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積読理性

 外苑から見る丸の内のビルがホントにきれい。
 久しぶりに日記をアップしてみます。1000文字くらいかな。

最後まで読めない……

 難しい本ばかり読んでいると、頭が痛くなります。膨大な量の論文読んでいたりしても同じで、さらに目も疲れます。早く解放されたいと思って読むスピードを早めるのですが、それでも終わりが見えてこない時は、段落飛ばしで読み、挙句の果てに結論だけ読んだりします。よくないよね、と親切そうな気持ちがよぎります。もちろんよくないことは分かっているわけですが、しかしいつの頃からか、それでも読んだことにするという謎の心的動作があらわれるようになりました。アブストラクトだけ読んで論文のブラウザを閉じたり、結論だけ読んで本を閉じちゃったりすると、よくないよねという純真さと、いやいいんじゃね? という投げやりな感じが共存します。

 不思議なことに二つは対立しているわけではなく、その理由についてずっと考えていたのですが、なんとなく購入したからかなぁ?と最近思いました。


 カントの『純粋理性批判』という難解な哲学書で知られる本があるのですが、若い頃に上下二冊購入して、上巻の半分ほど読んで意味が分からず途中で投げ出した経験があります。そして、この上下本をそれから一度も開かずに10年くらい本棚の片隅に並べていました。他の哲学書を読んでいたらカント先生の名前は浴びるように出てきますので、一度くらいは開けやと思うのですが、手を伸ばすのは面倒なのでそのままでした。ただ、他の書物でカント先生の名前が出てくるたびに、部屋の片隅にある『純粋理性批判』に目がいきました。数年たってからは読みもしないのに『判断力批判』と『実践理性批判』を購入しましたので、片隅にはそれらも追加され並びました。ああ、なんて後ろぐらい……


夏目漱石「笑う猫」モチーフ像
東京都豊島区目白

背表紙から意志

 しかし、10年くらいたつと、不思議なもので、背表紙しか読んでいないのに「理性批判はこんな感じの本だったよなぁ」という感じになってきました。感じになってきたというのは、そういうふうに考えても違和感を覚えなくなったということです。積読も悪くないのか、なんて思い始めたのもそのころです。

 購入して本棚に並べるというのが大事なんて話も聞いたことがあります。とにかく買うのだと。読まなくても買っておくのだと。時々、背表紙を眺めてると頭の中に本の内容が入ってくるのだと。ほんとかいな?
 でも、そういうわけで、結論だけ読んで閉じた本も、よくないよねぇと思いつつ、それでもいいよと思ったりします。所有してることに価値があると思っているのかもしれません。所有にそういう効果というか機能があるのかもしれませんね。不思議です。論文も同じように、ダウンロードするという行為が所有しているということなっているのかも。

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