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読んでないのか、それとも読めないのか
文章が読めない テキストベースで仕事していると、相手に思った通りに意図が伝わっていないということがよくあります。
これは、コミュニケーションにおいて非常に一般的な問題です。コミュニケーションは、単に言葉を交換するだけではなく、コンテキスト、表情、トーン、身振り、文化的背景など、多くの要素に影響を受けます。特に、テキストベースでコミュニケーションをする場合、これらの要素が欠落するため、相手に自分
映画の感想『イニシェリン島の精霊』
『イニシェリン島の精霊』という映画を公開日に観賞してきたので、note に投稿しようと思います。公開日に映画を観ることは人生初めてのことで、とても贅沢な気分を味わいました。映画の内容にとても心を動かされてしまい、いろいろ覚え書きしていたら、感想というより考察のようなものになってしまったので、途中からネタバレ有りになります。
#映画感想文 #イニシェリン島の精霊
あらすじ登場人物
パードリッ
フレンチ・ディスパッチ
#映画感想文
コンクリートの名作モーゼス・ローゼンターラーと看守シモーヌ
ローゼンターラーは精神疾患を患っており、極めて猟奇的な殺人を犯している狂人である。同時に、劇中では描かれることはなかったが、同性愛者であると考えられる。
その内実を見てみる。
同性愛
①ローゼンターラーがある囚人の部屋の部屋を訪れるシーンがある。囚人は正面を見ている。画面越しに我々を見ているが、この男が実際に見つめてい
あしたのパスタはアルデンテ
#映画感想文
あらすじ主人公はイタリアのとある田舎町にあるパスタ製造工場社長の息子である。息子には兄妹が数人いて、兄が跡取り息子として工場を仕切っていた。トンマーゾはカントーネ家の次男として兄と一緒に父親から共同経営を引き継ぐことになっていたが、トンマーゾには誰にも言えない秘密があった。
トンマーゾは作家になりたいこと、ローマに戻るつもりであること、最後にゲイであることを兄のアントニオに打ち明け
是枝裕和『ベイビー・ブローカー』
#映画感想文
登場人物
サンヒョン、ドンス、ソヨン、
ウソン、ヘジン
アン・スジン刑事、イ刑事
各パート雨の中、ソヨンがウソンを捨てるところから始まる。雨のメタファー①
ベイビー・ブローカーのBOXには入れない
BOXは教会に続いている。中に子どもを入れておけば死ぬことはない。その後は教会直属の保育園、施設で育てられる。
アン・スジン刑事がウソンをBOXに入れる。
ソヨンがベイビー・ブロ
濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』
#映画感想文
登場人物:
家福、音、みさき、韓国人(以下K)、高槻、韓国手話、女性俳優、その他
各構成
音が死ぬまで
家福、音のセックスシーン
家福は音の語りを聞いている
夢見つつの中、物語は語られる
音の夢と物語
物語は車の中で再生産される、家福の口から音の中に再び戻っていくのだ。物語は反芻され、音から新しいかたちとして発せられる。
家福の演劇、音が控室に訪れ、高槻を紹介する。音
マルクス・ガブリエル「新実存主義」
存在論とは:存在者を存在させる存在なるものの意味や根本規定について取り組む
唯物論…観念や精神、心などの根底には物質があると考えている
観念論…われわれの精神世界だけをこの世界の本源的な存在とし、外界は、われわれが自己の精神的存在すなわち観念で認めた、仮象の世界にすぎないとする認識論
ドイツの批判主義 ── 批判=吟味する
カント ── 批判哲学の立場から理性を吟味した。経験論、合理論を統
ホモサケル第二章第三章
第二章 ホモ・サケル
[オピニオン]呪われた人間、聖なる人間 : 東亜日報
古代ローマ法には「ホモ・サケル」という特異な人間が存在した。ラテン語で「聖なる人間」という意味だが、実は正反対だ。人々が犯罪者と判定したので彼を殺しても殺人罪で処罰されない「呪われた人間」だからだ。古代ローマの思想家をはじめ、多くの西欧学者にとって大きな謎だった。どうして呪われた人間が聖なる人間と呼ばれるのか?
ホモ
『ホモ・サケル』第一章 主権の論理②
締め出し:ジャン・リュック・ナンシー
法自体のないところで法を維持し、自らを適用から外すことによって自らを適用する、法の潜勢力。例外関係はひとつの締め出しの関係であるといえる。
主権者たるノモス
P49:「ヘシオドスにおいては、ノモスは暴力と法権利、野獣の世界と人間の世界とを分かつ権力である。ソロンにおいては暴力と正義の「つながり」は両義性も皮肉も含んでいない。それに対して、ピンダロスにおいては
『ホモ・サケル』第一章 主権の論理①
アガンベンの主張
P18:「近代の民主主義を古典時代の民主主義と比べて特徴づけるものがあるとすれば、それは近代民主主義がはじめからゾーエーの権利要求および解放として姿を現すこと」
としており、これは近代民主主義が剥き出しの生そのものを、普遍的な生の形式へと変容させようとしていることを示唆している。
これは恒常的にゾーエーのビオスを見出そうとしている。
ゾーエーは生物的な生なのに、その中に本来の政