見出し画像

『ホモ・サケル』第一章 主権の論理①

アガンベンの主張

P18:「近代の民主主義を古典時代の民主主義と比べて特徴づけるものがあるとすれば、それは近代民主主義がはじめからゾーエーの権利要求および解放として姿を現すこと」
としており、これは近代民主主義が剥き出しの生そのものを、普遍的な生の形式へと変容させようとしていることを示唆している。
これは恒常的にゾーエーのビオスを見出そうとしている。

ゾーエーは生物的な生なのに、その中に本来の政治的、社会的な生であるビオスがあると信じようとしている。生の形式の定義として剥き出しの生が普遍化されようとしているこの危機に対しての訴え。
生きがいの図では、ハンナ・アーレントのいう活動が軸に置かれる。私たちは社会的な(もしくは政治的な)アクションを考えて実行することに喜びを感じるし、それを考えることが人格が熟していくという通念がある。しかし現在おこっていることはアクションとレイバーの近接近である。生きがいとは何なのか? と問われると「仕事」、「仕事のなかの何か」を考え、言語化することが多くなってしまった。私たちの感性は非常に貧しい。本来、労働とは剥き出しの生に他ならないものであり、社会的な生こそがわたしたちが生きがいと感じるべきものである。しかし、その社会的な〇〇を考えることができないどころか、ワークやレイバーとつなげて話をしてしまうアクションに疑問を持たなくなってしまった。
そしてアガンベンはここからまた近代民主主義に特有のアポリアが生じているとしている。すなわち、人間の隷従をしるしづけた場そのもの ── 「剥き出しの生」において人間の自由と幸福とを賭ける、というアポリア。
もはやビオスはなくなり、ゾーエーだけが残る。そのゾーエーだけで人間の自由と幸福を考えていくということだろう。アクションとレイバーの区別はなくなり、仕事から考える幸福、幸福的な仕事、自由な活動ができる仕事という生きがいをゾーエーの中だけで考えることを余儀なくされてしまった私たちのこの民主主義の時代の本質がここにある。

カール・シュミット:主権は例外に関する決定

ここでいう決定とは、ノモス(=法、掟など)の内に、ノモスに意味を与える外部を書き込む(作り出す)ということである。主権者は合法、違法を決定しているわけではなく、それは自ずと決められる。それよりも彼が決定するのは、生きものを法権利の圏域に原初的に内包することであり、それはシュミットの用語でいえば、法の必要とする「生の諸関係の通常の構造化」である。決定は権利上の問題にも事実上の問題にもかかわりがない。決定がかかわるのは、法権利と事実のあいだの関係そのものである

シュミットは法権利の圏域を決定する際に使う「生の諸関係の通常の構造化」、これはどういうことだろうか?
主権とは何か?と問うたとき、まず主権の外側の認識されない部分の線引きから始めなくてはいけない。それは主権が及ぶ範囲と及ぼすことのできない範囲の線引きに違いない。だからこそ例外状態において最大限に法権利が及ぶ様相を考え、主権の宙吊り状態を作り出すことにより主権の及ぶ範囲の決定が可能というわけである。
シュミットはこの構造そのものを「生の諸関係」にも転倒させている。そして生そのものもこの構造を定常に行っていることはおそらく正しい。
事象について述べる際、わたしたちはその外側とは区別して物事を考えたり、話をしたりする。普段は意識していないが、わたしたちの言語はそれを無意識で行うことができる。言語ひとつとってもそうだろう。アガンベンはアラン・バティウについて言及しているが、ここでは通常の集合論について考えてみたい。
集合論では、所属と包含を区別する。ある項が、そのすべての要素が別の集合の要素であるという意味で、その別の集合の部分をなすとき、そこには包含がある。そこでは B は A の部分集合であると言い、 B ⊂ A と書く。この際、すでに A 以外のものは疎外されているし、 B 以外のものは疎外されているし、その疎外することにより、A と B を規定することができている。さらに、A と B の関係そのものを記述することにより、A と B のそれぞれについてさらに詳述が可能となっている。A について規定する際、我々は A とその周囲との差異を規定することにより、A を規定することが可能だということだ。

なおアガンベンはそれだけが問題なのではないといっている。
さらに、法のもっと内奥の本性にかかわる何かが問題だと。
※「規範」イタリア語で norma は定規というもともとの意味をもっている

アガンベンからすると問題は剥き出しの生である。ここで言いたいことは次の一説だと考える。「ここでは事実が排除されることによって法的秩序に包含され、違犯は合法な事例に先行して合法な事例を規定しているように思われる」つまりアガンベンがいいたいのは、法的秩序がもともとは違犯事実の制裁のために定立され、その罰則や報復を与えることを目的として立ち上がってくるのではなく、むしろ何らの制裁もない行為の反復を通じて、例外事例として、事象や物事を疎外することによりその内側の自らを構成しているということだ
そして、剥き出しの生がテーマである本書では、それはもはや違反行為の処罰ではない。それは、違反行為を法的秩序へと包含することであり、つまり、暴力を本源的な法的事実として法的秩序へと包含することである
※アガンベン自身も、剥き出しの生は法的規範にしか見られない特徴ではなく、この排他的特徴はあらゆることに関して述べられるとしている。

P43:「法権利の圏域にこうしてしばりつけられ内包された生は、つまるところ、包含されるというしかたで排除されるという前提によってのみ、したがって例外化においてのみ、法権利の圏域に内包されうる。ここにあるのは生の限界形象であり、生が法的秩序の内部と外部に同時にある、その境界線である。この境界線が主権の場なのである」
したがって、「規則は例外があって生きる」という肯定は文字どおりに受け取らなければならない。法権利は、法権利が例外化の排他的包含によって自分の内に捉えることのできる以外の生をもたない。法権利は例外によって養われるのであり、例外がなければ死文である。
この意味で、法権利はまさしく、「それ自体に対してはいかなる実在をもたないが、その本質は人間の生そのもの」なのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?