただけで、「謀反」の濡れ衣を着せられて、権力者から処刑されてしまったり、兄弟でも、親子でも、権力を手中におさめるためには、血で血を洗うようなことをしなければ、一寸先の自分の命が、守れないような時代なのだから、ぼんやりしてなど、いられないのだ。

 それでも、わたしは、どうしても、その「名前」が好きなので、

 ーーほんとうは、どんなひとだったのだろうか。。

と、気になることには、変わりないのだった。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 参道の終わり近くの、左側には、古い手水舎が、あった。

 手を清めるために、中に入ってみると、そこには、龍の彫り物が、御水を御守りしていた。強そうだけれど、どこか憎めない雰囲気の、印象的な、龍だ。

 ゆっくりと、手を清め、口を漱ぐ。

 そうして、まだ続く参道の、最後の階段を、わたしは、登りはじめた。

 階段は、かなり、急だった。

 登り切ると、大きな金堂が見えて来て、入る者を、圧倒する。

 公開されている境内の地図を見ながら、さらに進むと、金堂の裏手に、わたしが、長らく憧れていた「三井の霊泉」が、鎮座して、在った。

 観光スポットだというのに、不思議なことに、お天気の良い、お昼前の時間に、ひとは、誰ひとり、歩いていない。。

 ゆっくり近づいてゆくと、わたしは、なんだか、だんだんと、息苦しくなって来た。

 「せつない気持ち」が、わたしのからだ全体を、包みこんで来るような感覚が、して来たのだ。。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「三井の霊泉」は、天智天皇、その弟とされる天武天皇、そして、天智天皇の娘であって、天武天皇の后であった持統天皇の、三天皇が、「産湯」に使ったと伝えられる「湧き水」だ。

 天智天皇は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、天武天皇は大海人皇子(おおあまのおうじ)、である。

 通説では、この二人は、どちらも、万葉歌人で、優秀な巫女でもあった「額田王(ぬかだのおおきみ)」を、愛したことに、なっている。

 「日本書紀」には、「額田王」は、先に大海人皇子と結婚して、十市皇女を産んだ、と記されている。

 その後は、中大兄皇子が、天智天皇として即位するころに、召されて、天智天皇の妻として、「大津京」に住んでいたことが、万葉集のうたの詞書から、推察されている。

 この三名の関係性が、果たして、人間らしい「恋愛」が中心に据えられたものだったのか、それとも、優秀な巫女の「額田王」を、権力者が、相互に取り合ったものなのか、真実は、今もって、わからずじまい、である。

 「三井の霊泉」は、おそらくは、千年以上も前から、ずうっと、同じように、「ぽこぽこ」という音を立てながら、全てを見通して、綿々と、湧き続けているのだろう。。

 「霊泉」こそが、実は、「真実を知るもの」なのだった。

 その「霊泉」の囲いの前で、わたしは、こころをこめて、丁寧に、参拝を、した。

 すると、何故か、息苦しさは、消えて、急に、呼吸が楽になった。

 ーー待っていてくれたんだ、きっと、ずうっと。わたしが、参拝に来るのを。

 わたしは、そう、解釈することにした。

 わたしの五感が、しだいに、古代の方向に、傾きかけて行っているような、そんな印象が、わたしを、捉えはじめていた。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 ーーさて、ここから、どこに行こうか。

 「三井の霊泉」への参拝を終えたわたしは、また、金堂の前まで、引き返して来た。

 順路としては、おそらく、金堂の内部にある、たくさんの、文化財の鑑賞なのだろうけれど、青空が、とてもきれいで、お日様も光っているので、わたしは、外を歩いてみたくなった。

 三井寺は、大変に、敷地が広く、はじまりは、千三百年以上前であっても、時代を経るごとに、たくさんのひとたちが関わって、時代ごとに、様式の異なる建築物が、その都度、建てられて来たので、歴史が感じられて、見ごたえがある。

 少し歩いたところに、三重塔などもあるので、わたしは、そちらの方向に向かって、歩き始めた。

 敷地内の木々のなかには、まだ、紅葉しているものも、少し、残っていて、それらが散って、歩く道を、色とりどりにしている。素敵な道だ。

 わたしは、その風情に、趣きを感じつつ、赤や黄の落ち葉を踏みながら、続く小道を、ゆっくり、ゆっくり歩き出した。

 ところが、少し歩いたところで、自分が、だんだんと、「不思議な感覚」に、囚われはじめていることに、気が、ついた。

 普通に、動きやすいスラックスとブラウスを身に付けているはずの自分が、いつの間にか、なんだか、ヤマト時代のような衣装をも、纏って歩いているような、そんな体感がしてきて、自分が二重に居るような、そんなイメージが、わたしに降って来たのだ。

 そうして、

 ーーすべては、終わったこと。。

 口から、勝手に、そんな言葉が出て来て、わたしは、自然に、そう、呟いてしまっていた。

 ーーそう、わたしは、かつても、ここを、歩いていた。。

 そんな言葉も、また、当たり前のように、わたしの口をついて、出て来たのだった。

 ーー「額田王」のたましいが、飛んで来ているのか。。

 なんだか、そのように思えて、しかたがなかった。

 ーーふう。。

 混乱したわたしは、思わず、ため息をついた。

 空は、どこまでも青く、澄んでいて、十二月とは思えないほどに、暖かい。

 とてもとてもきれいな景色のなかを歩いているのに、わたしは、何故だか、つらく、悲しく、せつない気持ちから、どうしても、逃れることが、出来なくなっていた。。

 ーーそれにしても、なぜ、ひとが、誰ひとりとして、歩いていないのか。

 まるで、「ひと払い」でもしたかのように、誰もいない、「ひとりだけの空間」で、わたしは、現代と古代の、ときのはざまに、閉じ込められているかのような感覚に囚われて、紅葉の小道に、ただ、立ち尽くしているのだった。。

 三重塔がある場所からは、真っすぐ遠くに、「琵琶湖」があることが、なんとなく、感じとれる。

 その、遠くの「琵琶湖」から、「大きな深い哀しみ」が、信号のように、わたしに向かって、送られて来るのを、わたしは、かすかに、感じはじめていた。。

 三重塔を通り過ぎたわたしは、「琵琶湖」を見渡せる「展望台」のある、丘の上の建造物まで、行ってみようと、決心していた。

 ーーこんなにも、快晴なのだから、さぞかし、琵琶湖が綺麗に見渡せることだろう。

 そう、思ったからだ。

 この土地は、決して、わたしを「祝福」してはいない。

 それだけは、もう、はっきりと、分かって来ていた。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「展望台」のある丘の上に昇る道には、さすがに、ちらほらと、観光客が、歩いていた。

 途中には、お休み処の茶屋も、あった。

 茶屋の前では、高校生くらいの、アルバイトの女の子が、箒で、道を、掃除していた。

 「ここを登って行くと、琵琶湖が見渡せる展望台って、ありますか?」

 自信が無かったわたしは、その女の子に、道を、聞いてみた。

 「ええ。大丈夫ですよ。この道を歩いて行くと、展望台に着きますよ。」

 「何分くらいかかりますか?」  

 結構な登り坂なので、わたしは、覚悟が要ると思って、そう、聞いてみた。

 「そうですねぇ。五、六分はかかりますね。頑張って下さいね。」

 アルバイトの女の子は、親切そうに、わたしを、励ましてくれた。

 「あ、でも、展望台から、もう少し登るところがあって、そこまで登ると、ほんとうに、きれいに、琵琶湖が見渡せますよ。」

 女の子は、そうも、教えてくれた。

「ありがとう。頑張って登ってみますね。」

「ええ。頑張って下さい。今日は、こんなにお天気が良いから、高いところまで行ったら、かなり、きれいに、琵琶湖が見渡せるはずですよ。」

 女の子は、にっこりしながら、そう言って、わたしに、手を振ってくれた。

 わたしも手を振って、女の子にお礼を言い、また、ゆっくりと、坂道を、登り出した。

 登る途中も、「大きな深い哀しみ」は、わたしを、覆って来て、決して、離れてはくれない。。

 ーー「琵琶湖」さえ見えれば、この哀しみは、すっと、消えてくれるのかもしれない。。

 ーーもう、あと、ひと息だ。頑張れ。

 最後の急な坂道のところで、一旦立ち止まって、そう、自分に言い聞かせてから、わたしは、また、歩き出した。

 そうして、ようやく、「展望台」まで、登り着いたのだった。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 けれども、やっと辿り着いた「展望台」で、わたしは、愕然とするしか、なかったのだ。

 遠くにあるはずの、「琵琶湖」の、真上の部分だけが、まるで、そのとき、わたしのからだを覆い尽くしていた「大きな深い哀しみ」のように、すっぽりと、「雲」に覆われているのだ。

 「琵琶湖」の手前に拡がる「市街地」は、青空の下、きれいに見渡せているのに、「琵琶湖」だけが、なんにも、見えない。。

 すぐには、事態が呑み込めなかったわたしは、アルバイトの女の子に教わったように、さらに急な、細い坂道と階段を昇った先にある、もうひとつの、「奥深い展望台」にまで、足を伸ばしてみることにした。

 もっと、高いところまで行ったら、もしかしたら、少しでも、見えるのかもしれない、なんて、考えたのだ。

 一歩一歩、踏みしめて昇らないと、ちょっと危ないような、急な坂の小道だったけれど、わたしは、頑張って、昇ってみた。

 登り切ってみると、そこには、また、誰もいない、たったひとりの、「わたしだけの空間」が、拡がってしまっていた。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 その広々とした、丸い空間には、何かの大きな慰霊塔のようなものが立っていた。隅っこに、ベンチが、ひとつ、あったので、わたしは、そこに座って、お昼ご飯に買って来た「おにぎり」を食べることにした。

 ずいぶんと歩き続けて来たので、喉も乾いていた。持っていたペットボトルのお茶で、まず、喉を潤し、眼下に拡がる「景色」を、見回してみた。

 やっぱり、「琵琶湖」の上だけは、「雲」に覆われていて、何ひとつ、見えない。

 「不思議」としか、言いようのない、「風景」が、わたしの目の前に、拡がっていた。

 お天気は、素晴らしいし、暖かいし、風が、柔らかで、心地よい。

 歩いて来たので、「おにぎり」も、また、格別に、美味しい。

 それでも、わたしは、いまだに離れてくれない「大きな深い哀しみ」に、からだ全体が、すっかり、取り込まれたかのようになってしまっていて、とてもとても、悲しかった。。

 大変な観光スポットに居るはずなのに、まわりには、どうしてか、誰ひとり居なくて、こんな高台にまで昇って来るような観光客は、もう、これからだって、居そうにも、なかった。

 そんなにも、頑張って昇って来たのに、お目当ての「琵琶湖」だけは、わたしに、「姿」を見せてくれないのだ。

 そうして、「琵琶湖」は、わたしに向かって、「大きな深い哀しみ」の「信号」だけを、送って来る。。

 ーーわたし、「あなた」に会うために、頑張って、こんなところまで、来たのにな。。

 ーーなにが、そんなに、哀しいの?

 わたしは、隠れたままの「琵琶湖」に向かって、しかたなく、そう、話しかけていた。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「旅」から帰ってから、一ヶ月、その間に、いろいろと調べてみたわたしは、「琵琶湖」から発せられていた「大きな深い哀しみ」の「正体」が、ようやく、少しずつ、分かって来たような、気がしている。

 それは、ひとことで言えば、

 果たすことが出来なかった、さまざまなことについて、「悔やんで」いる「天智天皇=中大兄皇子のおもい」だったのではないか。

と、いうものだった。

 わたしは、たくさんある「琵琶湖」の観光スポットのなかから、「三井寺」を選んだのだけれど、その「三井寺」は、「壬申の乱」で、「大海人皇子」に攻め込まれたために、「自害」する選択肢しか、許されなかった「天智天皇の息子の大友皇子(おおとものおうじ)」を供養するために、「大友皇子の息子」が、建立したお寺だった。

 しかも、あそこら辺は、かつて「大津京」が在った地域の端っこで、「琵琶湖」を見渡せる高台だから、「権力者」ならば、おそらくは、「国見」が出来たはずのスポットである。  

 天智天皇なら、あのあたりは、きっと、庭のように、歩いていたのではないだろうか。

「天智天皇」となる前の「中大兄皇子」が、あの時代に行った改革は、まず、最初は、「乙巳の変」だった。

 天皇さえも牛耳るほどの、強大な権力を手にして、国の中枢を担いはじめていた「蘇我入鹿(そがのいるか)」を、打倒した「クーデター」だと、教科書的には、教わったけれども、結局のところは、「権力」を、自分のほうに、集約させるための「画策」だった、とも言える。

 その後、権力を手中に収めた中大兄皇子は、母親の「斉明天皇」を助けて、さまざまな改革を断行しながら、一路、六六三年夏の「白村江の戦い」へと、邁進してゆく。

 「白村江の戦い」とは、簡単に言えば、古代ヤマト政権が行った、最初で最後の、海外に、兵を派遣した「戦い」である。 

 それは、滅亡しつつあった「百済」に、国力を挙げて援軍を繰り出して、「唐と新羅との連合軍」と戦い、その結果、大敗してしまったために、その戦後処理に、大変な労力を費やさざるを得なくなった、古代日本における、最大の「失策」であった。

 その中心にいたのが、「中大兄皇子と額田王」である。

 何故なら、中大兄皇子は、「斉明天皇」の息子として、「百済」に援軍を出すための、「陣頭指揮」を、文字通り、先頭を切って、取っていたのだし、額田王は、「斉明天皇」の傍らにお仕えして、天皇のおもいを「歌」に詠む役割を担っていた、からだ。

 「万葉集」に載せられている、有名な、額田王の歌を、あげてみる。

 八「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」

 【熟田津で、船に乗って出発しようと月を待っていると、月も出てきて、潮もちょうど良い具合になった。さぁ、皆のもの、今こそ漕ぎ出ようではないか。】

 これは、「百済」への援軍出兵のために、四国の熟田津で時期を伺っていた一行が、いざ、出陣のときを迎えたときに、斉明天皇の「おもい」を、額田王が、天皇に成り代わって、詠んだ歌とされている。

 ただし、「斉明天皇」は、そのときには、もう、六十歳を過ぎていたので、実際には、陣頭指揮を取っていた「中大兄皇子」の「おもい」を、代弁している「うた」であろうと、解釈しているひともいる。

 この歌は、額田王の、「歌人」としての「才覚」と、霊力を持った「巫女」としての「指南力」とを、融合させた「見事な力強い歌」として、朝廷内における彼女の存在感を、示している。

 でも、この歌を、学校で、はじめて習ったとき、わたしは、額田王は、内心では、絶対に、「百済遠征」には、反対していたはずだ、と、強く思ったことを、憶えている。

 そのころのヤマト政権は、古くからの友好国であった「百済」を、「助けるか助けないか」で、大揺れに、揺れていたのだ。

 思惑は、さまざまにあって、「援軍派兵」には、反対のひとたちも、結構な数、いた。  

 それでも、中大兄皇子は、側近たちの意見も聞かずに、自分の考えのみを信じて、頑固一徹に、強行突破したのだ。

 そこに至るまでの経緯は、百通りあるかと思われるほどに、解釈があるので、とても、説明しきれないけれど、一番身近な弟、大海人皇子もまた、直前まで、反対を、唱えていたとされている。

 結果は、大惨敗。。

「白村江は血に染まった」とも、言われている。。

 生き残ったものたちは、這々の体で、逃げ帰って来た。。  

 もちろん、負けたのには、いろいろな不運が重なったことも、否めないのだけれど、それにしても、強行突破する前に、もう少し、まわりの意見を調整出来なかったのか、という疑問は、残るのだった。

 それでも、中大兄皇子には、振り返って反省するゆとりさえ、もう、無かった。

 何故なら、戦いに負けてしまったヤマトに、今度は、大国「唐」が、攻め込んで来るのではないか、という「国難予想」が、彼の脳裏を、支配したからだ。

 彼は、戦後処理として、今度は、大変な勢いで、「国防」に、邁進し始める。

 まず、「防人」の制度を現実化し、実際に、九州地方の辺境に、配置した。

 さらには、「唐」が攻め込んで来ることを想定して、太宰府を護るための、頑丈な「水城」を、広範囲に、廻らした。

 また、九州から四国、さらには近江にかけて、少なくとも、十七くらいの、国防のための「山城」を、早急に、彼は、建て続けたのだ。

 百済遠征の途上で、老齢だった、母親の「斉明天皇」は、すでに、亡くなってしまったので、実権は、完全に、中大兄皇子の元にあった。

 その、戦後処理の一環に、「大津京」も、あったのだ。

 都は、畿内にあったのだけれど、中大兄皇子は、百済遠征への反対派が、たくさん残っている畿内へは、おそらく、もう、帰れなかったのだ。

 そこで、国防的な観点を、第一義に鑑みて、中大兄皇子は、大津に都を遷すことを、決意する。

 この、畿内から、大津への遷都もまた、古来からの風習から外れているために、たくさんの反対に遭ったのだけれど、やはり、中大兄皇子は、今回も、頑固に、突破した。

 振り返る余裕もなく、皇太子のまま、さまざまな「国防対策」を進め、大津京に、遷都したのは、六六七年の四月である。

 そうして、彼が、ようやく即位して、「天智天皇」になったのは、白村江の戦いから、五年近くも経った、六六八年の正月だった。

 遷都に際しても、「額田王」は、大和三山への別れの歌を、何首か、詠んでいる。

 それは、天皇家を守って来た三輪山との別れをも含む、自然に対する「御霊鎮め」であり、巫女である「額田王」による「儀式的な歌」でもあった。

 強行な遷都には、強い霊力を持つ「額田王の同行」が、必要不可欠なものだったのではないか、と、わたしには思われてならない。

 それは、中大兄皇子にとって、実は、恋愛云々以前のこと、だったのではないだろうか。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 中大兄皇子には、どうにも、頑固で、独りよがりな一面があって、強引過ぎて、ついて行けない。。

 それでも、わたしは、昔から、なんだか、直感的に、彼には、ひとには見せない「裏の一面」があるように思えて、ならなかった。

 ーーほんとうは、どんなひとだったんだろうか。  

 それは、もう、小学生のころから、思っている疑問だった。

 だから、今回、「琵琶湖」から送られてくる「大きな深い哀しみ」について、考えはじめたときに、わたしは、「中大兄皇子」の、ひとには見せなかった「裏の一面」が、透けて見えて来たように、思えたのだ。

 ーーほんとうは、彼は、「白村江の戦い」を強行してしまったことを、悔やんでいたのではないだろうか。。

 ーー強気に振る舞うのは、ほんとうは、自信が無くて、不安が強くて、怖がりだったから、なのかもしれない。。

 彼は、「絶対に勝てる」と、盲信して、「白村江の戦い」に踏み切ってしまった。頭のなかには、「勝ったあとのこと」しか、無かったのかもしれないのだ。

 ーー勝って、「百済」を復興させ、その後、「百済」をヤマトの「属国」にする。それを、足がかりに、朝鮮半島を手に入れるのだ。

 そんな、妄想さえ、彼にはあったのかも、しれなかった。

 そう思うと、敗戦後の、彼の行動の、説明がつくような、気がするのだ。

 一部の研究者も、指摘しているように、敗戦後の、彼の「国防対策」は、あまりにも、過剰だ。

 短期間に、十七あまりの「山城」を作ったり、頑丈過ぎるほどの「水城」を築いたり、古来より神々からの庇護を受けてきた土地「畿内」を去って、国防と通商と逃げ道が確保されることに特化した「近江」に、都を移したり、と、まるで、嫌いな犬に追いかけられて、異常な早さで逃げるひと、のように、彼は、「国防対策」を行っている。

  それは、彼が、ほんとうは、とても、臆病で、不安が強くて、怖がりなことを、示しているのでは、ないだろうか。

 「天智天皇」の、そんな、臆病な側面を、察していたのは、傍に仕えていた女人たちだけ、だったかもしれない。

 額田王も、そのなかのひとりだったのだ。

 もともとは、「大海人皇子」の「妻」だった額田王は、ほんとうに、「中大兄皇子」と、恋をしたのだろうか。

 わたしは、「恋」ではなかったのではないかと、思っている。

 「中大兄皇子」は、「天智天皇」に即位するにあたって、額田王の、巫女としての高い「霊力」と、歌人としての実力、さらには、宴を盛り上げる文化人としての側面を、こころから切望したのではないか、と思うのだ。

 額田王が、彼の母親の「斉明天皇」を、巫女として、歌人として、ずっと支えてきたことを、中大兄皇子は、ごく近くで、見て来たはずだから。。

 「大津京」の遷都は、六六八年で、天智天皇は四十三歳、額田王は、すでに、三十五歳前後にはなっている。

 古代の女性の三十五歳は、現代だったら、もう、五十代くらいのイメージである。

 わたしは、「天智天皇」と「額田王」とのあいだにあったものは、お互いに、「王朝を支えたい気持ち」だったのではないか、と思っている。

 「天智天皇」は、「大津京」には、額田王の実力が必要だ、と考えて、自分の娘四人を差し出してまでも、「大海人皇子」から、額田王を、貰い受けたのだ。

 額田王も、そのおもいに応えて、「大津京」のために、生きたのだ、と思う。

 「天智天皇」と「額田王」のあいだに子どもはいない。だから、わたしは、二人の関係には、実は、男女の関わり合いなども、無かったのではないか、とさえ、思うのだ。

 額田王の「歌」は、女らしさをよそおいながらも、大変に、男気があって、豪快である。

 「天智天皇」の、臆病な一面を、額田王は、理解して、彼と王朝とを、陰ながら支えることに、尽力していたのではないだろうか。。

 「琵琶湖」から受け取った「大きな深い哀しみ」について、考えているうちに、わたしは、そんなふうに、感じている自分に気がついたのだった。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

  「白村江の戦い」の惨敗は、結果として、国防を強め、「大津京」への遷都を生んだ。

 そのことは、どんな「失敗」も、なにかを「生み出す」ことを、わたしたちに教えてくれる。

 「世紀の失策」は、「つらい思い出」だっただろうけれど、それでも、「大津京」の「宮廷文化」は、「額田王」を中心に据えて、確実に、花開こうとしていた。

 「天智天皇」となった「中大兄皇子」は、蒲生郡の匱さ野(ひっさの)と呼ばれた土地にも、「大津京」のような「都」を開こうとしていた痕跡も、ある。

 そこには、多くの渡来人が、すでに移住させられていて、あらたな文化圏が、生まれようとしていた。

  まだまだ、成し遂げたかったことが、たくさんたくさんあったはずだけれど、「大津京」は、たった五年で、「天智天皇の死」によって、終わりを告げる。

 そうして、その後に起きた「壬申の乱」によって、「大津京」は廃墟と化してしまうのだ。

 「額田王」の活躍する場所も、「天智天皇の死」によって、消えてしまった。

 成し遂げたかったけれども、成し遂げられなかった「天智天皇の哀しみ」は、今も、琵琶湖の湖畔を、彷徨い続けているのかもしれない。

 それを、

「すべては、終わったこと。。」

と、慰める「額田王のおもい」も、また、その近辺を、浮遊しているのだろう。。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「天智天皇」は、日本で初めて、「水時計」を作ったひと、である。

 「中大兄皇子」のころから、自分で、「水時計」を試作していて、「天智天皇」となった「大津京」で、完成させたのだ。

 そうして、「時計守」に、「水時計」を、交代で見はらせて、「鐘」で、「時」を告げさせていたらしい。

 「大津京」の人びとは、「朝廷」が告げる「時」に合わせて、合理的に行動していたという。

 これは、古代としては、かなり、画期的なことだ。

「大津京」が、はじめて「時」を告げた日は、そのころの暦によれば、「六七一年」の「四月二十五日」なのだけれど、現代のグレゴリオ暦に直すと「六月十日」なので、「六月十日」が、今でも、「時の記念日」とされているのである。

 「天智天皇」は、「時計」が、とても、好きだったらしい。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「むべなるかな。」

 むべの実は、どんな味がするのだろう。。

 わたしのイメージでは、きっと、ほんのり、甘いはずだ。

 調べると、種が多く、食べるところが、案外少ない、と説明されている。

 甘すぎる果物は、苦手なわたしは、グレープフルーツが、一番好きだけれど、びわやいちじくも、好きだったりする。

 食感が変わっていて、あんまり甘くない果物がすきだから、なんとなく、むべの実も、好きなような気がする。

 美味しいものを食べたときは、ひとは、思わず、にっこりしてしまう。

 額田王も、むべの実を食べたのだろうか。

 そうして、天智天皇と、にっこり、笑い合ったりしたのだろうか。

 古代へのおもいは、尽きない。。

 そのうち、また、「琵琶湖」を、感じに、行きたいな。

 また、「大きな深い哀しみ」が、襲って来るのだろうか。

 それとも、少しは理解を深めたわたしを、歓迎してくれたり、するだろうか。。

 わたしのたましいは、どうにも、まだまだ、あの土地を、欲して止まない。

 まだまだ、巡って廻りたい、のだ。


 〈参考文献〉

※「大津京と万葉歌」 天智天皇と額田  王の時代 林博通著 鈴木靖将画 
新潮社 二〇一五年四月六日

※「白村江」 古代東アジア大戦の謎  遠山美都男著 講談社現代新書 
 一九九七年十月二十日


※「天皇と日本の起源」  
 「飛鳥の大王」の謎を解く 
  遠山美都男著  講談社現代新書
  二〇〇三年二月二十日

※人物叢書「額田王」直木孝次郎著  吉川弘文館 二〇〇七年十二月十日

※「額田王の謎」「あかねさす」に秘められた衝撃のメッセージ 梅沢恵美子    PHP文庫二〇〇三年 八月十八日

※〈不老長寿〉伝説の霊果むべ 
HP:http://www.nube.jp/

 



























































































































































































 
  ※参考文献

※「大津京と万葉歌」天智天皇と額田王の時代 林博通著 鈴木靖将画 
新潮社 二〇一五年四月六日

※「白村江」 古代東アジア大戦の謎
遠山美都男著 講談社現代新書 
一九九七年十月二十日

※「額田王の謎」「あかねさす」に秘められた衝撃のメッセージ 梅沢恵美子 PHP文庫 二〇〇三年 八月十八日

 





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