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アダム・スミス『道徳感情論』第一部②

第二編 適合性と両立するさまざまな激情(passion)の程度について

この序論はたった数行で短い論考だが、この書物を通して貴重なことが述べられている。
P62「我々が関係する対象によって呼び覚まされるあらゆる激情の適合性は、つまり、観衆が同調できるピッチ(高さ)はある種の中庸にあるはずだ、ということは明瞭である。仮に激情が高すぎたり低すぎたりすれば、観衆はそれを汲み取ることができない。たとえば、個人的な不運や不当な扱いに対する悲嘆や怒りは、いとも簡単に高くなりすぎるが、これは、ほとんどすべての人間について妥当する」

前章で、他者と同じ悲哀を同一のものとして理解することはできないが、同情はできる。そして、その同情は、society における交友により、社会調和の礎となるだろうということが語られている。
では、その同情の適合性とは、激情をどうコントロールしているのだろうか。
他者は他者として自身の同情を持っていて、それが society という観念上で、いわゆる「神の見えざる手」により、他者の自我と適合する。これが社会の調和である。ここでは、この調和できる状態のことを、「観衆が同調できるピッチ」すなわち激情が強い、低いというこの高低を比喩として中庸であると論じられている。

柄谷行人『探求Ⅰ』

柄谷行人の『探求Ⅰ』の第一章では、「他者とは何か」が論じられている。
そこでは、ウィトゲンシュタインを例にだして、「語るー聞く」というレベルで教えている哲学や理論を無効にするために、不可欠な他者を見いだす。結論からいうと、他者に何かを伝えるとき、「語るー聞く」から「学ぶー教える」という関係において、言語を捉えなければ、他者は他者としてあらわれないということを示唆している。どういうことだろうか。

「語る」とき、私たちは本当に他者に語っているといえるだろうか。もう少し砕けた言い方をすると、私たちは何かしらの体系めいたもの、論文やビジネスといったものを話すときに、それは他者を前提にしているか、ということだろう。
ここで柄谷は、P10:「一般的に哲学そのものが「内省(モノローグ)」にはじまっているといってよい」と指摘している。つまり私たちは「語る」とき、私たちの音の発生を「聞い」ているのであり、それは「語るー聞く」の立場にたっている。「語る」とき、他者に語っていると思いがちであり、実際にはそうであるに違いないが、それは私自身の体系を発しているにすぎない。ここでは「内部」に閉じ込められていると論じられているが、他者が不在のまま、他者に語りかけており、「語る」ことでその音の発生を私自身が「聞い」ていることになる。
ここから「教える」立場への態度を変更することで、他者の他者性と接することが始まる。

哲学は内省から始まる。それは言い直すと、我々の「語る」ことは全て一人語りから始まる自己対話である。それは他者が自分と同質であることを前提にすることだ。柄谷は、特にプラトンの弁証法においてもこれが典型的に見られるという。そこでは、ソクラテスは、相手と「共同で真理を探求する」ようによびかける。プラトンの弁証法は対話の体裁をとっているけれども、対話ではない。そこには他者がいないのだ。

ここで、先のアダム・スミスの中庸の考えに戻る。
アダム・スミスは、社会の調和を、他者との激情の中庸に見ていた。これは、共感を呼び起こす激情の高低さが、その深度により、相手に理解が得られず、それでは社会の調和はとれないということである。つまり、激情の高低さを自己の蓋然性により導くことは、柄谷のいう「語るー聞く」のレベルにとどまっている。それは、自己の中の他者と対話をしているにすぎず、哲学でいう「内省」にとどまっているということだ。

アダム・スミスはいう。「その同情は、society における交友により」これはつまり他者との対話を前提にしている。柄谷のいう「教えるー学ぶ」のレベルの関係である。では、「語るー聞く」のレベルから「教えるー学ぶ」への移行には、それまでとは何が違うのだろうか。ここで、アダム・スミスの中庸の考えが引用される。
教えるー学ぶ」の関係では他者の他者性を前提にしているため、激情の高低さを自己本位に導くと他者には伝わらないということがある。だからこそ、激情の高低を理性により中庸へと寄せる。中庸へと寄せるということは、「教えるー学ぶ」のレベルの関係に他ならない。「教えるー学ぶ」の関係は他者を前提にしているため、「内省」の対話では通じず、society における交友により、他者との対話でなければならない。まさにこれが社会の調和をもたらす理性の激情のコントロールであり、神の見えざる手、社会調和の礎に他ならない。

神の見えざる手により社会の調和を導くには、ウィトゲンシュタインのいう言語ゲーム内で「内省」との対話をしていてはいつまでも他者を前提にすることはできない。アダム・スミスは、他者性、いいかえると、『探求Ⅰ』でいわれている他者との差異性から出発したわけである。そして、他者との対話を前提にすることは、デカルト同様に、主体の外部へ出ようとする意志である。それをデカルトは「精神」とよぶ。

※柄谷がいうに、デカルト主義は、この「疑う主体」=他者の他者性を前提にする「教えるー学ぶ」関係を、「思考主体」=「語るー聞く」と同一視していると指摘する。
ちなみに、マルクスは「教えるー学ぶ」を「交通(コミュニケーション)」の場所として定義する。

逆にいうと、社会の調和たるものは、自己本位では導かれない。それは「神の見えざる手」が自己利益を求める資本家で社会調和が導かれないことを意味する。逆説的だが、他者との対話を前提にしなければ、「神の見えざる手」の力は働かないということである。


第三篇 行為の適合性をめぐる人間の判断に及ぼす繁栄と逆境の影響について

第一章 悲哀と当事者
悲哀については前章でも語られたように、ここではより具体的に悲哀はたしかに強い共感を与えることはあるが、当然それは当事者の悲哀には届くことがないということが語られる。なぜなら、悲哀の感情とはいっても、当事者と同一性を持つことができるわけではなく、強い共感の激情も観念上の錯覚にすぎない。当事者には身体的な痛みがともなうが、他者には観念しか伴わず、しかるに瞬間的な悲哀の感情しか得られることはない。


第二章 功名心の起源について、すなわち、身分の区分について
前章の最後では、アダム・スミスの是認の感情について語られた。他者に対して、悲哀の感情しか得られることはないが、しかし、情動は常に保持されてそこにある。

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